生活知と近代宗教運動―牧口常三郎の教育思想と信仰(2)

河合隼雄他編『岩波講座宗教と科学5 宗教と社会科学』岩波書店,1992年12月、212‐244ページ

二  牧口常三郎の生活知開発思想

 牧口の二つの大著『人生地理学』(一九〇三年)と『創価教育学体系』(一九三〇―三四年)を比べてみると、牧口常三郎の思想や学問的関心には大きな変化があったように見える。前者は地理学の書物であり、後者は教育学、教育行政に関する書物である。前者には「価値論」や「価値創造」への言及はなく、後者では人間と環境との関わりに関する思考は目だっていない。北海道で地理を教えていた牧口と、東京で郷土会に加わったり、新カント派やデュルケムの思想に触れたり、大正デモクラシーの空気を吸ったり、教育行政の現場に立ち合った後の牧口との間には、大きな隔たりがあるように思われるかもしれない。


 しかし牧口にはもう一つの主著『教授の統合中心としての郷土科研究』(一九一二年)(以下『郷土科研究』と略す)がある。この書物を手がかりにすると、牧口の思想や学問的関心の一貫性がよくわかる。『人生地理学』以来、つねに現場の視点から生活教育、あるいは生活知開発に向き合い続けてきた人物、そして強い信念と思索力と行動力をもった実践的思想家の像が浮かび上がってくる。
 この本は、学校教育に「郷土科」という科目を取り入れる必要を訴え、その科目の授業内容を詳しく提示しようとしたものである。郷土科とは学校と生徒の住む地域の環境を素材とする科目である。しかし、それは社会科の中の一分科ではない。地域社会の地理や歴史や政治等について知識を伝えようとするものではない。そうではなくて、直接見聞し、体験できる身の回りの環境を通して、あらゆる知識や観念の基礎を養おうとする科目である。したがって、それは国語や算数や社会科や理科や修身科と並ぶ、もう一つの科目なのではない。それぞれの分野の知識はばらばらの特殊領域の知識として教えられるだけではなく、子供の生活の場において、子供自身の側から統合的に学ばれなければならない。そのような統合の中心に位置する科目、すなわち「教授の統合中心」が郷土科である。
 郷土科では自然現象、文化現象のすべてにわたって、生徒の自発的観察による学習が行われる。この科目は何を学ぶかによってよりも、どのように学ぶかによって特徴づけられる。郷土科は原則として校外学習、今風にいえばフィールド・ワークである。「書を捨てて、野に(村に、街に)出」るのである。そして、そこでは、教師が「児童のなすべき仕事の領域を蚕食」してはいけない。「人為的に邪魔をし」(『全集』三、二三五頁)て知識を教え込むことはせずに、「小共が自発の活動で造化の神髄に軽快に触接(ママ)する様に直観せしむることが肝要」である。「決して余計な世話はせずともよろしい、唯だ観察点だけを指示してやるのであります」(同、二三七頁)。
 面白いのは「国家社会の為めに尽したる偉人傑士」とは何かを学ぶという例である。日清戦争で「ラッパヲクチニアテタママ」戦死したラッパ兵、木(き)口(ぐち)小(こ)平(へい)の例が挙げられた後、修身科教育への痛烈な批評が続く。
 「郷土に於ける自然界、人事界の複雑美(ママ)妙なる関係を知るにあらずして国家社会の複雑美妙なる関係が解りませうか。国家社会の関係を認識することの出来ぬものに、国家社会の為めに尽したる偉人傑士の性格が解るものでせうか。偉人傑士の性格が解らぬものに其の感化を受けさせられませうか。
 又、修身科に於て挙げたる模範的人物などは、其の活動せる舞台と背景との観念の出来ぬ内は了解し得るものではありません。例へば谷村計介(西南戦争で官軍側の連絡員となった「忠君愛国」の英雄――島薗注)のことにせよ。(ママ)賊とは何ぞ、しろとは何ぞ、かこんだとは如何、なんぎ、遂げた結果は如何、等。
 これ等は一度児童に戦争ごっこの勇壮なる遊戯でも観察させて、これによりつ(ママ)て、かこむ、官軍、賊軍、使等の性質、任務等を直観させ、之れと名称とを連絡させ、そして尚ほ一個人の行動の善悪が直接、間接に其の共同生活全体に如何なる影響を及ぼすか等をも直観させ、此等の観念によりて背景を児童の脳髄の内に画かせない以上は到底了解し得るものではありませぬ」(同、二九―三〇頁)。
 こうして体得された「基礎観念」が他の教科の学習の基礎となる。また、このような体得の場である郷土科は、他教科の学習を応用する恰好の場ともなる。したがって郷土科の設置を提言することは、新しい一科目の付加を提言するにとどまらず、カリキュラム全体の改革を提言することになる。郷土科が教育の中心となり、そのまわりにに他の諸科目が配置されることになるからである(図1)。事実、牧口の郷土科案は、戦後、教育学者によって「わが国におけるコア・カリキュラム的教育課程論の最初の文献として記念すべきもの」と評価されている(8)。

    [図1]略

 もっとも郷土科の考え方は、まったく牧口の独創によるものなのではない。ドイツでは早<からこの科目が試みられていた。わが国でも牧口がこの本を書いた当時、すでに東京高等師範学校の付属小学校では試みられていた。その後、昭和に入って自発的な郷土科教育の試みも起り、政府も郷土科の取り入れに積極的になる。ただし、政府主導の郷土科は牧口の考える郷土科構想とは大きく異なるものだったようである。牧口の郷土科構想は、ラディカルな教育埋念に基づく、根本的な教育改革構想としての性格をもっていたからである。
 では、牧口の郷土科構想はどのような教育理念に基づくものだったのだろうか。『郷土科研究』は郷土科の必要な理由を次のように論じている。
 「今の世に論語孟子の様なものを学校の教科に持ち込むものがあつたなら誰れか其の陳腐を笑はないものがありませう。云ふまでもなく児童の心力の了解程度に対して余りに懸隔が甚しいからであります。果して然らばといふ前提を以て、今の教科書の内容と其の教授との実際を精査するとき其の五十歩百歩の事柄の多いのに驚かずには居られますまい。(中略)近来諸般の方面は進歩したるに拘らず、教授界に於ては今尚ほ基礎的観念の不整頓な、根底の薄弱な帰終点の不緊縮な、従つて児童の実際的生活に接触ない、砂上の楼閣の様な教授が大部分を占めて居はせぬかと言はざるを得ないのであります」(同、三―四頁)。
 試みに『尋常小学地理』の教科書を見てみよう。そこには冒頭から「大日本帝国」の題目のもとに、「わが国の位置、成立、広袤(こうぼう)」「気候、産物、住民」「行政上の区分」「地勢上の区分」などの難しい地理用語がずらずら登場する。
 「郷土に於ける土地と人生、自然界と社会等の複雑多方面の直接観察によりて然る後に初めて把捉せらるべき家庭、学校、町村等の人格的有機体を認識せしむることなしに如何にして国家、帝国なる観念を真(まつ)とうに与へることが出来ませうか。学校、家庭、町村等の種々なる方面に対する関係的位置を郷土観察によりて直観せしむることなしに如何にして国の位置なる観念を与へることが出来ませうか。学校、家庭、町村等が種々の要素より成立ち、夫によつて生物体と同じ様の活動をなしつゝあることの直観によつて初めて成立といふ代表語の意味を了解すべきものなるが故に其の準備的作業なしに如何にして帝国の成立ちの観念を得させることが出来ませうか。広袤(こうぼう)も気候も、産物も住民も、行政も区劃も其の通。要するに郷土科の秩序的啓発なしには地理科の一課だも容易に教授し得べきものではない筈であります」(同、一八―九頁)。
 このような主張の背後には、子供に対して外から概念や論理を押しつけるのではなく、子供自身が自発的に自ら環境を観察し、行動しながら学習し、さらに得た知識の応用の可能性を考えていくべきだという教育観がある。こうした教育観を述べる際のキー・タームが「直観」「基礎観念」「生活に対する関係」などである。郷土科は直観科ともよばれることがあった。
 これらの語や句を用いて、郷土科を定義すると次のようになる。「既にあり余る所の直観的の基礎観念群を整理しつゝ、更に新鮮にし、明確にしてやると共に、多少の増補訂正をしてやる所の、一の連続的の組織立つた作業」(同、四二―四三頁)あるいは「児童の直接観察の及ぼし得べき範囲内といふ特殊の意義に限定した郷土の自然人文両界に亘れる諸現象に、他の人為的の媒介若くは障壁なしに児童を親近させ、そして児童をして其の生活に対する多方面の関係点を認識させ、以つて彼等より広き世界を了解する素地を造り、兼ねて、広き世界を了解するにより得たる理想を実現するの舞台を明らかにする教科目である……」(同、一〇四頁)。
 「生活に対する関係」というような語は、次のようなスペンサーの発言を思い起させる。「われわれの学校の教育課程がほとんどまったくなおざりにしているのは、生活の実務にもっとも近い関係をもつところのものである」(9)。また、「直観」や「基礎観念」の語はペスタロッチの「直観」や「基礎教育」の考え方と明らかに関わりがある。
 「直観」は近代教育思想のもっとも重要な概念の一つである。直観を重んじる直観主義の教育理念はコメニウスやルソーによって発展させられ、ペスタロッチにおいて思想的に大きな広がりをもつとともに、教育実践に直ちに適用されるような具体性を帯びるに至った。直観主義は書物中心、大人中心の教え込む教育に対して、子供自身が自らの活動を通じて事物や環境を直観することを重んじる教育の考え方を指す。書物に記された概念や「事実」を教師の語るままに間接的かつ受動的に受け取っていくのでは、感じとり、考え、行動していく人間精神の自発的能力は養われない。それに対して、子供の生命に内在するものを信頼し、それらを十二分に引き出し、開発するために、子供自身による自発的直接的学習を押し進めようとするのが直観教育である。
 ペスタロッチの思想において「直観」はきわめて重要な位置を占めていた(10)。とくにペスタロッチの場合、教育が自己活動に根ざしたものであるべきことを強調し、直観もそのようなものとして捉えている点、また、直観が単に外面的な感性的知覚にとどまるのではなく、内面的体験としての性格ももった全人格的認識であると捉えている点に特徴があるとされる。近代日本の教育思想の形成期に、ペスタロッチらによる直観主義の考え方は強い影響を与えた。たとえば、ページ著、カステール訳『彼日(ページ)氏教授論』(一八七六年)、若林虎三郎・白井毅編『改正教授術』(一八八三年)、シェルドン著、永田健助訳『塞児敦(シエルドン)氏庶物指数』(一八八五年)、ジョホノット著、有賀長雄訳『如(ジヨ)氏教育学』(一八八五年)などは、ペスタロッチ的な直観教育の理念を援用した教育学書として影響力があったと言われる。
 一八九一年に北海道尋常師範学校の三年に編入した牧口が、これらの書物の考え方に親しんだことは十分に推測されるところである。これらの書物の中では「庶物指教」や「開発教授」が提唱されているが、これらの語は牧口の著作の中では、「実物教育」「開発主義」といった語でたびたび現れている。また、『創価教育学体系』で労働をしながら学ぶ「半日学校制度」を提唱しているが、これはペスタロッチの「労作教育」の考え方と明らかに関わりがあるであろう。
 ただし、牧口においては、「直観」の語はペスタロッチ的な、やや難解な哲学的ニュアンスは薄らぎ、平明な意味でしばしば「直接観察」の語に置き換えられて用いられている。そして、「直接観察」によりつかんだ環境の特性を「類化作用」により一般化し、「基礎的観念」を養っていくというように、実際的な認識能力として「直観」を捉えている。これはペスタロッチの「直観」がその後の教育学者により、また日本で消化される過程で平明化されたということもあり、牧口自身の思考法の特徴にもよるであろう。加えてスペンサーの功利主義的進化主義的教育論の影響と見ることもできる。スペンサーの教育論も、スペンサー著、尺振八訳『斯(ス)氏教育論』(一八八〇年)や先のジョホノットの『如氏教育学』によってペスタロッチの教育思想に並ぶ大きな影響を及ぼしたと言われる(12)。
 スペンサーの『教育論』は、冒頭から「どのような知識がもっとも価値があるのか」を論じている。そして伝統的な教育は社会的地位を守るという動機に発し、権威づけのための装飾に偏した知識であるとし、それに対して真に個人の幸福に役立つ知識とは何かを問うている。「価値」を問い、「利」を重んじる牧口の発想に大きな影響を与えたと思われる点である。スペンサーは続いて、従米の教育は他人の観念の受動的な受け手になることを奨励するものであり、これに対して自ら正確に観察し、自立的に思考する能力と、環境に応じて知識を応用できる技術が養われなければならないと論じている。これらは「直観」の理念と大幅に重なる主張である。
 このように見てくると、牧口の思考の枠組みは、明治中期の日本で影響力をもった欧米の近代教育思潮、とりわけペスタロッチとスペンサーのそれに大きな影響を受けたものであることが明らかである。しかし、牧口の場合、それらを単に知識や観念的思想として学びとったわけではない。彼が置かれた教育実践の現場に即した生涯の経験的思索によって、それらを練り上げて身についた思想に高めていった。牧口は日本の地理学史や教育学史上に多大の足跡を残した学者であった。その意味で大きな知的能力と学問的構想力をもった人物であった。がまた、教育の実践家として初等教育に携わり、教育の改革に情熱を燃やす人物でもあった。その教育実践家としての位置から見て、地理学や教育学の書物に不満があり、現在の教育制度に根源的な批判をもった。
 この現場からの発想こそ「郷土科教育」の提唱の背後にあるものであり、人間の生活の実際に関わりながら地理を考えさせる『人生地理学』の叙述の背後にあるものであり、幸福な生活のための価値創造の教育を目指す『創価教育学体系』の背後にあるものである。試みに『人生地理学』と『創価教育学体系』両著の冒頭から一部を引こう。
 「地と人との関係や、言ふ迄もなく非常なる大問題に属せり。啻(ただ)に範囲に於て然るのみならず、深遠の程度に於ても、殆んど量るべからざるものあり。従つて同時に至難の間題たるや又論を俟たず。然りと雖も、少しく其性質に考慮を回らすときは、これ決して吾人日常の生活に疎遠の問題にあらざるのみか、吾人が尖際に孜々(しし)営々解釈に熱中しつゝあるものなるを観るべし。否な啻に熱中しつゝあるのみならず、現に吾人は不知不識(しらずしらず)、不充分ながら相応に之が解釈をなして各自を此理法に適応せしめ、以て此世に生活しつゝあるを観るへし。(中略)請ふ吾人をして心意発動の自然の順序に随ひ、日常生活の最も卑近なる事実の観察よりして、徐(おもむ)ろに歩を進めしめよ」(『全集』一、一一―一二頁)。
 「古代の傭兵の様に、己が領分である教育社会にも一顧されない様な旧来の教育学を棄て、新しい教育学を実証的、科学的に蘇生せしめて、実際の教育生活に密接なる関係を保たせようとしたのがこの創価教育学である」(『全集』五、五頁)。
 「教育学を倫理学や心理学などの基礎科学の上に、蔓草の如き寄生的存在とするに甘んぜず、特有の研究対象を以て実際経験より生れ出で、学校家庭の教育生活に密接なる関係ある独立の科学に樹立せんとするのが、本篇の聊か期する所であるが、果して如何」(同、一一二頁)。
 生活実感から離れた教育に対して、生活実感に根ざした教育、生活知を開発していく教育を一歩一歩具体的に指し示していこうとする努力が教育者牧口の生涯を特徴づけている。
 「生活に根ざした教育」「生活知開発教育」こそ牧口の思考の基軸であった。だが、その「生活知開発教育」のあり方は、学校教育をどうするかという問題にとどまらず、地理学や教育学のような学問のあり方、あるいは教育行政を始めとする政治のあり方にも関わる内容をもっていた。「庶民の生活の現場からの発想」「生活知から発想」は、教育思想の形をとると同時に、社会における知のあり方の全体にも関わっている。教育思想家牧口は、ときに社会思想家牧口としての顔を見せる。
 牧口は民衆の自立に大きな期待をかけ、公共心ある市民が支える民主主義的社会を思い描いている。民衆の生活知が開発されなければならないのは、民衆の自立が可能になり、また民衆の自立が必要な時代になったからである。かつての時代には、人々は与えられた宗教的信仰を盲目的に受け入れ、学者の説にひたすら従っていた。また、為政者の言うがまま、命ずるままに生きてきた。しかし、理性の時代、立憲政治、平民政治(民主主義)の時代には自ら考え、判断し、行動することが要求されるし、それが可能になってきたとする。まず『創価教育学体系』の中から、社会の知識配分のあり方と真理観の変化に触れた部分を引こう。
 「従来学者ならざる一般人は、自分の頭脳では、とても六ケ敷い理屈は考へられないから、考へる事の上手な人、即ち学者として尊敬する人の考へを、無条件に承認し、これに服従するのが、生活上に間違いない方法であると、断念して生活して居る」(『全集』五、七七頁)。
 一方、学者の方では一般人の思考力を見くびって、なまじ自分の頭で考えるよりは、学者のいうままを信じよと言ってきた。こうして学者と無学者の間に大きな距離があり、一般人にはひたすら従順に信じることが勧められた時代が「信仰的模倣時代」である。
 「これに比して現在は教育の普及発達と共に、社会の大多数が、吾々は今や如何に崇拝する人格者の言でも、その云ふ事を何等の理解なしには承服することは、理性の上から出来ない様になつた。(中略)斯くして吾々は、如何なる偉人の言でも、軽々には信服しないと同時に、如何に賤しい無名の人の言でも、苟くも自分の経験と合致し、若しくは実験証明の挙げられたものには事の善悪得失の如何に拘らず、何人も素直に承認し、それに服従しなければならぬこととなつた」(『全集』五、七八頁)。
 ここには、啓蒙主義的な理性尊重と民衆の知的自立への希望が語られている。後者は、大衆自身による真理の獲得を訴える大衆主義的な、ないし文化民主主義的な思潮の現れと言える。そしてそれは霊友会や後の創価学会など新宗教に広<見られる体験主義の思想と明白な関わりがある(13)。
 大衆主義、ないし文化民主主義的な考え方は、政治的な民主主義とも結びつきうる。牧口の場合はその典型である。
 「民は知らしむべからず成るを楽しましむべしと云ふ思想は、専制国叉は専制時代に於ける為政者の方針である。之れに反して立憲国に於ては民と共に休戚を分ち、民に知らしめ、民と共に政事を為すと云ふのである。故に専制国に於ては民を全く奴隷視し、人格を殆んど認めず、只々従順に其の命令に服従せしむれば足ると云ふ状態である。之れに反して立憲国に於ては民に相当の人格を認め、之れを国家の相談相手と為し、其の輿論に従つて間違の無い政事を為さんとするのである。平民政治或は輿論政治と云ふ所以である。其れ故に今の我々の時代を昔に較べたならば昔は子供扱にされたものが、今は大人扱にされ、昔は他人扱にされて居たものが、今は相談相手の取扱を受くるに至つたのである。茲に於てか国民たるものゝ国家に対する義務、負担は非常に重大となつたのである」(『全集』四、一六頁)。
 このような新しい政治秩序に応じるために、国民教育が発展すること、国民の生活知が開発されることが何よりも必要と考えられた。そこに牧口が教育に託した熱い使命感があった。

三  生活知と価値判断

 1 知識と価値の間
 前節に引用した牧口の歴史観を見ると、牧口は根っからの世俗的合理主義者ないし啓蒙主義者だったのではないかと誤解されるかもしれない。確かに牧口は、終生科学と経験的実証的知識に信頼を寄せていた。また、理性を尊ぶという態度において一貫していた。しかし、だからといってこの時期までの牧口が近代科学的、世俗主義的世界観を信奉し、宗教に背中を向けていたということにはならない。事実、牧口はキリスト教会を訪ねたり、参禅したり、みそぎの行に加わるなど、宗教に少なからぬ関心を示していたようである。
 牧口が信頼していたのは、身近な生活から引き出され、その改善に結びつく経験的合理的生活知であった。では、そうした生活知はどのような価値観や世界観に結びつくのだろうか。牧口は早くから生活知の開発をめぐる思索に打ち込んだ。どのような知が優れているか、どうすればすぐれた知識を育てられるか、についてさまざまに考えてきた。しかし、生活知が全体として何を目指すのか、人生における究極の価値は何かという価値観問題、世界観問題が実は問われぬままに残されていたのである。
 『人生地理学』や『郷土科教育』では人間と環境(人と地)との関わりについて論じ、人間の生活に関わる知識、幸福な生活に資する知識が求められた。では、人間の生活は何を目指すものであり、幸福な生活とはどんなものなのだろうか。価値観が確立されてこそ、何を知るべきかがわかるのではないか。
 教育現場にとってはそれは迂遠な問いかもしれない。むしろ、どのような役に立つかこそ、生活者にふさわしい問いである。少なくとも子供にとってはそうであろう。子供に自発的に考えさせるとっかかりは、「何の役に立つか」を問うことである。「試に小児に聴いてごらんなさい、何んですの次ぎは何の役に立ちますかであります」(『全集』三、二三五頁)。たとえば郷土科の「動物界」の授業で、子供たちに自発的に直観させるための指導は次のように行う。
 「吾が郷には吾等の生活に関係する種々の動物――生き物が居るでせう、其の中には或は吾等の敵対となつて吾等に常に反抗し、吾等の生活に危害を加へるものがあり、又非常に有益に人間の件侶となつて居るものがあります。
 皆さんよ。吾々の郷土には種々なる鳥や、獣や、虫や、魚などが居て、常に吾等の生活に或は利益を与へ或は害毒を加えつゝあることに気が付くであらう。今日は此の方面を少しく観察して見ようと思ふ」(同、二三七頁)。
 牧口にとって生活知が目指すものは、まず有用性であった。ここにスペンサーらを介して吸収された功利主義的な思考を見て取ることもできよう。牧口がよく用いる言葉に「心力の経済」かある。彼は頭脳を効率よく用いることに大きな関心を払った。常に効率を念頭において生活を組織することが、幸福の大前提と考えていた節も見える。苦学力行して高度の知力を養った人物にふさわしい発想かもしれない。
 しかし、牧口の場合、有用性の重視はあくまで子供への教育の実際的配慮に基づくものだった。尊重される「利」は何よりも子供の関心を引き出すものとしての「利」である。牧口は「利」によって人生の目的が決定されると思っていたわけではなかった。有用性を尊ぶことは、価値観問題の出発点にすぎない。大正時代の牧口は、有用性を重んじるという考え方を基礎に置きつつ、それを越えた大きな問いに挑むようになる。生活知が究極的に何を目指すのか、どんな知がもっとも価値ある知なのかを考察していく。それは価値観、世界観に関わる問いであり、人間の生存の究極的意味への問いに発展する可能性をもつ。

 2 『創価教育学体系』の価値思想
 この問いを本格的に問うた研究の成果が、『創価教育学体系』には書き込まれている。この書物はあるべき教育の根幹となる価値観、世界観、学問観(知識観)はどのようなものであるかを明らかにし、それに基づいて現行の教育内容や教育制度の改革の提言を行ったものである。教育学の書物ではあるが、その背後に、実は究極的価値をめぐる問いが潜んでいる思想書である。
 この本で得られた答の一部は「価値論」の語で示され、これまでの多くの牧口論で彼の思想の中核に位置するものとして紹介されてきた(14)。当時、新カント派の哲学などにより、価値は「真善美」あるいは「真善美聖」によって要約されていた。しかし、牧口の考えでは真理は価値評価や価値創造以前のもので価値には関わらない。価値とは異なる認識のレベルに属するものであり、善や美とは別のカテゴリーのものだ。むしろ、善と美に並ぶ価値としては「利」があげられなければならない。こうして「美利善」の三者が価値の三つのカテゴリーとされ、その三者の関係は「美的価値=部分的生命に関する感覚的価値」「利的価値=全人的生命に関する個体的価値」「善的価値=団体的生命に関する社会的価値」とされ、この順に程度が高いものとなる。
 「利」を重んじる価値論が『創価教育学体系』の重要な一角を占めることは間違いない。しかし、それが『創価教育学体系』の思想のもっとも重要なポイントであるかどうかについては、疑問の余地がある。すでに一九一二年の『郷土科教育』において、牧口は「美利善」の三者を、生活と郷土との関係の主要な様態としてあげている(『全集』三、九七―一〇二頁)。「利」を重視するという考え方は牧口の中に早くからあり、『創価教育学体系』がこの点で牧口の思想を大きく展開させたとは言えない。
 では、牧口の思想展開の中で、『創価教育学体系』が切り開いた新しい地平は何か。まず、第一に「価値創造」「創価作用」等の概念によって、人間の生活の全体を、環境と関わりながら、その都度価値を創造していく能動的な過程として捉えるようになったという点である。これまでも牧口は教育についてそのような考え方を展開してきた。受動的に知識を注入される教育ではなく、自ら主体的に生活の中に新しいものを切り開いていく生活知開発としての教育である。『創価教育学体系』では、全人生がそのような価値創造の過程として見られている。「人生は畢竟(ひっきょう)価値の追求である」(『全集』五、三九〇頁)。このように人生を絶えざる生命の自己更新の過程と捉える見方に、後の創価学会のエネルギーの源泉の一つを見ることができる。それが効率主義と結びつくとき、戦後日本の「働き主義」とぴったり歩調を合わすものとなるであろう。
 第二の新しい地平は、「美利善」を並べるとともに、その間に等級をつけ、善こそ最高の価値であることを明確にしたことである。やがて理想の人生は「大善生活」と規定されるようになる。今までは「利」を基準として知識が求められることが積極的に奨励されていた。ところがここでは、「利」は低い段階の価値であることが前提とされている。価値判断の基準として、その場その場で美や利をとることももちろん認められるのだが、もっとも上位の判断基準が善であるという考えが基調となっている。そして「余は公益を善といふと定義する」(同、三三八頁)。私的な価値である利害の対立かあった場台には、公共的な利益である善の基準によって克服していかなければならない。「道徳とは……社会生活に対する人間の行為の利害の程度」(同、三四一頁)であり、「人間社会に於て、全体とその要素たる個人とが対立番る場合に於て……初めて善悪の評価が下され」(同、三四二頁)る。このように利己主義を克服して社会生活を送っていくための道徳的価値として善は設定されている。そして、この考え方に行き着く際、デュルケム(一八五八―一一九一七)やウォード(一八四一―一九一三)の社会学の思想が大きな影響を及ぼした。
 第三に、文化現象の多くを価値創造ないし創価作用に関わる現象として捉え、それについて科学的客観的評価が可能なものとし、それを体験・経験からの帰納による(「実験証明」同、七八頁)ものとした点である。すなわち宗教、道徳、芸術などに対して経験的科学的な価値判断が可能だとしたのである。教育の現場から発想された生活知開発思想においては、さまざまな価値の創造や評価も課題に含まれたが、確かな価値基準、価値判断基準を定め、価値について評定することは教育目標に含まれていなかった。ところが、『創価教育学××××は創価作用に関わる科学として応用科学が設定され、「評価法・創価法」に一章がさかれた。そして××××自らが能動的に実践し、その結果によって判断するという形での「証明」、すなわち「実験証明」に××××験的科学的価値判断が可能だと論じられるようになる。この第三の地平において、牧口は科学と宗教の垣根を越える。宗教的な善悪、正邪、優劣の判断も経験的科学的認識によって可能だと考えたのである。
(一)一義的価値体系(=信仰)への飛躍
 第二の地平、第三の地平において、とくに後者において、牧口は価値観や世界観の問題に自ら納得いく答を見いだした。経験的科学的方法により、究極的価値を確かめられるという考え方に達したのである。それまでも牧口の知的探求(学問)はきわめて実践的であった。自然科学のような「純正科学」はいざ知らず、人間生活を対象とする学問(応用科学)とは、世界の事実から身を引き、価値中立的な態度で純粋に客観的な認識を行うものだとは考えていなかった。「生活との関係」に目をすえて環境の価値を評定していくような営みが目指されていた。しかし、その価値が何であるかについては、つっこんだ考察がなされていなかった。価値の優劣や序列をあえて問題にせずとも、生活実践にとって価値あるものが何かは自ずと評定できると考えられていた。『創価教育学体系』において初めて、どういう基準によっていかに価値の優劣や序列を評定するかが取り上げられた。そして、実践的な価値判断と行為指針の提示が経験的科学的になされうると論じられるに至った。
 最高の価値が科学的に証明できると牧口が主張するとき、言うまでもなく日蓮正宗の信仰が頭にあった。実は信仰が先にあり、学問的な弁証は後からついてきたものである。他の宗教を信じれば、それが最高の価値であることが示されることであろう。したがって、経験的科学的に価値の序列が示されるはずはない、と反論することは十分に可能である。『創価教育学体系』以後の牧口の著述には、特定の信仰の正当性を弁証するという性格をもつ神学ないし教学の言葉づかいがかなりまぎれ込んでいる。牧口の教育学はかつてはゆるやかな価値判断と結びつき、一般社会に共有される価値観から大きく逸脱するものではなかった。ところが、ここでは一つの明確な輪郭をもつ価値秩序と価値判断の様式(「実験証明」)へのコミットメントが要請されている。
 牧口が日蓮正宗の信仰に踏み込んだ理由は、さまざまに考えられよう。柳田のように家庭の不幸を引き合いに出すのも有力な見方である。しかし、それを牧口の学問の「発展の中で見ていくと、開かれた価値群から閉ざされた一義的価値体系へ、ゆるやかな価値判断から明確な組織的価値判断への変化として捉えられる。生活知を開発し幸福を増進するのに必要な価値判断が、ゆるやかで相対的なものから次第に強固な体系的なものへと変化していった。そして、価値観について残されていた問いにはっきりとした答が見いだされた。それは合理的思考の必然的発展と見られないこともない。牧口が自らの思想の変化を科学的合埋主義から宗教的信仰への変化として考えずに、利学的合理主義の発展の必然的帰結と考えたことには、それなりの理由がある。
(二)飛躍の社会的要因(1)――教育構造の変化
 では、このように強固な体系的価値判断が必要と感じられるようになったのはどうしてだろうか。牧口の思想の変化を促した大きな社会的力は何であろうか。日本の近代史の展開の中で、牧口の思想の変化を考えるとき、次の密接に関連した二つの理由を挙げることができる。
 第一は、近代日本の教育構造の変化である。牧口は日本の近代教育の形成期に教育界に入り、新しい日本の教育を築こうとする意気込みをもって教育実践やその学問的考察に取り組んできた。その根本理念が「直観教育」、すなわちここで生活知開発とよんでいるものである。これは古い「注入主義」の教育にとって代わり、自らの幸福を生み出していけるとともに、すぐれた立憲国家を形づくる市民の責任を担う人々を作り出すものと期待された。そこにはやや楽観的な期待が含まれていた。ところが、近代日本の現実の学校教育の展開は、こうした希望からはるかに隔たるものになってしまう。複雑化する社会機構に適応し、専門化する学問的知識の達成に追いついて行くために、学校教育は身近な環境の主体的認識としての生活知開発から離れていかざるをえない。かわって学歴主義による上級学校への進学を至上の課題とする詰め込み教育(形を変えた「注入主義」)と、それに基づく競争的な教育意識・学習意識が浸透してくる(15)。
 大正時代のいわゆる「新教育」の中にはそうした趨勢への抵抗の試みが含まれていたが、それは牧口が関わってきた公教育の流れを変えるようなものではなかった。大正時代の教育界の趨勢は、むしろ学歴主義の浸透といってよい。大正末期、牧口の忠実な協力者である戸田城聖は時習学館という進学のための学習塾を開く。彼はやがて『推理式指導算術』(一九三〇年)というベストセラー級の受験参考書を著し、そこに牧口は「創価教育学体系著者として」序文を書く。牧口が開発した「指導主義」は、パターン学習によって、まず子供に基礎的な力をつけさせ、その上で自ら応用を試みさせるものである。たとえば国語の作文では、基本的な文型をくり返し練習させて覚えさせ、それを応用して独自の文章を作らせる文型応用主義が採用される。この方法は、受験競争に乗り遅れない積極的な学習態度の形成には大いに貢献した。「注入主義」とは異質な、自発的に学ぶための手助けの方法として牧口が自負するのも当然かもしれない。その成果は近年も公文式学習塾などによって継承され、海外にも輸出されている。
 しかし、もしそれがそれだけにとどまるならば、生活知開発によって幸福な共同生活と責任ある公民を育てるという牧口の元来の希望の実現にはほど遠いものである。「指導主義」の方法は、牧口が思い描いた郷土科の理想とは直接結びつくことがない。直観教育は作文の書き方、計算の仕方の面では成果をあげ、生存競争への適応の方向では発展したが、公民の育成という面では成果が見えない。競争のための教育が先鋭化していけばいくほど、道徳や社会性のレベルで、したがって高度の価値のレベルでの向上の必要が感じられたであろう。そのために教育における価値観の確立が望まれるのは理解しやすいところである。
(三)飛躍の社会的要因(2)――「生存競争」への対処
 強力な価値判断の体系が必要であると感じられるようになったもう一つの理由は、内外の情勢の緊迫が続き、社会秩序・国際秩序の全体的再編成が必要だという意識が浸透してきたことである。牧口の著作には早くから「生存競争」の語が頻繁に登場する。国内の競争社会化や貧富の差の拡大やさまざまな社会問題の激化、外国との対立や緊張関係は牧口の思考の一つの回転軸であった。とくに国内のさまざまな対立の解消の手段としての植民地進出とそれをめぐる帝国主義的闘争の問題に牧口はしばしば言及している。これらは生存競争の現れであり、生存競争は社会の進歩のためには避けられない必要悪である、という社会ダーウィニズム的な考え方がときどき顔を出している。ここにもスペンサーの影響を見て取ってよいであろう。
 「生存競争」の肯定はエゴイズムの肯定、とくに国家エゴイズムの肯定につながる。自己利益の追求は否定されるべきものではない。だが、それが他者の利益と対立しエゴイズムとなる場合、どうすべきなのか、この点について牧口の考えは曖昧だった。一九一六年の『地理教授の方法及内容の研究』では、地理の学習が重要であるゆえんを述べながら、次のように言う。
 「対外思想の確立に至つては、この世界的大戦乱の時期に際会し現に非常な影響に迷惑しつゝあるに当つて、而かも大戦終結後の国際的競争の更に激烈になつて来ることを想像するに就けて、益■其の急務を感ぜずには居られないのである。(中略)
 列国は今や古来の国際間の交通を遮断すべき総ての城壁が撤去せられた結果として、如何なる者も此の大波瀾の影響外に居ると云ふことは出来ぬことゝなつたのである。世界的大戦乱の突発以来此の事は更に直接に明確に痛切に証明せられて居る」(『全集』四、一〇―一一頁)。
 厳しい国際情勢のもと、各国国民は日々、戦争状態の中に生き、国内においても生存競争を体験しているに等しい。日常生活においてつねに生存競争を免れえないのが現代人の浅ましい現実である。
 「斯くの如き生存競争の舞台を如何にして切抜けしめんかと云ふ問題に考へを廻らして来ると、教育事業に是迄は経済と云ふ考を外にしてあつたのが、勢ひ経済問題と密接して来、その経済問題から勢ひ地理科及其教授法の革新問題に進行し来らざるを得ないのである。私は多少誇大に云ふと云ふ非雌を受けるかも知れぬが、この生活問題に適応する人間を教育する為め、従来の教育方法の不満足を補ふには地理教科及びその教授法の改造よりは他に途なしと確信して居るものである」(『全集』四、一三頁)。
 ここでは生存競争への適応という範囲での自己利益追求は肯定される。国際関係にっいてはとくにそうである。しかし、個人の場合、それと釣合をとるべき共同生活、社会生活の欲求にも常に配慮が払われていた。
 「一体国民教育の目的如何。吾人は教育学者流に哲学などから演釈(えんしゃく)し来つて七面倒なる解釈を為んよりは、汝の膝下に預る其の可憐の児童を如何にすれば将来最も幸福なる生涯を送らせることが出来るかという問題から這入つて行く方が時に取つて適切なることと感ずるものである。さすれば円満なる社会的生活に教育の目的があるといふことは、いくら社会的教育学を好まぬ人でも異論はないことであらう。私は教育の目的を被教育者をして社会の共同生活と生存競争との両方面を認識せしめ、而してそが各個人に対する微妙なる影響を感動せしめ、以てこれに適応する生活をなさしむる様に陶冶するにありといふを以て最も要を得たものであると信ずるのである。
 この信念を以て誤りなきものとせば社会を認識せしむる教科が先づ類化の基礎観念を造つて、然る上に他の教科が適応性を涵養して始めて完全なる人格を陶冶すべきもので、社会を認識せしむる能はずんば自余適応性を養ふ教科の努力は概ね徒労に帰するものであると信ずるのである」(同、二七頁)。
 教育者として働き始めた当初から、牧口は「円満なる社会生活」を送るための道徳性の育成に大きな関心を寄せてきた。最初期の論文では、同じ年齢の生徒だけを集めて教える「多級教育」よりも、いろいろな年齢の生徒を集める「単級教育」の方が好ましい。それは家族と似た助け合いの関係が形成されるからであり、それによって社会性を育てることができるからだと論じていた。しかし、にもかかわらず、競争による自己発展、自己利益追求が強く勧められていたのも事実である。自己利益と社会道徳・社会正義の対立の局面には注意が向けられていなかった。
 ところが、『創価教育学体系』では当時の社会におけるエゴイズムや道徳性の欠如に対する憤激の言葉がしばしば見られる。牧口は都内のいくつかの小学校ですぐれた教育を進めていたにもかかわらず、有力者と対立したり、情実による便宜を認めなかったために排斥され、そのために不遇な地位に甘んじなければならなかった。おそらくそうした経験によるのであろう、長いものにまかれろ式のずるい態度が激しく告発され、そうした態度が社会道徳の欠如として批判されている。たとえば次の一節である。
 「善人があつて世の不義横暴の悪人に反対して立つて之れと戦ふ。この場合善人は概ね孤立無援であるに反して悪人は必ず強大なる仲間の応援を有つて居るのを普通とする」(『全集』六、六七頁)。
 というのは、善人は何も恐れず、人に頼り、窮屈な思いをする必要を感じないが、悪人はいつもまわりを恐れるために、仲間で寄り集まって窮屈をがまんする。結果として、善人は多くの犠牲をこうむる。神社に祀られているような人々は、そのような犠牲をしのんで後世の人々に利益を残したのである。
 神社に参拝するなら、ただ自分の幸福を願うというような虫のよい態度を取るべきではく、祀られている偉人のような断固として善を貫く態度を育てようとすべきである。付和雷同する小善人は、結局は利己主義者にすぎない。
 「余をして若し社会学を修めしめなかつたら、及び法華経の信仰に入らなかつたならば、余が善良なる友人知己の様に、成るべく周囲の機嫌を損ねぬ様に、悪い事を見ても見ぬ振りをし、言ひたい事も控え(ママ)目にして、人に可愛がられなければ損であるといふ主義を守つて居れたであらう。それが世の寵児になつて、自分だけの生存上には賢い方法には相違ない。少くとも現代の如き所謂五濁悪世の末法に於ては。けれども誰れも彼れもが皆この賢明なる主義であつたなら国家社会は遂にどうなるであらう。(中略)智慧が進んだ為めに、悪の手段が益■複雑になり、巧妙になつたのに対し、自己生存のみに没頭し、その事だけ利巧になつた善人共を協力団結して当らしめることは容易でない。詮する所、智慧は昔に比すれば進んだが所謂生存競争の智慧、自己防衛だけの小智で、社会といふ大なる団体が吾々の上に存在して居て、吾々の生命財産の安寧幸福を謀りつゝあるといふことに気付くだけに一般の心がまだ進んで居ないからである」(同、六八―六九頁)。
 過激な告発の言葉の背後には、当時の日本社会に対する強い批判の姿勢がある。そしてそうした姿勢を、日蓮正宗の信仰と社会学思想が支えている。デュルケムやウォードの社会学によって、社会生活の根本に道徳的価値意識があるものと見たのも、さまざまな価値を客観的科学的に評定して、確固たる価値秩序を打ち立てる必要を説いたのも、生存競争に押し流されていくように見える時代への牧口なりの対応であった。

四 代替知運動における科学と宗教

 牧口常三郎の思想の発展は、教育現場の経験の中で育てられた生活知開発思想から、日蓮仏法信仰と価値観の弁証を結び付けた大衆主義的体験主義的宗教信仰への発展として要約できる。日蓮正宗に帰依した牧口にとって信仰は超越的な真理を天下り的に受け入れるというようなものではない。信仰者一人一人が、自らの体験によって確認し、自らの判断で選び取り、自ら行動して他者に広め、社会に働きかけていくような信仰である。
 ここで大衆主義というのは、一般大衆こそが救いの対象であり、宗教活動に積極的主体的に関わっていくベきだという考え方を指す。大乗仏教ではそうした考え方が大きな位置を占めているが、とくに法華経の伝統においてその傾向が強い。教育思想家としての牧口が育ててきた近代教育思想、すなわら生活知開発の思想と、法華経に見られる大衆主義の発想には、ともに一般大衆自身の思考と参加と行動を促すという共通点があった。草の根の行動的思索者、牧口常三郎が、教育思想家から法華経信仰者に転身したのは、この点でもけっして突飛なことではない。
 とはいえ、そこに一つの大きな思想の変化があるのは事実である。それは、生活知開発による穏健な社会改革を目指す思想から、「体験」によって確証されたと信じられる一元的価値体系による人間変革(「人間革命」)の思想への変化だった。それはまた、生活の場において、科学と宗教や道徳とがゆるやかに接合している知のあり方から、ある原理のもとで科学と宗教や道徳が一つの体系として融合している知のあり方への変化だった。
 このように生活知をめぐる思想が科学と宗教の要素を抱え込み、ときに宗教集団に類似した性格をもつに至るという事態は、牧口常三郎と創価教育学会においてだけ起こったのではない。近代日本には生活体験の中から独自の健康法、瞑想法、生産法、経営法、教育法、共同生活スタイルなどを生み出そうとするさまざまな運動があった。それらの中核には独自の生活知の開発がある。それらは多くの場合、庶民の生活の知恵と結びついたものであり、近代の科学的知の体系からは排除されてしまった知のあり方に固執するものであった。そしてそれらの中のかなりのものが、宗教と何らかの関わりをもっていた。
 たとえば、野口晴哉(はるちか)が創始した「野口整体」は、独自の身体観人間観にもとづき、健康な身体と健康な人間関係を育てる運動として発展し、現在に至っている。その中核には「気」の観念があり、自然の神秘な働きへの畏敬の念がある。また、山岸会は独自の養鶏法と農業生活のスタイルを開発する運動として始まり、やがて独特のイニシエーションを通して、ある体系的な考え方を分かち合う集団となった。これらの集団は科学の要素もあり、宗教や道徳の要素もあるような生活知の開発によって、現代社会の支配的な知、すなわち近代科学の知とは異なる知のあり方を切り開こうとする代替知運動、代替教育運動である。
 創価学会の場合、特徴的なのは、代替知運動が明確な崇拝対象や教義体系をもち、排他性の強い宗教信仰と結びついたという点であろう。野口整体や山岸会を宗教とよべば、奇異に感じる人が多いだろうが、創価学会についてはそうではない。しかし、そうだからといって、創価学会が科学に通じる側面、また代替知運動としての性格をなくしてしまったというふうに考えるのは当たらない。創価学会は生活のさまざまな側面において、仏法にもとづく生活知のあり方を追求している。たとえば地域の家庭で開かれる座談会を考えてみよう。現実の座談会は創価学会の信仰、その現在の方針の確認の集会にとどまっているかもしれない。しかし、そこでは人々が生活の中で抱えているさまざまな問題をそれぞれの経験に即して語り合い、学び合う生活知開発の可能性がないとは言えない。
 牧口が追求した生活知の開発は、今なお私達の社会に求められている大きな課題の一つである。生活知といっても範囲は広いが、成熟した民主主義社会を築くために、とくに必要とされているのは、公共心ある市民を育てる草の根の集まりによる「市民の学校」であろう。労働組合や市民運動はそうした機能を果たしてきた。指導者を崇拝し、宗教的権威への服従が要求される宗教団体には、そうした機能は期待できないのだろうか。牧口が創価教育学会を作ったとき、少なくともその一部にそうした意図は含まれていた。宗教団体が生活知を育て、とりわけ「市民の学校」として機能する可能性にまったく絶望する必要はないであろう。

(8) 佐藤秀夫「解題」『全集』三に引かれた梅根悟の評言。「日本の新教育蓮動」東京教育大学教育学研究室編『日本教育史』(『教育学大講座』第三巻)、金子書房、一九五一年。
(9) H・スペンサー著、三笠乙彦訳『知育・徳育・体育論』(世界教育学選集五〇)、明治図書、一九六九年(原著、一八六一年)、三七頁。
(10) 長田新『ペスタロッチー教育学』岩波書店、一九三四年。同『大教育家文庫一五・ペスタロッチー』岩波書店、一九三七年。東岸克好『ペスタロッチの直観教育思想の研究』建帛社、一九八〇年、などによる。
(11) 堀松武一『日本近代教育史』理想社、一九五九年、九〇-一一二頁。
(12) 同前。
(13) 「大衆主義」「体験主義」については、以下の文献で論じられている。島薗進『現代救済宗教論』青弓社、一九九二年、第五章。同「新宗教の体験主義」(村上重良編『大系 仏教と日本人一〇・民衆』春秋社、一九八八年)。同「宗教的体験主義の思想史的位置」(霊友会史研究会編『成立期霊友会の研究』(仮)いんなあとりっぷ社、近刊)。
(14) たとえば『東洋学術研究』二五巻二号、「特集・牧口常三郎の <価値論> 研究」一九八六年、を参照。
(15) R・P・ドーア著、松居弘道訳『学歴社会 新しい文明病』岩波書店、一九七八年(原著、一九七六年)。竹内洋『立志・苦学・出世』講談社現代新書、一九九一年、天野郁夫編『学歴主義の社会史』有信堂、一九九一年、参照。

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