中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(3)

『放射線被曝の歴史』のまとめの第11章から抜粋・要約してきたが、今回はそれをしめくくるとともに、福島原発事故以後の現在、私がとくにこの書から教えられたと感じていることについても記してみたい。なお、あわせて6-10章を除く他の諸章からの、ツイッターでの紹介も参照していただければ幸い。以下のサイトでまとめて下さってあります。

http://togetter.com/t/%E5%B3%B6%E8%96%97%E9%80%B2

十.日本における被曝問題の現状(1990年当時)

第11章はp195~232と長いが、まず(1)本書の大要が記され、p196~203、続いて(2)イギリス、アメリカの最近の状況がまとめられp204~213、その後、(3)日本の最近の状況と今後の運動の展望p214~232が述べられている。(なお、「最近」というのはこの本が刊行された1991年の「最近」ということである)。(3)については、日本人にとってはなじみ深いことが多く、この本ならではのアメリカを中心とした国際的展望に関わることではないので、短い要約と一部の抜粋に留めたい。

(3)の前半「日本における被爆問題の最近の特徴」p214~227――「まず第1に、日本の原発において重大事故が発生する危険性が、現実に高まっていることを指摘しなければならない。アメリカ、ソ連について原発重大事故をおこすのは日本の可能性が高い、という話はあちこちで聞かれる。そのような噂を現実のものとする危険性が現に高まっているのである」。

以下、1991年2月の美浜原発2号炉などの事故、下北半島の再処理工場建設準備のもつインプリケーションについての叙述が続くが、このあたりの事情については他にも多くの解説書があるので紹介は略す。

(3)の後半「食品の放射能汚染」p227~232――まず、チェルノブイリ原発事故による食品汚染に対する厚生省の食品暫定基準値について。ここは中川氏独自の論点が多い。

「原発推進派の放射線被曝問題の関係者たちは、370ベクレルの基準値以下なら、被曝線量は自然界から受けている放射線に比べても小さくて問題とならないから安全であるという主張を展開してきた。この問題を扱う国の中心的機関である科学技術庁の放射線医学総合研究所は、「チェルノブイリ事故の場合も半減期の長い放射性物質が少ないため、数年で影響はほとんどなくなる」とひどいうそをついてまで国民の間に不安が拡大するのを抑えにかかったほどである。日本の国民は放射能を恐がりすぎる、と原発推進派と原発容認派はこぞって主張している」。

それらの主張の大部分は、過去の核実験のフォールアウト論争で、アメリカ原子力委員会などが許容線量を論拠にして展開した微量放射線安全論の焼き直しである。違うのは、実効線量当量について被曝の影響を過小に評価するというように、新しい巧妙なごまかしが行われていることである。」

「ところが原発容認派の日本科学者会議(日本学術会議の誤りか?)の人たちは、チェルノブイリ事故の2年後の時点ですでに、放射能汚染食品は「現在の汚染レベルであれば、あまり神経質にならずに何でも食べてよい」と、原発推進派と同様の主張を行った。そればかりか、推進派が驚喜する論点をも展開してきた。たとえば放射能汚染食品から「70ベクレルのセシウムを毎日、永遠に食べ続け」ても、年間の被曝量は自然界からうける放射線被曝量に比べればごく小さいものであるとし、その「『こわさ』を針小棒大に誇張すると、違った意味での人権問題が生まれる」とまで主張している。放射能汚染食品の危険性を力説する者は、あらぬ恐怖をあおりたてているのであり、人権を侵害している、と脅迫におよんでいる。」(以上、p227~228)

十一、汚染食品問題に見る被曝容認論の問題とヒバクに反対する運動p228~232

食品汚染を無視するように説く被曝容認論の特徴は、以下のようにまとめられる。

「放射能汚染食品の問題に集約的に現れているように、原発の推進派と容認派に共通しているのは、第1に、放射線被曝の影響の意図的な過小評価であり、第2に被曝の犠牲者を切り捨ててはばからぬ考えである。」

「第1の点では、実効線量当量方式が食品中のストロンチウム90などの影響をほとんど無視しているということについて、彼らはまったく触れないことなどがあげられる。放射能汚染食品の問題に限らず、ヒバク問題でALARAや実効線量当量方式という新たな、経済性原理を優先するやり方を批判しない人びとは、そのごまかしに手を貸そうとしているのである。」

「また第2の点では、たとえ自然放射線からうける年間被曝量の数分の1程度を汚染食品からつけ加えられたとしても、日本全国では成人だけで数千人ものガン・白血病の被害者が生み出される。放射線被曝に弱い幼い子供たちのことを考えると、その被害は、量的にはもちろん質的にも深刻である。しかし、彼らはこのことを深刻なこととは認めない。彼らはこの深刻な被害に対して、より多くの被害者が生み出される事柄を引き合いに出し、放射線被曝による影響はその何%にすぎないというように、深刻さを相対的に小さくみせてごまかしをはかる。そうでなければ、その深刻さを平然と無視する」。

「なぜそのようなことになるのか。原発・核燃料サイクルで生み出される放射能が恐ろしいもので、それにより将来の世代を含む膨大な数の犠牲者が生み出されるという、人びとが歴史と事実から学んだことを無理矢理否定しようとするからである。そうするのは、放射能汚染食品への不安など、多くの人びとが抱く放射能への恐怖が、その源である原発・核燃料サイクルへの反対へと発展することを極度に恐れているからである。彼らは、自らが抱くそのよこしまな恐れ、政治的・経済的な理由に基づく恐れを「理性的」なものと誉めそやし、誰もが自然に抱く危険な放射能への恐れは「感性的」なものとさげすんでいるのである。」

「原発を筆頭に、そもそも危険なものを危険でないと強弁するところから、ごまかしと矛盾が始まる。本質的に安全なものは、「安全」の言葉をもって身を飾りはしない。「原子力の安全性」や「放射能汚染食品の安全性」などというのは、それ自体が矛盾である。危険なものは危険とすることからしか前進や発展は生まれない」。

第11章の締めくくりは、ヒバクに反対する運動が重要な意義をもつとの主張である。ここもほんの一部の引用に止める。

「このようなこまかしやでたらめを許さないためには、原発推進・容認への批判が強められ、反原発運動が大きく発展させられる以外にない。もちろん、ヒバクの被害を源から絶つには、核廃棄・原発・核燃料サイクルの全面的な停止を実現する意外にはない。だが、その目標を実現する過程においても、日々生み出される放射能により、ガン。白血病をはじめとするヒバクの被害が増大し続けている。反核・反原発運動は、世界中のヒバクの被害を可能な限り少なくするために、ヒバクに反対する運動を一層強める必要がある。」

十二、『放射線被曝の歴史』の視座の重要性

以上、中川保雄の遺著、『放射線被曝の歴史』の第11章を紹介してきた。最後にこの書物が2011年3月11日の福島原発事故以後の現在、とくに示唆的だと思う理由について私(島薗)の考えを述べてみたい。

福島原発事故の直後から、放射能による健康への影響いかんが大きな問題になった。しかし、そこでは健康への影響が無視できるほどに小さいとする学者(安全派)と、健康への影響は大いに懸念されるので万全の対策をとるべきだとする学者(万全対策派)とに大きく分かれた。

事故により外部に放散された放射能のリスクはどれほどなのか。これについて評価が両極に分かれていて、どう判断したらよいかよく分からないと感じた人は多かった。要するにこれまでの研究では、学界で一致できるようなおおよその範囲というのも定めることができず、影響評価が大きく分岐するのだ。仕方がないので、学問的にどれほど信頼できるかは別として、いちおう国際的な防護基準を定めているICRPなる機関の見解をいちおうのよりどころとして議論をしようということになる。

では、なぜ放射能の健康への影響評価はかくもはなはだしく分岐するのか、また、分岐を前提にいちおうの国際的な防護基準を定めているICRPはどのような性格の機関であり、どのような歴史的背景のもとで成立し今日に至っているのか。――こうした問いが生ずるのは当然である。そして、『放射線被曝の歴史』はまさにこれらの問いに答えている。

類書で比較的入手しやすい書物に、キャサリン・コーフィールドの『被曝の世紀――放射線の時代に起こったこと』(朝日新聞社、1990年、原著、1989年)がある。読み比べるのがよいが、後者はアメリカの国内の視点に限定されており、広島・長崎の原爆の健康影響をめぐる問題についての記述はわずかだ。また、国際的な文脈での政治的緊張関係についての記述も乏しい。これに対して『放射線被曝の歴史』では、ICRPの歴史が一貫して取り上げられており、ICRPの定める基準が大きな役割を果たしている現在の日本の被曝問題を考える際、教えられることが一段と多い。

まず、分かることは、核開発側が放射能による健康への悪影響をつねに過小評価し、それを科学的な装いで正当化しようとしてきたことだ。とくにビキニ事件以前は極端な安全論が支配的だった。ICRPはその段階で成立し、その後も事態の展開に応じて、危険の認知を広げる方向で修正しながらも、基本的には安全論の立場を維持するそのための機関としての役割を果たしてきた。ICRPが維持しようとする安全論を脅かす反例が次々と現れ、繰り返し防護基準の強化を、つまり「許容」基準の引き下げをせざるをえなかったということ、それによって原発のコスト問題が次第に深刻になってきて90年代に至っていることも分かる。また、許容基準の修正については、どういう理由でどこまで許容するかについて、やや無理な論理を作り上げてこざるをえなかったということも分かる。

このような歴史的背景を学ぶことによって、福島原発事故後の事態について何が分かるか。①100mSv/y以下の被害は統計的に確証できていないとしながら、1mSv/y以下まで引き下げよというようなICRPの基準の分かりにくさ、また、②ICRP基準に従うと主張しながらも、それ以上に「安全」論的な姿勢をとろうとする放射能専門家の発言の分かりにくさが理解しやすくなる。ICRPは被害者が多数出ないために、安全論の建前を保持しながらも実質的に許容基準を下げる妥協をしてきている。ところが、今日の日本では、表向きの楽観論を文字通りに受けとって強く主張している専門家が目立っている。

(なお、この②については、広島・長崎の疫学研究に日本の学者が組み込まれてきたこと、他の公害問題と関わって「安全」論派に傾いていったこと、海外の核開発推進派に利用されてきたことなどの経緯が検討されなくてはならないだろう。日本の学界の状況を丁寧に追いかける、たとえば、放射線医学総合研究所の歴史を調べることによって、見えてくることが少なくないはずだ。)

ICRPは次第に許容被曝線量の値を下げてきたが、それは健康被害の事実を隠そうとする核開発側の強固な意志と政治力が、次々と明らかになる被害の事実に耐えられなくなってきていることを示すものだ。それでもなお、ICRPが「安全」論を掲げている根拠は、広島・長崎の疫学調査の結果に求められる。その広島・長崎の調査の問題点についても、『放射線被曝の歴史』はその点でも明快な議論を展開している(これについては、ツイッターの最後の部分で少し紹介している)。

科学がこのように軍事的・政治的・経済的理由により、ねじ曲げられて利用されてきた歴史をふり返るのは悲しいことだ。だが、その事実を無視するわけにはいかない。『放射線被曝の歴史』はまさにそのことを実行している。放射線被曝をめぐる科学の暗黒史を暴き出している。個々の記述にやや誇張があるかもしれないが、おおよその図柄は適切だと私は考える。戦時中の軍事医学について、また、公害問題に対する医学の被害否認の対応を知っている私たちにとって、それほど意外ではない内容だ。

そうであるとすれば、そのような科学の軍事的・政治的・経済的利用をどのようにして克服していけるか、私たちに課せられた大きな課題である。現代の生命科学や薬理学が経済性の追求と深く関わっている現状を知っている私たちにとって、これは被曝問題に限られない。「いのち」の行方をめぐる広い範囲の問題と関わる、きわめて現実的な課題である。(島薗『いのちの始まりの生命倫理』春秋社、2006年、島薗他編『悪夢の医療史』勁草書房、2008年、参照)

もちろん、このような歴史的叙述から学ぶことによって、低線量被曝や内部被ばくの健康への影響の程度がどのぐらいかという問題に答が出るわけではない。放射線被曝の健康影響について、疫学調査が抱えている方法論的な困難を超えて信頼できる科学的研究が蓄積されていくことを願わずにはいられない。

だが、他方、どのような防護基準を採用すべきか、また汚染に対してどのような対策をとるべきかを考える際には、歴史的な過去の経験から学べることは大きい。『放射線被曝の歴史』に学び、放射線被曝と防護の歴史をふり返った後で、現在の日本政府の、また政府に助言している専門家の採用している対策が十分なものである、また、信頼に値すると言える人はほとんどいないのではないだろうか。

8月7日、午前8時20分、若干の修正をしました。

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2 Responses to 中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(3)

  1. 小嶋崇 のコメント:

    今は入手できなくなった(古本としては高額な本となった)本書の要約を紹介してくださり感謝です。危険なものをちゃんと危険視するところから安全や安心への現実的な対応が出てくるのだと思います。
    現在は低線量放射線被爆の危険について明快な知識と、放射線被爆の長い歴史的展望とを持ち合わせていない段階だと思いますので本書は重要な役割を持っている、との印象を持つことが出来ました。

  2. 伊藤公紀 のコメント:

    『放射線被曝の歴史』ご紹介ありがとうございました。たまたまamazonで2万円でありましたので、早速購入しました。4万円よりはましです。このような良書が絶版とは、日本の科学界の底の浅さを改めて感じます。
    この本を知っていれば、近著『これだけ知っていれば安心 放射能と原発の疑問50』(日本評論社)の記述も変わったと思います。その点は大変残念です。
    ご指摘のように、日本の学者は欧米人の建前を文字通りに受け取る性癖があります。「CO2による温暖化」も同じです。情けないことです。

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