日本の放射線影響・防護専門家がICRP以上の安全論に傾いてきた経緯(1) ――ICRPの低線量被ばく基準を緩和しようという動きの担い手は誰か?――

1990年代末から低線量被曝安全論の運動が世界的に起こっており、日本の放射線影響学・防護学の多くの専門家はそれに積極的に関わってきた。彼らの考え方は、「低線量被曝は健康に悪影響は少なく、むしろ善い影響が大きい。そしてICRPのLNT仮説は誤っており、低線量被曝にはしきい値がある、つまりある程度以下では健康影響が出ない」とするものだ。

このような安全論の旗振り役の1つが日本の電力中央研究所(電中研)である。電中研では1980年代から低線量の放射線被ばくはリスクがなく、むしろ健康によいということを示すための研究を進めてきた。これは『電中研レビュー』53号(2006年3月)、『電中研ニュース』401号(2004年9月)などに示されているとおりである。その研究動機等については後にふれるが、ここで重要なのは、それが世界的な低線量被ばく安全論運動の先駆けと理解されていたことである。

では、世界的な低線量被ばく安全論運動とはどのようなものか。これについては「放射線と健康を考える会」ホームページを見ることによって明らかになる。そこで、まず、この「放射線と健康を考える会」について見ておこう。そのホームページhttp://www.iips.co.jp/rah/ には次のように述べられている。

「最近の生命科学の急速な進歩により、少しの放射線での危険は心配しなくてもよいことがかなりわかってきています。

平成11年4月21日に、東京の新宿京王プラザホテルで「低線量放射線影響に関する公開シンポジウム―放射線と健康」が開催されました。この公開シンポ ジウムでは、国際放射線防護委員会(ICRP)が採用している、人への放射線防護の観点からどんなに少ない放射線でもリスクがあるとする「しきい値なし直線仮説」には科学的根拠がなく、逆にしきい値があること、また、少しの放射線はホルミシス効果で健康に有益であることなどについて、国内外の著名な科学者 10名による講演がありました。この種のシンポジウムとしては日本では初めてのもので、各方面の方々の関心が非常に高く、一般の方を含めて約900名の 方々が参加されました。

本会は、多くの方々に放射線の影響と安全性について考えていただくために、必要な情報を継続して提供することを主な目的として、放射線生物分野の科学者を中心に構成された会です」。

この動きはアメリカでの動きと密接に関連していた。これについては、「放射線と健康を考える会」HPに掲載さいれている「米国で開催された低線量放射線の健康影響についてのシンポジウム――経緯と概要」を見ることでおおよそがわかる。このシンポジウムは2000年11月に行われた米国放射線・科学・健康協会(Radiation, Science, & Health, Inc.、略称RSH)主催のもので”A Symposium: On the beneficial health effects of low-dose radiation; And on current and potential medical therapy applications”「低線量放射線の健康へのポジティブな影響、及びその現在の、また潜在的な医学的治療応用についてのシンポジウム」と題されている。この紹介記事の「補足」にあるようにRSHは「LNT(直線しきい値なし)仮説を支持しない科学的データの収集を行っており、”Low Level Radiation Health Effects: Compiling the Data” (Revision 3, March 30, 2000)としてまとめている」。

このシンポジウムの紹介のために、電中研低線量放射線研究センター副所長である石田健二氏が経緯を説明している文書を少し長いがそのまま引用する。

「米国の Pete Domenici 上院議員(ニューメキシコ州選出、共和党)は、最近の低線量放射線の有益効果を示すデータに注目し、現在の放射線(放射能)防護の基準には科学的な根拠が なく、いたずらに厳しい安全管理がなされており、無駄に予算が費やされているのではないかとの疑問を持った。

このため、米国エネルギー省(Department of Energy、以下DOE)に、1999年度から10年間にわたり高額の予算をつけて、細胞レベルにおける低線量放射線の生物効果を調べる研究を立ち上げ ると同時に、1999年の夏に、会計検査院(General Accounting Office、以下GAO)に、現在の放射線防護基準が拠り所とする科学的な根拠(データ)についての調査を指示した。

GAOは、2000年6月にDomenici上院議員に報告書を提出し、その中で、放射線はゼロに近いレベルでも有害とする仮説の当否を論ずるに足るデータが未だ十分でないと述べると共に、放射線防護の実務において問題なのは、原子力規制委員会(Nuclear Regulatory Committee、以下NRC)と環境庁(Environment Protection Agency、以下EPA)が、それぞれ管理基準を異にしていることにあるとした。また、それぞれの基準で将来の高レベル廃棄物処分に係わる費用を算定 し、どの程度、予算に違いが生じるか対比して示した。

このGAOレポートを見て、Domenici上院議員は、低線量放射線の有益な効果(ホルミシス効果)を含め、放射線の生物影響に関わる問題提起がなされておらず、規制に係わる組織のあり方に焦点がすり替えられていると不満を持った。

今回のシンポジウムは、Domenici上院議員の秘書からRSHへの依頼によって開催されたものであり、「行政関連セミナー」との 色彩が強く、DOE、NRC、EPAのスタッフ、医学者、マスコミおよびRSH関係者など約60名の参加を得て、既に報告されている放射線ホルミシス研究 の成果((財)電力中央研究所が進めてきたプロジェクト研究の成果が多く引用されていた)を中心に紹介し、関係者の理解促進をはかる場であった」。

こうしたアメリカの動向もにらみつつ、2002年には電力中央研究所低線量放射線研究センターの主催で、東京・経団連ホールにおいて低線量放射線影響に関する国際シンポジウム「低線量生物影響研究と放射線防護の接点を求めて」が行われている。それに関する情報は、「放射線と健康を考える会」のHPhttp://www.iips.co.jp/rah/n&i/n&i_de31.htm にも、電中研のHP

http://www.denken.or.jp/jp/ldrc/information/event/symposium/symposium2002.html

にも掲載されている。プログラムは以下のとおりである。

プログラム

講演1  Roger Cox(国際放射線防護委員会(ICRP) 第1委員会委員長)「放射線防護における低線量放射線研究の位置付け -現状と将来-」

講演2 松原純子(原子力安全委員会委員長代理)「放射線防護における個体レベルの研究と重要性

講演3 酒井一夫((財)電力中央研究所低線量放射線研究センター上席研究員)「わが国における低線量研究の最近の成果」

講演4 野村大成(大阪大学大学院医学系研究科・放射線基礎医学講座教授)「放射線発がんにおける線量・線量率効果」

講演5 渡邉正己(長崎大学副学長・薬学部教授)「放射線発がんへの遺伝子の不安定性のかかわり合い」

講演6  Ronald E.J. Mitchel(カナダ原子力公社チョークリバー研究所放射線生物学・保健物理学部門長)「低線量放射線に対するマウスの適応応答:放射線防護の中での位置づけ

講演7 丹羽大貫(京都大学放射線生物研究センター長・教授)「放射線発がん機構の解明と放射線防護における意義」

総合討論

このシンポジウムの登壇者のうち、酒井一夫氏はその後、2006年に放射線医学総合研究所の放射線防護研究センターのセンター長になり、福島原発事故以後、政府の命によりさまざまな大役を果たしている。同氏は事故発生直後から置かれた首相官邸の原子力災害専門家グループ8名のうちの1人であり,

http://www.kantei.go.jp/saigai/senmonka.html 、2011年8月に置かれた「放射性物質汚染対策顧問会議」http://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/info/osen/komon-youryou.pdf の8名のメンバーの1人であり、この顧問会議の下に2011年11月に置かれた「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」http://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/info/twg/111222a.pdf の9人のメンバーの1人である。

また、丹羽太貫氏は「放射性物質汚染対策顧問会議」と「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」のメンバーである。さらに丹羽氏は2012年2月現在、文部科学省の放射線審議会の会長を務めている。なお、酒井一夫氏はこの放射線審議会の委員でもある。この放射線審議会は、2月2日、厚労省の食品安全委員会に対して、放射線量に基づく規制をもっと緩めるように答申を行った。読売新聞は次のように伝えている。

「食品中の放射性物質の新しい規制値案について、文部科学省の放射線審議会は2日、厚生労働省に答申する案を示した。
答申案では、肉や野菜など一般食品で1キロ・グラムあたり100ベクレルなどとする新規制値は、放射線障害防止の観点では「差し支えない」とする一方、実態よりも過大に汚染を想定していると指摘するなど、規制値算出のあり方を疑問視する異例の内容となった。
これまでの審議で委員は、最近の調査では食品のセシウム濃度は十分に低いと指摘。規制値案はそれを踏まえず、食品全体の5割を占める国産品が全て汚染さ れていると仮定。日本人の平均的な食生活で、より多く被曝することになるとして、各食品群に割り振った規制値を厳しくした。この点を審議会は「安全側に立 ち過ぎた条件で規制値が導かれている」とした」。

また、内閣府原子力安全委員会委員長代理だった松原純子氏は「放射線防護の心――低線量放射線影響の実態と放射線管理とのギヤップ 」と題された文章で次のようにのべている。

http://homepage3.nifty.com/anshin-kagaku/sub060120hobutsu2001_matsubata.html

「低線量の放射線影響に関する直線(LNT)仮説は国際的にも議論されている が、当面これを否定するべき強力な証拠はないということに繰り返し落ち着く。しかし、問題はそれを公衆や専門家や管理者がどう受け止め、また規制にどう使 われているかである。永年、環境有害因子と生体との相互作用の実態を解明しょうと努力してきた私は、放射線影響イコールICRPの勧告値ではなく、放射線 影響イコール放射線によるDNA傷害でもなく、放射線(ひとつの環境要因)と人間(生き物)とのかかわり(相互作用)の実態を、公衆のみならず関係者にも 知ってほしい、そして実態に基づく判断と実効性を念頭においた規制をと願ってきた。ここ10年来の放射線影響に関する新知見の蓄積を加味すれば、LNT仮 説に関しても専門家として議論すべき具体的課題が明示できるはずである。
一方、一昨年来、ICRPのR.Clarke委員長の提言をきっかけとして、国内でも放射線防護の枠組みにかかわる論議が活発に行われている。 放射線 防護の分野ではいくつかのキーワード(用語)があるが、この際、それらについてより的確な共通理解を進めたい。今こそ、新しい時代の要求に合わせて、放射 線防護の原則に立ち返って、その核心を議論する大変良いチャンスである」。

この記事には公表日時が記されていないが、URLには2001とあるし、世界的な動きにふれて「一昨年来」とあるのを見ても、2001年頃のものと見てよいだろう。

ここに見られるように、酒井一夫氏、丹羽太貫氏、松原純子氏らはICRPが採用してきたLNT仮説を超え、低線量被ばくについてしきい値ありとして安全であるとする方向での研究に積極的に関わってきた放射線影響学・防護学の専門家である。こうした傾向をもった専門家ばかりに福島原発災害の低線量被ばく対策についての審議や助言を求めてよいものだろうか?

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