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悪に向き合う宗教 ――「弱肉強食」の時代と初期大本教――
はじめに
[悪にまつわる語の頻出]
近代日本の名高い民衆宗教者であり、大本教の創唱者の一人である出口なお(一八三六―一九一八)の「筆先」には「悪」にまつわる語が頻繁に登場する。
三ぜん世界一同に開く梅の花、艮(うしとら)の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。日本は神道、神が構はな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ目が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ、是では、国は立ちては行かんから、神が表に現はれて、立替へ立直しを致すぞよ。用意を成されよ。この世は全然、新(さら)つの世に替へて了ふぞよ。(明治二十五年旧正月、『大本資料集成』第一巻、一三ページ、なお本稿の引用文のゴシック体はすべて島薗がしるしづけのために付したものである。)
これは出口なおが初めて神がかった一八九二年に口をついて出たとされる「筆先」で、「初発の神諭」とよばれるものである。まがまがしい言葉やイメージが次々と飛び出してくる。ここでは、「外国」が「悪魔」や「暗がり」の原因と見なされている。だが、それは「強いもの勝ち」とか「獣類(けもの)の世」とも言われるように、「日本」のただ中の抑圧的暴力として存在している。私たち自身が悪に関わり、悪に苦しんでいるのだ。だが、その悪の支配は「立替へ立直し」によって覆され、神国に生まれ変わる可能性がある。なおの神はそう告げている。
この世の鬼を往生させて、世界のものを安心させるぞよ。よい心をもたれよ。悪はなごうはつづかんぞよ。/(「/」は原文改行の意)ほととぎす声は聞けども、すがたは見えぬ、この世を金神、かげから守りておりたぞよ。/いままでは末法の世。妙見仏の世、悪道な世、強いもの勝ちの世、この世になれば結構な世になるぞよ。(明治二十五年日不明、同上、一五ページ)
[なぜ悪にこだわったのか]
理想世界の到来が預言されているが、まずは一人一人の心が問われている。「悪き」心から「よい心」への改心が求められる。
世界のあらためいたすぞよ。あまり人民の心が悪きゆえに、世界は神の眼からは、さっぱり暗やみになりておるぞよ。洗濯いたして良くなるぞよ。はよう改信いたされよ。/人にもよきよう、わが身もよきようと思わな、この世はいけぬぞよ。強いものがちの世であるぞよ、これではこの世はいけぬぞよ。(明治二十九年七月十六日不明、同上、一五ページ)
今度は人民の身魂の洗濯であるぞよ。昔からなき事ばかりであるぞよ。良きびつくり致す事もあるぞよ、わるきびっくりもあるぞよ、よき身魂とわるき身魂とを分けて見せて改心を致さすぞよ。(明治三十年十月三十一日、同上、四六―四七ページ)
日本の新宗教の中でこのように悪について、また善と悪との対立について多くを説いた例はあまり見当たらない。キリスト教なら事情は異なるかもしれない。悪の世から善の世への転換の預言は、キリスト教に広く見られる。また、近代以前の仏教であればこれも異なるだろう。末法の世の悪から逃れて善に満ちた仏の世界へと旅立つ夢は多くの人々に分けもたれた。だが、現世主義的であり、この世が良き生命力の充溢した世界であると見るところに特徴がある新宗教の中にあって(対馬路人他「新宗教の生命主義的救済観」、第二節でふれる)、このような悪の強調は際だっている。近代日本の民衆の「思想の身体」にいかにして「悪」の理念が受肉したか。それともけっきょくは受肉しなかったのか。大本教の運動を広めた出口なおと出口王仁三郎(一八七一―一九四八)の宗教的世界は、私たちをそのような興味深い問いへと引き込んでいく。
一、「悪」をめぐる「思想の身体」
[悪の語義]
「悪」という言葉の意味は広い。『広辞苑』(岩波書店)によると主要な意味(①)は、「よくないこと。天災・病気などのような自然的悪、人倫に反する行為などのような道徳的悪の総称。正義・道徳・法律に反すること」とされている。「善」と対立するもので、「仏教では五悪・十悪などを立てる」と付されている(仏教の「悪」については『仏教思想2 悪』が大いに助けになる)。他の辞書では、道徳的悪のみをあげて、『広辞苑』が「自然的悪」とよぶものをあげていないものがあるが(たとえば、『日本国語大辞典』小学館)、「悪天候」「悪条件」「好悪」などの用法を考えると、少なくとも主要な意味を道徳的悪に限定する説明には疑問が残る。「自然的悪」にあたるものは「善」に対するというより「良」「好」に対するものだから、①の意味の「悪」の全体が「善」に対するものとは言いにくい。
続いて、『広辞苑』は広い用法に属する他の意味として、②「みにくいこと。不快なこと」、③「おとること」、④「たけだけしく強いこと」、⑤「歌舞伎の敵役」を記している。それぞれ、関連する熟語は、②「醜悪・俗悪・悪趣味」、③「悪筆・粗悪」、④「悪僧・悪源太」、⑤「色悪(いろあく)」があげられている。「色悪」とは悪役でありながら外見は二枚目の役柄で、色男の敵役を指す。②③の「悪」も「善」に対するよりも「良」「好」に対するもので、①の説明の語を適用すると「自然的悪」に近いが、こちらは人為的なものも関わる。人為的な悪で道徳的悪ではないものもあることになる。④⑤、とくに④の用法では、「悪」はある種の魅力をもつもので、ある意味では「善」の特徴も含むものだ。
英語では、goodに対してbadとevilがありbadは道徳性を超えて広い意味をもつが、日本語では悪に対して善と良・好があって良・好が道徳性を超えて広い意味をもつ。「Good」と「悪」は狭い道徳的意味と広い意味との双方を含む。日本語と英語の間にはねじれた対応関係があると言えるだろうか。
[悪と救済]
宗教において「悪」は大きな役割をもつ語となることが多い。宗教は人間がよりよい生を求めつつ、それが達成できないという苦難や挫折の経験に深く関わる。救済宗教においてはとくにそうである。宗教、とりわけ救済宗教は「悪」の超克を目指すことに重い意義を置く。「救済」とは「苦難」や「悪」からの解放ということであり、救済を目指す宗教はそれだけ人間と世界の苦や悪にこだわっているととらえられるだろう(島薗『現代救済宗教論』、同『精神世界のゆくえ』)。ここで「苦難」と「悪」を並べ上げたが、両者が一体にものとして考えられているところに救済宗教らしい思考様式がある。狭い意味での道徳的「悪」が「おかす悪」であるとすれば、「苦難」とは「こうむる悪」だといえる。そもそも道徳的悪(「おかす悪」)はその暴力性に、つまり人を傷つけ苦難(「こうむる悪」)をもたらすところにその主要な特徴がある。だから、道徳的悪(「おかす悪」)と苦難(「こうむる悪」)とを結びつけてそこに関心を集中する救済宗教の思考様式は、多くの人々にとって理解しやすいものなのだ。
もっとも「こうむる悪」(苦難)は他者との暴力的関わりからのみやってくるわけではない。個々人の苦しみの大きな原因である病気は、対人的ストレスによる要素が大きいとしても、現代人はまずは自然科学に基づく医療技術で治療しようとする。昨今では悪天候や地震も人類の環境破壊に責任があると考えられる機会が増えてきたが、それでも人為を超えた自然に原因を求める態度の方が優勢だろう。苦難の大きな部分は「人災」ではなく、「天災」に属すると考え、人類の進歩によって「天災」が、したがって人類の苦難のかなりの部分が縮減されたと考える人は少なくない。だが、「自然」と「人為」とを明確に分断し、個々の災厄に対する個々の原因を見つけ制御しようとする近代的な思考法がどこまで有効性をもつかの評価は人によって異なる。自然が人間に課す限界を、人間の力で超えていくことに大きな希望をもつ人もいる。他方、人知による自然支配という文明と人類の長期的企てに、人間の傲慢と過剰な自信を見、不吉な未来を予感する人も少なくない。
[「こうむる悪」の克服というビジョン]
近代科学礼賛論者や啓蒙主義の信奉者は「こうむる悪」の合理的克服に大きな期待をかけるだろう。医学や科学技術の恩恵によって、人類の平均寿命は格段に上昇し、富は増大し、より多くの欲望を満たすことができるようになった。「自然的悪」の克服をますます縮減していく進歩こそ、人類社会の主要な目標だと考える人もいる。しかし、個別的な因果関係の探求にこそ主要な知の機能を見るシステムの拡充に対して、そこから帰結する心身二元論や還元主義や意味の次元の喪失がもたらす不調和や視野狭窄を危惧する声も高まってきた。ホリスティックな自然観やコスモロジカルな要素を含んだ知の意義を見直そうとする運動は、自然的要因による「こうむる悪」の合理的克服というビジョンに対する失望の増大を反映するものである(島薗『精神世界のゆくえ』、同『〈癒す知〉の系譜』)。
「こうむる悪」に向き合い、その前でしばし立ち止まり、さらにそれを「おかす悪」を含めたさまざまな悪と関係づけて受け止め、熟考する必要がある。このような問題は、悪のコスモロジカルな意義を問う宗教、とりわけ救済宗教において濃密な全身体的思考の対象とされてきた。ところが、近代化の過程で悪に対する宗教的思考は正統的な知から排除されていった。悪について正面から語る言葉や象徴は公的な世界から消えていくか、断片的なものへと転じていった。悪について語る言葉や象徴は、確かに芸術や大衆文化にかなり受け継がれてきたけれども、それは十分なものではない。現代人は圧倒的な悪の経験にさらされながら、悪を受け止める言葉や象徴に恵まれていないと言えるだろう。
これは現代人が死を遠ざけていることと関わりがある(ゴーラー『死と悲しみの社会学』、アリエス『死を前にした人間』)。そもそも死と悪は関連づけられることが多い。生の喪失・断絶としての死は、「こうむる悪」の最たるものと見ることもできよう。かつての時代、人々は死を受け止める豊かな言葉や象徴に囲まれていた。それは宗教や宗教と結びついて生活形式の中に埋め込まれていた。だが、現代人にとって死は見えないもの、隠されたものとなり、それに直面してとまどい、途方に暮れるものとなってしまった。悪についてもほぼ同様なことが言える。
[コスモロジカルな悪]
諸宗教はどのように悪を受け止める言葉や象徴を提供してきたのだろうか。「こうむる悪」は世界と人間がもつ根源的な構造に由来するものだとだされることが多かった。悪はコスモロジカルな根拠をもつとされたのだ。神話には人類が死や苦難に見舞われるようになった原因を語る物語がしばしば含まれている。宇宙の理法が衰滅や苦しみを必然的な要素として含むと説く教説もある。世界の二大原理として善と悪がせめぎあっているとするコスモロジーも根強く力を保持してきたが、現代の大衆文化はその伝統を復興させようとしているかのようだ(『グノーシス 異端と近代』)。
これらは悪をコスモロジカルな原理の一部として措定するものだが、その際、ほとんどの場合、小宇宙であるところの人間自身が悪をおかす存在であることに強い関心が寄せられる。悪のコスモロジーは人間が悪をおかすことに深い関心を寄せてきた。救済宗教が文明社会の指導原理となり、人類の精神史の大役として登場するのはカール・ヤスパースがいう「枢軸時代」以後、すなわち紀元前一千年期のことだが、以来、人類は「おかす悪」にこだわってきたと言ってもよいだろう。「おかす悪」(罪)は人類の「思想の身体」の中心的なテーマの一つであり続けてきた。
人間が「おかす悪」にこだわる救済宗教の思想はペシミスティックな側面をもつ。人間が悪を避けられない存在であり、多くの人間は苦しみの中に閉ざされた人生を送り続けなくてはならないと強調するからである。正しい信仰をもち、適切な儀礼に加わり、規範に従った人生を送るならば、「救い」が約束されると説くのはオプティミスティックな側面である。だが、その「救い」は死後にしか得られないことが多い。現世ではどこまでも悪から脱却することはできず、罪や苦から完全に解放された永遠の生命は来世においてしか得られない。それも一部の人だけのことであり、この世において悪を脱する生を見出しえない人々は地獄や暗い死の世界を免れえないとされることが多い。
自由な人間の可能性を信じる近代人から見れば、このような救済宗教のペシミスティックな側面は受け入れがたい。人間の性格を意図的に低く見積もって、良き生の可能性をわざわざ断念させる思想ではないか。聖職者や支配者諧級が優勢な地位を保って権力をふるい、信徒や被抑圧階級を抑圧するために都合がよい奴隷道徳ではないか。民主化によって今こそこれまでの奴隷的意識を克服する準備が整ったと見るか、民主的な傾向が奴隷道徳意識を助長すると見るかの違いはあるが、救済宗教の悪や罪へのこだわりは近代的な自由の拡張のなかで根底から揺さぶられる。マルクスやニーチェはこうしたこだわりこそ自由な人類の発展を阻害する、救済宗教の犯罪的な特徴だと見なして宗教批判の歴史哲学的基礎づけを提示し広範囲の人々の支持を得た。
[近代的な自由とニヒリズム]
近代の世界で救済宗教の悪へのこだわりが受け入れにくく感じられるのは、他の理由もある。自らの仲間が悪を克服する鍵を握っていると信じるとともに、他の立場の人たちにこそ悪をはびこらせる責任があるとする排除的、他罰的な思考が暴力を喚起する可能性が目立つのだ。悪にこだわる思想は、他者の「おかす悪」を見出すことに熱心になりやすい。自らこそ悪を克服する唯一真実な道に従っていると信じるとき、他者の悪が許し難いものと見え、それと闘い罰することに喜びと生き甲斐を感じる態度が成り立つ。このような排除的、他罰的な思考は唯一真実な救いの道を知っているとする救済宗教にとってごく自然な思考回路である。だが、それは異なる宗教や異なる文明・文化を身につけた多様な立場の人々人の共生を危うくする。悪にこだわることが、人類の共存を脅かす危険をもたらしかねないのだ。このような不寛容を克服するには、自由の制度の拡充を進める他にないのではなかろうか。
だが、人間の自由を謳歌する近代思想の行く末には、破壊的イデオロギーやニヒリズムの可能性が開けてきてもいる。「善悪の彼岸」に出たと思ったときには、泥沼のような相対主義が待っている。道徳的な悪は相対的なものであるとして、原理的な「おかす悪」が否定されるところでは、欲望の追求に歯止めがなくなり、一方では全体主義やナショナリズムの誘惑が、他方では恐るべき孤独の深淵が待ち構えている。悪を克服する人間の可能性を信奉する啓蒙主義や科学主義が栄える裏面では、不安と意味喪失と倦怠の泥沼が広がっていく。それをかろうじて免れたと思えば、今度は希望に満ちた偽りの「われら」の世界の喜びがすぐそこで手招きしている。失われた意味や共同性を「再発見」したと思ったとたんに、自らが所属する「疑似種族」による「解放」の夢想にやすやすととらえられ、イデオロギーの破壊性に身を委ねていることになりかねない(エリクソン『ガンディーの真理』)。
たとえ、非宗教的なイデオロギーの魔力から自由であったとしても、さまざまな束縛や没入から自由になった人間が自由をもてあまし、孤独地獄や道徳的な節度を失った生活へとのめり込んでいく可能性が黒々とうすまいている(フロム『自由からの逃走』)。ドストエフスキーをはじめとする近代の鋭敏な作家が見すえた近代人の運命、「悪を見失った人間」の悲劇である。一九九五年のオウム真理教事件は、豊かになり、自由が拡充したと感じられる現代社会の生活こそ、目をおおいたくなるような悪の悲劇と紙一重だということを露わにした(島薗『現代宗教の可能性』)。その後、若者がおかす奇怪な悪の数々に日本の老若男女は言葉を失っている。悪に向き合い言葉が見えないのは、悪に向き合う「思想の身体」が実感できないからである。それは悪に向き合う宗教の像が浮かばないことと深い関わりがあろう。
[悪をもてあます現代世界と宗教]
近代社会では新たに特定の他者の集団に悪を負わせようとする思考が広まる傾向がある。二〇世紀においては、そのような傾向はイデオロギーに特徴的なものだとする理解が広まった。共産主義は資本家やブルジョワ階級に悪を負わせようとしたし、全体主義やナショナリズムでは自らが属する人種や民族を実体化し、それ以外の人々の集団に悪を負わせようとする傾向が顕著だった。進んだ個人主義的宗教こそ、そのような自己膨張的、他罰的思考を克服できると考える傾向が強かった。超越者や超越原理と正しく向き合い、自己の限界を反省的に見すえることができる宗教こそ的確に悪にその場を与え、自己膨張的、他罰的な思考を免れる力をもつと考えられた。
だが、二〇世紀の最後の四半世紀以降、そのような宗教や超越に対する楽観的な見方は、根底から覆されようとしているかに見える。宗教こそ、とりわけ超越性を強調する宗教こそが自己膨張的、他罰的な態度の形成に寄与しているかに思われる場面が格段に増大した。アメリカのジョージ・ブッシュ大統領のような世界の政治をリードする大国の指導者が、イスラム世界に悪を背負わせるかのような発言を繰り返す。それはアメリカ合衆国のキリスト教的使命感と分かちがたいもののようである。ユダヤ教やイスラムにおいても、シーク教やヒンドゥー教においても、仏教や神道においても悪者よばわりが盛り上がる傾向が目立つ。悪を代表する他者たちに対して攻撃心を露わにすることが、誇りの意識を回復させ、団結を強め、内なる弱さを踏み越えていく政治的な効力をもつようだ。このように宗教が調子はずれになってしまっているのも、また現代人が悪をもてあましていることの証拠ではなかろうか(島薗『ポストモダンの新宗教』)。
善悪の基準を明確にもち、自由を限界づけ、自らの悪を適切に振りかえるとともに、広く世界の悪に向き合う思考法が求められている。また、悪の複雑さや不分明さにも自覚的であり、他者の異なる善悪の基準や悪の観念とも共存できるような立場を輪郭づけていく必要がある。差別や排除を動機づける悪の思想ではなく、差別や排除の克服を帰結するような悪の思想が求められている。世界の宗教にそのような思考の資源は豊かに蓄えられてきたはずだ。では、そのような「悪に向き合う姿勢」は、日本の宗教や「思想の身体」の中にどのような形で貯えられ、育てられてきただろうか。大本教に注目し、近代の新宗教(民衆宗教)の系譜を視野に収めながら考えていこう。
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