『科学』900号(77貫8号)、2007年8月、854−6ページ
どこで限界線を引くのか?
子宮の機能が失われた女性が、母親に代理出産をしてもらった(2006年10月、公表)。50歳代後半の女性が孫を出産したのである。この代理出産の医療を行った諏訪マタニティー・クリニックの根津八紘医師は、すでに除名されている日本産科婦人科学会の反対をいっこうに意に介さない。子どもを産めない女性を救うためと唱えて、さらに代理出産を拡充しようとしており、2007年4月ボランティア女性を公募した。身体上に不安を抱える若い女性が丈夫な高齢者に子どもを生んでもらうとすれば、当事者の間ではよいことづくめかもしれない。だが、それを認めるとすれば、将来、若い女性たちが多忙を理由に母親の子宮を借りて自分の子を産んでもらうのを止められるだろうか。
一方、世界の各地で男女の産み分けが進んでおり、新生男児の数が相当に多い国々がある。2002年の報告では、新生児のうち女子100に対して、男子の割合は、ユーゴスラビア108.6、韓国110、パキスタン110.9、中国117だという(レオン・カス編『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求』青木書店、2005年、原著、2003年)。出生前に男女の性別を判定して女子を中絶したためだろう。だが、出生前診断(PND)で子宮にいる胎児の性別を見て中絶するのでは母親のからだの危険や心の負担が多い。将来は、体外受精を行い着床前診断(PGD)で男女を産み分けようとする人が増えるだろう。
着床前診断をするのであれば、生まれてくるはずの子どもの他の特性をも選別したいという要望を拒絶できるだろうか。重い筋ジストロフィーの因子をもつ両親の場合、すでに着床前診断により障害のない子を産むための措置をとることが日本でも認められた(2005)。着床前診断を許容する範囲をもっと拡げている国は少なくない。だが、どこまで許容するのだろうか。好ましい遺伝的特性をもつ子どもを選ぶとすれば、特定の病気の発病因子だけでなく、知能や体力など心身の諸能力までも範囲に入れようとする人は増える。それはなぜ許容できないのか。どこで許容の限界線を引くことができるのだろうか。
よい目的をもって開発されるはずの科学技術が、やがて人類社会にどのような影響を及ぼすのか危惧される例が増えている。とりわけ生命科学や医学において目立つ。ビル・マッキベンは科学技術の開発が人間の福祉の増進を目指しているという大前提はすでに失われていると見る(B・マッキベン『人間の終焉――テクノロジーは、もう十分だ!』河出書房新社、2005年、原著、2003年)。私たちは個々の科学技術について、しばしば「もうこれで十分だ」(Enough!)というべきところに立ち至っているのではないか。
マッキベンが取り上げるのは、遺伝子改変、ナノテクノロジーによる「治療」、ロボットによる人間の機能の代替だが、それらはまさに現在、「国益」をかけて巨額の研究投資が行われている領域である。では科学技術振興に関わる人々は、これらの研究の推進が人類社会に何をもたらすか熟考した上でそうしているのだろうか。とてもそのような余裕はなさそうだ。国際研究競争に負けないためには、将来、何が起こるか考えているゆとりはない。他方、人間と社会の将来のあり方を問う文系の学問やジャーナリズムの関心も今一つだ。
手近な利害に引きずられる世論と科学者
ヒト胚の利用の是非という論題は、先端科学技術の進展にどこで線を引くのかという問題を自覚する上で、意義深いきっかけとなった。1996年にスコットランドでクローン羊のドリーが生まれ、98年にアメリカでヒトのES細胞(胚性幹細胞)の培養に成功したことから、ヒトの発生過程の研究が莫大な利益をもたらす可能性が見えてきた。とりあえずは再生医療の飛躍的な発展が期待されたが、その先には臓器の再生や発生初期段階での遺伝子改変の可能性も展望されている。
リー・シルヴァーやグレゴリー・ストックのような生命科学者は、遺伝子改変が実現可能となるのは早いと見て、それがどのように人間生活を変えるかについて、予測もしている(L・M・シルヴァー『複製されるヒト』翔泳社、1998年、原著、1997年、G・ストック『それでもヒトは人体を改変する――遺伝子工学の最前線から』早川書房、2002年、原著、2002年)。彼らはその結果、人類が幸福になるとは言わない。しかし止めることはできないし、できるようになるのは進歩だから大いにやろうと言っている。科学技術が進むと人間生活をどう変えるかについて考察しているのは責任ある態度だが、その倫理的妥当性にふれるとなるとにわかに議論はわけのわからぬものとなる。
レオン・カスが座長を務めた、アメリカ合衆国のブッシュ大統領の下の生命倫理諮問委員会が、「どこで線を引くのか」という問題に取り組んだのは、意義深い企てだった。カスの委員会はその成果を、『治療を超えて』(2003年)という書物にまとめた(前掲)。そこでは、「治療(therapy)」と「増進的介入(enhancement)」が対置されている。筋肉増強、知能増進、不老長寿、気分改善(快楽薬)などの追求は、苦しむ人を救うための「治療」とは言えない。それはもはや本来の医療の役割を越えているのではないか。
そうした「増進的介入(エンハンスメント)」に待ったをかけるとして、どの段階でどのような理由で待ったをかけるのか。答は必ずしも明快ではない。だが、このような問いに国の委員会が正面から取り組んだことは、人類的問題に立ち向かおうとするこの国の底力を示すものだ。もっとも国家的な利益が関わっていることなので、早期にコンセンサスを得るために急がざるをえなかったとも言える。アメリカは生命倫理問題が国家的難問だと自覚している。
ヒト胚の利用の科学技術開発が国家的な企てとなるという事態は、韓国でも露わになった。ここではクローン胚からES細胞を作り出す企てに、国民的熱狂が巻き起こった。2004年にソウル大学の黄禹錫(ファン・ウソック)教授がヒト・クローン胚からES細胞を樹立するのに成功したと報じられ、黄教授は国民的な英雄としてほめそやされた。しかし、2006年になってその実験は実は捏造だったことが明らかになった。単に実験を捏造しただけではない。黄教授は実験のために弱い立場の女性からも卵子を得ていた。このようなスキャンダルを起こした責任は、黄教授を異様にもり立ててきた韓国世論にも帰すべきだろう。
日本でもクローン胚を利用してよいという国の決定は粗雑なものだった。審議にあたった総合科学技術会議の生命倫理専門調査会が、審議の内容を無視して強引な強行採決を行ったのだ(2004年7月)。しかも、それは韓国の実験成功報道に追いかけられるようにしてなされた「政治的判断」だった(島薗進『いのちの始まりの生命倫理――受精卵・クローン胚の作成・利用は認められるか』春秋社、2006年)。このように人類の未来が関わる生命倫理の重大な問題について、各国が国際競争を意識して先を競って研究に期待をかける事態は常軌を逸している。このような先陣争いが、人類社会のよき未来に貢献するとはとても思えない。多くの科学者もそのことを知っている。
科学技術とスピリチュアリティ
先端科学技術をめぐるこうした問題は文化やスピリチュアリティと接点を持たざるをえない。どこで歯止めをかけるかという問題の考察は宗教やスピリチュアリティに多大な影響を受ける。アメリカ合衆国の場合、ヒト胚利用を初めとする生命倫理の討議はキリスト教会が示す死生観に左右されることが多い。とりわけ、人工妊娠中絶の是非をめぐる議論が大きな影を投げかけている。カトリック教会は受精の瞬間からまったき人のいのちがあり、けっして侵害してはならないという。「生命の神聖性」を主張するこの立場が、ヒト胚研究の生命倫理をめぐる議論の枠組みをも決めている。
クローン胚を作成して研究・利用することを是とするかどうかについて、国連は2005年に討議を行った。カトリック教会の影響の強い国とイスラーム諸国では否とするのに対して、西欧とアジアの国々が是とするという立場の相違が露わになった。アメリカ合衆国は一方で科学による進歩を信じ研究の自由が強く主張される国だが、他方、中絶に反対するキリスト教会の影響が強い国でもあるので世論が分裂している。昨今は選挙の度毎にヒト胚の研究利用の是非が争点となる。
この問題を論じる欧米人のなかでは、アジアの文化がヒト胚利用に許容的であることを懸念する声が強まっている(フランシス・フクヤマ『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』(鈴木淑美訳)ダイヤモンド社、2003年、原著、2002年)。ヒトのいのちに介入する先端科学技術の進展を許容するかどうかについて、国際文化衝突が起こっているのだ。だが、日本の宗教界においてもヒト胚利用に対する懸念の声は強い。脳死臓器移植問題についても、「脳死は人の死」だとすることへの反対論の形成に、宗教やスピリチュアリティが一定の役割を果たした。韓国とはたいへん異なる状況だが、どうしてそうした違いが生ずるのか、その理由についての研究はほとんどなされていない。東アジア文化に対する欧米諸国の懸念がそのままあてはまるかどうか、私たち自身が問われている。
先端的な科学技術への歯止めの問題とスピリチュアリティが関わるのは、他にも理由がある。それは現代科学の方法論に対する疑問と関わっている。現代科学はますます専門化し、特定の事柄の因果連関の実証へと関心を狭めていく傾向を強めている。そこでは、限定的な目的を追求するために、生命体の特定部分を操作してその結果を見ようとする還元主義的な認識態度が支配的だ。資本主義的競争がそれに拍車をかけている。しかし、生命体の特定部分を操作すれば長期的に他の部分にさまざまな影響が及んでいくのは当然だ。現代の科学が倫理的歯止めを見失いがちなのは近代科学の還元主義の帰結でもある。
これを是正するにはつねに全体との関係において部分をみる態度が必要となる。こうしたホーリスティックな科学は、スピリチュアルな世界像と踵を接している。スピリチュアリティに親近感をもつエコロジー的な思考が、地球科学や生物学を大きく変えて来たとすれば、生命科学や医学の分野でもそのような変容が生じないはずはない。
医療は人間が人間をケアする営みである。近代医学は人体を計量可能な要素へと還元し、個別的な因果関係の枠内で処理しようとしてきた。そもそも還元論的科学の枠内で他者をケアしようとすることに無理がある。だが還元論を越えてホーリスティックな視座を採用すれば、すぐそこに人間のスピリチュアルな側面が姿を現す。緩和医療がまさにそうだが、還元主義的な科学としての医療の限界を適切に認識するとき、医療関係者のみならず生命科学者もスピリチュアリティと密殺に関わらざるをえないことを自覚することになろう。
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