書評:アン・B・パーソン『幹細胞の謎を解く』(渡会圭子訳)みすず書房、2005年

『週刊読書人』2006年2月24日


 人や動物のからだは膨大な数の細胞からなるが、それらはもとになる細胞から分化して複雑な構成体へと成長したものである。このもとになる細胞が幹細胞で、幹細胞は人体各部の細胞や組織を分化させる可能性をもった不思議な存在だ。生命の神秘を象徴するようなこの幹細胞が今や先端医療技術の焦点として注目されている。幹細胞を用いる再生医療が脚光を浴びるようになったのは、一九九八年、ウィスコンシン大学で人の胚性幹細胞(ES細胞)の樹立に成功して以来だ。前年にクローン羊のドリーが生まれており、クローン技術とES細胞技術を組み合わせれば、免疫反応のない人体組織再生のバラ色の夢が実現するかもしれない。その夢はソウル大学のファン・ウソク教授の悲劇を生んだ。
 トカゲのしっぽの再生はよく知られているが、生物界には身体再生の事例はいくらもある。そもそも生物体とは細胞の分化と再生を繰り返すことによって個体としての生をまっとうしていく存在なのだ。人もまたあらゆる種類の幹細胞(体性幹細胞)をもち、日々、再生を繰り返し生命を維持している。これらは受精卵を構成している未分化な肺細胞や胚性幹細胞の性格をなにほどかとどめた細胞と言える。老化はこの機能の衰退と関わりがあるし、がん細胞は再生に失敗した細胞の塊と見ることもできる。
 ヒドラを初めとする動物の再生能力の体系的は研究に着手したのはオランダのトランブレーで一八世紀の中葉のことだ。著者はそこから話を始め、現代の幹細胞の医学利用の最前線に至るまでの再生研究、幹細胞研究の歴史をわかりやすく説き明かしていく。おおかたの話は二〇世紀の後半と本書の執筆が終わる二一世紀の初めの三年間余りに関わる。ガン細胞(テラトーマ)や血液幹細胞の研究から神経細胞を含め、より複雑な組織を生成させる体性幹細胞の研究へと進んでいく一方、一九八〇年代以降はマウスなどの動物のES細胞の研究が進む。物語のグライマックスは人のES細胞の樹立に至る九〇年代の研究の経緯だろう。それはまた、倫理的な是非をめぐる議論の高まりの叙述とも重なる。
 科学ジャーナリストの立場からの入念な取材に基づきわかりやすい解説がなされ、幹細胞研究と再生医療の興隆の全体像をつかむには格好の書物である。クローン胚やES細胞の作成・利用をめぐる生命倫理を考える際の基礎的知識に寄与する有益な情報に富んでいる。取材に投じられたエネルギーは相当なものである。実験室と科学者共同体でかなりのスピードで進められていることを、一般社会がある程度、理解するには有能な科学ジャーナリストの底力が要求されることがよくわかる。だが、こうした先端医療技術開発のもつ思想的、文化的、社会的意味を問う仕事はこの書物の終わったところから始まる。著者はそうした問題に少しはふれているが、人文社会系の知になじんで来た立場からはその狭さは明白だ。この種の科学ジャーナリズムの役割と限界がよく知れる書物でもある。
 気になるのは時間的な落差である。一般社会が先端医療技術の開発についてある程度の知識を得るのにかなりの時間がかかり、それについて社会的合意を得るのにさらに多くの時間がかかる。その間に規制の網にかからず利益にかなう研究は野心的な科学者の手により確実に進められ、夢は膨らみ科学者はそれをあおりあおられる位置に置かれてしまう。

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