人の胚を研究利用することの是非――生命倫理と宗教文化――

渡辺直樹編『宗教と現代がわかる本 2007』平凡社、2007年3月、118−121ページ


 新聞の紙面を見ると、生命倫理に関わるニュースが毎日のように掲載されるようになった。(1)国内で臓器売買が行われていたが、どうもひじょうに珍しいことでもないらしい。海外に臓器を買いに行く人がおり、多額のお金さえあれば比較的早く得られるらしい。誰の臓器なのだろうか。(2)富山県の病院では意志の判断で治療停止が行われ、死期が早められていた。事情を聞いてみるとやむをえないようにも思われる。だがそれは法的・倫理的に許されることなのか。本人が延命治療を望まないならその意志を尊重しようという尊厳死も合法化されるかもしれない。(3)五〇歳代の母親が子宮ガンを患った娘のかわりに子供を身ごもって、無事出産した。国内でも学会の規範を無視して代理母が行われて来たが、祖母が子を産んだというのは初めての例だ、等々。
 こうした問題が起こるのは、一つには生命科学と医療技術が進んで、以前はとても出来なかったような医療措置が出来るようになったからだ。二〇〇四年二月にソウル大学の黄禹ソク(ファン・ウソク)(金へんに易)教授が人のクローン胚からES細胞(胚性幹細胞)を樹立したと報道された。黄教授は韓国国民の大喝采を浴び、一躍国民的英雄のようにもてはやされた。二〇〇五年にはもっと効率よく人クローン胚からのES細胞が得られ、たとえば『中央日報』は「ノーベル賞もの」「国宝級」を褒めそやした(『朝日新聞』二〇〇六年一月一四日)。
 この研究は再生医療の明るい未来を引きよせるものと期待された。患者本人の遺伝子をもつ細胞や組織が大量に得られれば、多くの難病が治療できるようになるかもしれない。やがては、動物の体内に人の臓器を育て、心臓病や肝臓病の患者に拒絶反応のない移植医療を施せるようになるかもしれない。そうなれば、脳死体からの臓器移植などは過去のものになる。夢の医療が可能になると唱える人々も少なくなかった。韓国は世界に誇る韓国科学の成果として黄教授を讃えた。
 ところが、二〇〇五年の一一月になって、黄教授の研究が実は偽りではないかとの報道がなされるようになった。二〇〇六年一月にはソウル大学の調査委員会が、黄教授の人クローン胚由来ES細胞の研究成果とされたものはすべて捏造だったとの最終報告を行った。黄教授の研究成果が本物だと信じた世界各国の中には、研究推進に躍起となる人々も少なくなかったから、この報道は世界中に衝撃を与えた。韓国国内では国民的ヒーローがにわかに論文偽造スキャンダルの責任者として糾弾されるに至った。その間、韓国の主要なメディアは批判報道を非難するなどして黄教授を擁護しようとしてきたが、ついに「英雄」担ぎの片棒をかついで来たことを認めざるを得なくなった。巨大な国家利益がかかった事柄だったが、ユーフォリアから悔悛へとメディアの色調はがらっと変わった。
 だが、問題は単に研究成果の捏造ということだけではない。この実験ではまことに多量の卵子が用いられていた。クローン胚を作るのには健康な卵子が必要である。だが、女性が排卵誘発剤を服用して卵子を提供する際にはからだに多大な負担がかかる。不妊治療でも同じように卵子を採取するが、そのために大いに苦しむ女性もいる。中にはそれが原因で死亡した女性の例も報告されている。自発的意志により女性が提供するといっても、心理的な圧力が生じたり、売買に発展したりする可能性がないとはいえない。その卵子を二千個以上も集めて実験は行われた。生命倫理上の疑念がつきまとっていたのだ。
 そもそもクローン胚を作り、それを破壊してES細胞を採取することは、新しい人間の生命の萌芽を作り、次いでそれを破壊することを意味する。そのように人間の生命を道具や資源のように扱うことが許されるのか。さらにES細胞が将来、どのように利用され、どのような結果を生むのか。そこに人の尊厳を脅かす事柄はないのか。たとえば、人と他の動物のキメラを作ることはどこまで許されるのか。韓国では黄教授の研究成果捏造が露わになってからも、これらの問題が十分に討議されているわけではない。だが、世界的にはこれらの生命倫理問題をきわめて重い問題として受け止めている国々もある。
 アメリカではクローン胚問題以前に、体外受精の際に子宮に戻されずに凍結保存された受精卵(受精胚)からES細胞を作成することの是非が大きな政治問題になっている。ブッシュ大統領は新たなES細胞の作成に関わる研究に連邦予算を支出しないと決定している。これには受精の瞬間から人間の生命は始まっており、それを破壊することは殺人に等しいとするキリスト教勢力の支えがある。だが、科学者や患者団体や民主党などはES細胞の研究を進めれば多くの難病が治るとして、研究容認、研究推進を求めている。この論争の背後には、人工妊娠中絶の是非をめぐって長年争われている生命尊重派(プロライフ)と選択権尊重派(プロチョイス)の闘争がある。宗教的な論点が根底にあるのだ。
 この問題はまた国際政治問題でもある。世界にはES細胞の研究やクローン胚の作成に積極的な国とそうでない国がある。研究推進に慎重な国はキリスト教の影響が強い国、とりわけカトリック教会の影響が強い国が多い。一方、どんどん進めようとしている国は、中国、韓国、シンガポール、イスラエル、イギリスなどで、アジアでは反対の声が小さい。アメリカ合衆国では、このままでは生命倫理問題で高いハードルがないアジアの国々が研究を先に進めていってしまい、この分野での科学先進国になってしまい、アメリカ合衆国は遅れをとってしまうのではないかという議論が力を増してきている。ブッシュ大統領の下の生命倫理委員会の委員である政治学者のフランシス・フクヤマは、儒教やアニミズムが基礎にある東アジアは、人間の尊厳にさほどこだわらないので生命科学の積極推進によって人類を危険な方向に進めてしまうのではないかとの危惧を表明している。
 このように科学研究の是非をめぐって、世界の諸文化、とりわけ宗教文化間の葛藤が露わになっている。国際政治の動向をめぐって、サミュエル・ハンティントンは「文明の衝突」に警鐘を鳴らした。何とか「文明間の対話」を進めなくてはならないと論じたのは、イランのハタミ元大統領である。これは国際政治をめぐる議論だった。今やそれが生命倫理にも及ぼうとしている。生命倫理問題についても文明間の対話を熱心に進めるべき時に来ているのではないか。
 では、日本ではそのことがどれほど自覚されているだろうか。まだまだと言わなくてはならない。脳死臓器移植問題については、いくらか議論がなされたが、「いのちの始まり」をめぐる生命倫理問題の重要性については、今のところ関心が高いとは言えない。
 「いのちの始まりの生命倫理」において大きな論点となるのが、妊娠中絶の問題だ。それは生命科学や医療技術の急速な発展に先立って問題となっていた事柄であるが、今やこの問題を宗教文化との関わりで理解することが緊要な課題となって来ている。日本では優生保護法(一九四八年)によって、世界の諸国に先立って広い範囲での人工妊娠中絶が容認された。これは戦後の食糧難等の事情が関わっていたことが知られているが、もっと長い射程で考えなくてはならない。たとえば、江戸時代には中絶は比較的自由に行われていたが、幕末に近づくにつれて、幕府や藩、また真宗教団などが中絶禁止を強く説くようになった。宗教団体と政府が協力して中絶禁止を説く背後には、国力(藩力)増強と教団勢力拡充という動機が見え隠れしている。
 中絶禁止の立場で唱えられる生命尊重は美しい理念だが、人口問題に照らしてみたとき、異なる側面が見えてくる。人口問題は戦争や植民地主義と深く関わってきた。また、限られた資源の中で世代継承を続けていくために人口調整に多くの配慮を行ってきた地域や文化もある。世代を超えてよき環境が維持されるように願うことと、死者と生者、先祖と子孫の共生感を尊ぶことにはつながりがある。東アジアの宗教文化はそのような共生感を尊ぶという特徴をもっている。このような側面から、「いのちの始まりの生命倫理」を考え直すことには大きな意義があるだろう。
 生命倫理問題を宗教文化の観点から考察することの重要性がますます高まっている。とりわけアジアの宗教文化を通して現代の生命科学や医療技術を見直す作業がぜひとも必要になっているのだ。
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ES細胞――胚性幹細胞(embryonic stem cell)。受精卵(胚)の初期の段階で、胚盤胞が形成された段階で胚を破壊し、内部の細胞塊を取り出して培養する。そこで生成する細胞、無限に近く増殖することができるとともに、人体のさまざまな部分に育っていく可能性をもった細胞が胚性幹細胞とよばれる。さまざまな人体組織に発達していく細胞は成人の身体からも得られるが、これは体性幹細胞(somatic stem cell)とよばれる。
クローン胚――クローンとは接ぎ木から来た用語だが、動物の身体の一部から同じ遺伝子組成をもった個体を作ることができるようになってきた。ほ乳類でさえそれが可能だということを証明して世界に衝撃を与えたのが、クローン羊ドリーの誕生(1996年)だ。だが、卵子の核を取り除き、そこの成体の体細胞を核移植してできたクローン胚を、まだ育つ前の段階で医学的に利用しようという可能性が生じ、論議をよんでいる。
優生保護法――日本では、一九三五年、国民優生法ができて障害者らに子供を産ませない措置を下すことが合法化された。第二次世界大戦後にこの法律がもととなって優生保護法が成立し、人工妊娠中絶が合法化された。だが、この法律では障害者や弱い立場にいる人々の差別につながる優生学的な考え方が基調をなしているので、一九九八年、母体保護法へと改められた。
[参考図書]
フランシス・フクヤマ『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』ダイヤモンド社、二〇〇二年
レオン・カス『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』日本教文社、二〇〇五年
島薗進『いのちの始まりの生命倫理』春秋社、二〇〇六年

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