書評と紹介:阪本是丸編『国家神道再考――祭政一致国家の形成と展開』弘文堂 二〇〇六年一〇月 

『宗教研究』353号、2007年9月、269−275ページ


 現代日本の宗教状況の枠組みは「国家神道」の解体によって定められていると考えられている。では、その国家神道とは何かというと、その意味がはっきりしない。国家神道の解体を主要な目的として出された一九四五年一二月の「神道指令」(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)では、国家神道とは「日本政府ノ法令ニ拠ツテ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道ナイシ神社神道トシテ一般ニシラレタル非宗教的ナル国家祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル」としている。端的に言えば、戦前の神社神道=国家神道ということである。
 しかし、実際には国家神道の語はもっと広い意味で用いられてきている。明治維新以後、皇室の神祇祭祀は格段に強化され、国民が参加するような国家行事とも緊密に結びつけられた。それは、さらに神的な存在としての天皇崇敬を促すシステムとして、学校における御真影や教育勅語の神聖化などとも深く関わりあった。神社神道だけでなく皇室神道をも含め、天皇と皇祖皇宗への崇敬のシステム、さらにはそれらを基礎づける国体の教義もひとまとまりの宗教的言説・実践の集合体として理解できるのではないか。
 この広義の国家神道概念の立場を学問的に確立したのは、村上重良の『国家神道』(岩波書店、一九七〇年)である。村上は戦前の国家神道とは、神社神道と皇室神道と国体の教義とを構成要素とするものだとし、明治維新後早い時期に確立し、近代日本の精神史を支配したと論じた。これに対して、葦津珍彦は『国家神道とは何だったのか』(神社新報社、一九八七年、新版、二〇〇六年)を著して村上の国家神道論を痛烈に批判し、国家神道とは国家機関とされた神社神道を指すという狭い定義に限定して用いるべきだと論じた。
 その後、葦津の立場にそって国家神道論の歴史を検討した新田均の研究が公刊され(『近代政教関係の基礎的研究』大明堂、一九九七年)、他方阪本是丸は明治以降の神社の制度的位置づけをめぐる精緻な実証研究を著した(『国家神道形成過程の研究』岩波書店、一九九四年)。これら神道史の立場からの研究により、村上が描き出そうとした広義の国家神道論の危うい点が多々露わにされてきた。他方、広義の国家神道が何を意味するのかについて、村上以後、まとまった研究は乏しい。このため明治維新以後の宗教史や政治史を論じる際、国家神道の語がしばしば用いられるにもかかわらず、その内実があやふやであるという状態が生じていた。
 このような状況を踏まえて、評者は二〇〇一年九月に「国家神道と近代日本の宗教構造」(『宗教研究』三二九号)という論考を発表してから、広義の国家神道概念を練り直す作業を進めている。これは私ひとりが試みているのではなく、他にも国家神道概念の内実を明確化しようと試みる論述がいくつか、現れてきている。子安宣邦の『国家と祭祀――国家神道の現在』(青土社、二〇〇四年)もその一つで、近世思想史の専門家が会沢正志斎の『新論』に見られる祭祀観・祭政一致観の分析を基軸とし、国民国家と死者祭祀の関わりを問うという問題意識から、近代の国家神道体制の意義を考察しようとしたものである。
 以上、長い前置きとなったが、本書『国家神道再考』が成立する背景にはこのような国家神道をめぐる論争状況がある。編者は葦津珍彦の志を継いで国家神道研究を続けてきた國學院大學の阪本是丸だが、一一編の収録論文の執筆者は阪本の講筵に列して研鑽を積んできた若手研究者である。これらの研究者が集い、藤田大誠、藤本頼生の両氏が肝いりとなって二〇〇四年に国家神道研究会が結成され、討議を重ねた上で本書はまとめられた。
 本書の「あとがき」ではこの会が始められたきっかけは、子安の『国家と祭祀』が、「先学の国家神道史研究に対して誹謗中傷に近い筆致で痛烈な批判を浴びせかけているのにも拘らず、その内容があまりに杜撰で、研究史の無視や国家神道研究しに対する画一化された見方、神道史に対する曲解に基づいている事に、藤田大誠と藤本頼生の二人が衝撃を受けた事による」と記してある(四一〇ページ)。だが、執筆者たちはもっと長期にわたって国家神道史や近代宗教制度史の研究を続けて来ており、本書の背後にはその蓄積がある。
 新たに研究会を起こして取り組まれたのは、「祭政一致」というキイワードを通して、これまでの国家神道や近代宗教制度史の研究成果を見直すという共同作業だった。それはまず、国家神道とは何かを明らかにするには、それに関わる明治維新以前の思想史を押さえる必要があるという認識があった。序文にあたる「『国家神道再考――祭政一致国家の形成と展開』に寄せて」において、阪本はその経緯を次のように述べている。
 この研究会に集う若い研究者たちのそれぞれの研究は、まさに『国家神道とは何だったのか』で提起された問題意識・史観を継承し、その「修補改正」を各々の個別的な研究課題・視点から総合しようとする、極めて意欲的な「国家神道」研究と私には思えた。/(原文改行)「将来を思ふ者は、まず「実像」を確かめねばならない」と葦津氏は述べ、「国家神道」の歴史的実像を探るべき、主として明治維新以降の神道の歴史的展開を精緻かつダイナミックに論じた試論を公刊した。「将来を思ふ」国家神道研究会のメンバーは、この葦津氏の試論を土台としつつ、「国家神道」を論ずるには、さらにその考察の時代や対象を遡及する必要があるとの認識を共有するに至ったのである。すなわち、「国家神道」の根幹としての「祭政一致」の思想と制度の歴史的展開を研究することこそが、葦津氏の「国家神道をめぐる試論」の最も重要な「修補改正」に繋がるという共通認識である。(iiページ)
 では、「修補改正」の実質はどこにあるのだろうか。丁寧に資料を調べ、発掘された多くの事実がある。そうした実証的な資料調査の積み重ねが重要だというのが、本書の主張の一つでもあるが、それと並んで理論的な展望も探られている。国家神道概念を拡げることはその重要な一部だ。この点では、とりまとめ役の一人である藤田大誠による第一一章「国家神道体制成立以後の祭政一致論」の記述が参考になる。藤田は広義の国家神道と狭義の国家神道の二つの用法が競い合っている状況にふれた後で、次のように述べている。
 
 このような研究動向の一方で、村上重良の「国家神道とは何か、という問題を、その成立の前提となった神道の歩みを背景として、客観的実証的な立場で追求し解明すること」という指摘に立ち戻りつつ、「国家の神道(宗教)政策・行政」を研究の始点に据えることを決して必要十分条件とするのではなく、あくまで最低限の必要条件として踏まえた上で、島薗進のいうような「国家神道の広い用法を鍛え直す」研究の必要があるとする阪本是丸の立場がある。つまり、これは「国家神道」の制度史的側面と思想的・イデオロギー的側面の双方のダイナミックな絡み合いを精緻に論じようとする方向性に他ならない。(三五六ページ)
 藤田は「筆者も右の問題意識に同感している」と述べているが、これは葦津珍彦や新田均が主張するようなもっぱら制度史的意味に限定された狭い国家神道概念を越えていこうとする立場である。国家神道を思想的・イデオロギー的側面から考察していくことは必然的に広い国家神道概念の方へ歩み寄ることを意味する。本書においてそのことを明示的に示した箇所は少ないが、「祭政一致」はそうした方向性での研究の発展のための戦略的な意義をもつものと考えられているようだ。
 では、祭政一致について宗教や神社に関わる制度史と思想的・イデオロギー的側面の双方を見ていくとは、具体的にどのような作業なのか。以下各論考の内容を整理しながら紹介していく。なお、第一章等の章番号は評者がこの書評の便宜のために付したものである。
 最初の二章は、祭政一致思想の歴史的由来と系譜を問うものである。西岡和彦による第一章「神籬磐境(ひもろぎいわさか)考――垂加神道の祭政一致観」では、祭政一致論の源流の一つとして垂加神道が検討されている。そこでは記紀に基づいて「天壌無窮の神勅」による祭政一致の理念が説かれるとともに、神籬磐境を立てて天皇を斎い奉り天皇を守護することとして神祇祭祀が意義づけられていた。松本丘による第二章「近世に於ける祭政一致思想の展開――垂加神道より水戸学へ」では、国学ではなく儒学に力点を置いて、江戸時代の祭政一致論の系譜がたどられている。垂加神道の祭政一致理念は、栗山潜鋒や蒲生君平を介して前期水戸学に引き継がれるが、その過程で「復古」による体制変革理念として、また、国家的危機に応じて民心統合を図る時務策としての性格を帯びてゆく。後期水戸学の会沢正志斎による『新論』はそうした論調を集約していくのであり、その際、祭祀を民心統合の手段と見る政治主義が強化されてゆく。
 中野裕三による第三章「近代神宮への道程――御巫清直の思想と古儀復興」、星野光樹による第四章「幕末維新期における祭政一致観――会沢正志斎と国学者をめぐって」、中村聡による第五章「国学者における教化思想の諸相――浦上キリシタン問題と「教」の可能性」では、幕末維新期における思想と学問のなかで祭政一致観がどのように機能していたかが論じられている。中野によると「古儀復興」を目指した伊勢の神宮学者、御巫(みかんなぎ)清直(一八一二―一八九四)は上古以来の天皇と伊勢神宮の密接な関係について地道な考証を重ね、維新以降の祭政一致政策の学問的支えを提供した。また、星野と中村の論考は、明治維新期の国家神道形成過程に大きな影響を及ぼした、大国隆正と津和野派国学者の祭政一致思想の特徴とその役割を論じている。大国派(津和野派)は産霊の造化の働きを重視する平田派に対して、後期水戸学と同様、皇祖皇宗の祭祀を重視する。維新後、その理念は宮中における天皇親祭としては実現したが、氏神祭祀をもそこに組み込むという目標は挫折した。また、浦上キリシタンへの教化を通して、大国派は諸宗教を受け入れた上で、寛容な統合を図る姿勢を強める。祭政一致と天皇崇敬はそのような巧みな戦略によって、新政府の政策課題に乗せられていく。
 河村忠伸による第六章「上地事業における境内外区別」、戸浪裕之による第七章「明治八年大教院の解散と島地黙雷」、齊藤智朗による第八章「帝国憲法成立期における祭教分離論」、藤本頼生による第九章「明治末期における神社整理と井上友一――内務官僚と「神社中心説」をめぐって」では、明治時代の各時期における宗教制度・宗教行政上の重要問題がいくつか取り上げられている。神道を優遇したかに見える明治政府の諸政策が、実は草の根の地域神社に抑圧的な結果をもたらしたり、仏教界に有利に展開したり、仏教界の意図を反映していたりする経緯が取り上げられている。
 祭政一致理念が具体化したはずの国家神道とは、島地黙雷が目指したように仏教の勢力維持・拡充の戦略と合致するものだった。政治的統合の側面に限定されたものとして国家神道を容認することに、仏教徒は何ら痛痒を感じなかった。仏教勢力の意図を反映するこうした政治主義が、やがて神社神道の「形式的な官僚神道化」(二五〇ページ)をもたらすが、その過程を象徴するのは「祭教分離」政策である。神社神道が「宗教」ではなく「祭祀」に属するものとする方向へと舵がとられ、神社整理政策に顕著に現れたように地域の神信仰はないがしろにされる。官僚神道化を押し進めた井上友一のような内務官僚は近代的な社会政策論に後押しされてこうした政策を選んだが、それは伝統文化の意義や地域住民の意志をくみ上げたものではなかった。後に内務官僚自身そのことを認識せざるをえなくなる。一方、地域社会の神道人らは、なおも国家的な神道祭祀の興隆を望み、彼らの理想とする祭政一致の実現を目指し、国家的な機関としての神社の実質的な地位の回復を願う。古代の神祇官に相応するような高次の神祇特別官衙を設立する運動がその中核となる。
 宮本誉士による第一〇章「国家的神道と国民道徳論の交錯――加藤玄智の「国体神道」の意味」、藤田大誠による第一一章「国家神道体制成立以降の祭政一致論――神祇特別官衙設置運動をめぐって」は、ともに大正期以降が素材だが、前者は祭教分離に反対する立場からの学問的国家神道言説を、後者は神社神道の興隆と合致する形での祭政一致を目指す政治運動を取り上げている。宮本は現在用いられている広義の「国家神道」概念は、加藤玄智が概念化した「国家的神道」の語に由来するが、その「国家的神道」は師である井上哲次郎の「国体神道」に学んでおり、井上は国民道徳論の構築と並行して国体神道の語を用いるようになったと論じる。広義の国家神道概念は神社神道的な神道研究とは別個に、国民道徳論から日本精神論へと展開していく思想系譜のなかで形づくられていったとする。また、国民統合に関わる概念であるからこそ抽象性、曖昧性が伴わざるをえないともいう。
 藤田大誠は島薗のような広義の国家神道論者がいう「国家神道体制」がひとまとまりのものと言えるかどうかについて疑義を呈しながら、より具体的で触手可能な「祭政一致論」を検討するという立場を表明する。実際に藤田が検討するのは、神社神道の担い手や周辺の人々が推進しようとした神祇官衙設置運動である。運動が実を結び一九四〇年神祇院が成立したとき、「敬神思想ノ普及ニ関スル事項」が定められたことは意義深い。それは、神社神道がイデオロギー・思想に関わるものであることを明示したが、それは文言だけのことに終わった。神祇官衙設置運動が目指したことの今一つは、皇室祭祀と神社祭祀の有機的統一だったが、これも神祇院設立でかなり実現に近づいたにもかかわらず、ついに敗戦に至るまで実現することなかったという。
 以上、本書収録の各論文で論じられていることのおおよそを駆け足で紹介して来た。ここでは草莽の国学から近代の地域神社に至る系譜の「神道人」が願った国家神道の像を念頭に置きながら、実際にそうは展開しなかった近代神道行政とそれをめぐってせめぎあう祭政一致思想が検討されている。地域神社を主体とする神社神道の視点から「国家神道」史、「祭政一致思想・政策」史を実証的にたどるという方法はそれなりに成功している。「祭政一致」という視点を導入することで、国家神道史、近代宗教制度史を政治・宗教思想史の考察に結びつけ、読者に豊かな素材を提供しえていることは、本書の大きな功績である。
 他方、あくまで地域神社こそ神道を代表するという視点、政治主義的な国家主導の宗教政策によって神社神道本来の理念の実現が妨げられたという視点を固持することで、近代神道史の大きな流れが見えなくなっているという欠点も指摘しておかなくてはならない。
 本書では、近代神道においてきわめて大きな意義をもった皇室神道や天皇崇敬システムについての叙述はほとんどなされていない。いったい大嘗祭にふれないで、近代の国家神道や祭政一致の実態を論じたと言えるだろうか。本書でも批判の矛先が向けられている村上の国家神道論は、近代における「天皇の祭祀」の重要性に注目しその歴史を描き出して主張を裏付けていた。そもそも神道が神社神道という組織には限定されず、神々に対する崇敬実践や信念群の一定の体系性をもったまとまりを指すのだとすれば、皇室神道や「天皇の祭祀」の実態、またその影響が及ぶ範囲にふれないわけにはいかない。さもなくば近代神道史はやせ細ったものとならざるをえない。国民的行事となった皇室神道と国家によって組織化された神社神道が密接に関係づけられたことが近代的祭政一致の特徴だが、ならば国家神道再考において皇室神道の考察が軽視されているのは重大な欠落である。
 確かに「宗教」としての皇室神道と「天皇の祭祀」が及ぶ範囲を明確化するのはひじょうに難しい。教育勅語と御真影は学校における「天皇制のマツリ」(山本信良・今野敏彦『近代教育の天皇制イデオロギー――明治期学校行事の考察』新泉社、一九七三年)の中核をなしたが、それでは「天皇制のマツリ」のすべてを「国家神道」の現れと見なすべきだろうか。同様に、天皇の神聖性をめぐる言説(「尊皇思想」)の全体を「国家神道」の語に納めようとすれば、あまりに広い範囲の現象を「神道」のもとに包摂することになろう。広義の国家神道という概念を用いる際、このようにひじょうに広い範囲の現象がそのすそ野に横たわることになるのを避けることはできない。
 だが広義の国家神道の「すそ野」は「すそ野」と認識すればよい。広義の国家神道の中核は皇室神道と、神社神道のうち皇室や国家との連携を強め国家的な意義をもたされた側面、そしてそれらに対応する祭政教一致、皇道等にまつわる言説群である。そもそも宗教が明確な輪郭をもった組織や狭義体系によって輪郭づけられると理解されがちなのは、キリスト教を範とした近代的宗教概念の弱点である。神道とはそのように明確な輪郭をもった宗教ではない。神道と神道でないものの間がいつの間にか移り変わってしまうような、広いすそ野をもつようなシステムとして、神道や国家神道を考察すべきである。
 国家神道を問うときに、「思想的・イデオロギー的側面」が重要であることを、本書は再確認しており、その意義は大きい。しかし、本書が思想やイデオロギーを扱うとき、その範囲はかなり狭く限定されている。つまりは国学・神社神道側からみた祭政一致の理念や国家神道思想とその周辺の思想史が点描されに止まっている。たとえば村上が重視していた「国体」思想の歴史は検討されていない。祭政一致思想と国体思想は不可分のものであり、後者こそ近代国家の基軸となった。そうだとすれば、祭政一致思想と国体思想の関係は正面から論じられてしかるべきだろう。
 確かに田中智学のように仏教と国体思想を結び付けた論者や、近代政治思想や法思想に儒教的な理念や国体思想を結び付けた論者もいる。それらすべてが、国家神道の言説だとする必要はない。地域神社の祭祀が国家神道の枠を超えていたのと同様に、国体思想は国家神道を越えた広がりをもっていた。だが、国体思想は皇室神道と深く関わっているかぎりにおいて国家神道の中核に位置しており、そのような視角から国家神道の構成要素として論じられるべきものである。
 本書は従来の国家神道研究が抱えてきた問題点を明るみに出し、新たな地平へと導いていく手がかりを提供している。右に述べてきたいくつかの批判的な論点は、本書のようなまとまった研究成果が刊行されることによって、初めて明確化してきたものでもある。その意味でも評者は本書から学ぶところが多かった。この書評は評者自身の国家神道論の見直しの機会となったが、神道史研究がより広い視野を得て、さらに豊かな成果をあげていくための方法論的な問題提起でもある。そのような対話的意図をくみ取っていただければ幸いである。

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