「今がわかる名著 宗教」上中下

『東京新聞』2006年6月11日


1.宗教対立の深層
 今日、世界各地で宗教が集団間の深刻な対立や暴力の大きな要因となっている。このような事態に至ったわけはどのように理解できるのだろうか。もっとも憂うべきはイスラーム諸国とキリスト教文明を築いてきた欧米諸国の対立だろうが、この対立をどう見ればよいのか。パレスチナやイラクがこの対立の悲劇的な前線であることは見やすい道理だが、もう一つの前線というべきものは、ヨーロッパ内部のイスラーム教徒の処遇である。
 内藤正典『ヨーロッパとイスラーム』(岩波新書)はドイツを軸にオランダやフランスの状況にもふれながら、なぜヨーロッパのムスリム移民がイスラームに目覚め、他方ヨーロッパ諸国の住民が彼らを敵視する悪循環の関係にはまりこんでいくかを如実に描き出している。それぞれの国々で状況は異なるが、対立する双方の考え方の前提が理解しあわれないままに共生の道を拒んでいるかに見える事態が明らかになる。寛容や平等の価値を掲げるはずのヨーロッパ諸国が、なぜムスリム移民の立場を受け入れることができないのか。そのわけは各社会がもつ特殊な価値観の前提を相対化できないでいることにある。
 では、イスラームを拒む西洋世界の前提とは何か。タラル・アサド『世俗の形成』(みすず書房)、『宗教の系譜』(岩波書店)は「宗教」と「世俗」とを対立させる考え方が現代西洋の揺るぎない前提となっていると見て、そうした枠組みがどのように発生してきたかについて系譜学的探求を行っている。自らは「世俗」の側にいるとして、聖俗分離=政教分離こそ近代世界の絶対規範であるかのように見なす考え方は、キリスト教文明の近代的展開過程から生まれてきたものであってイスラーム世界にはなじまない。「自ら判断し行動する全権をもつ自由な自己」という観念と国民国家を支えとする世俗的自己の意識には関わりがあり、それは従属者を意のままにしようとする植民地主義的意識とも連動している。
 キリスト教文明やイスラームの自己主張は国境を越えて広がっていき、グローバル化の流れにそったものとして理解できる。だが、宗教による対立の増幅はナショナリズムと関わっている場合も多い。キリスト教やイスラームの影響下にある諸国もそうだが、インドや日本やイスラエルの場合、人類普遍の教えを説くというより、自らの「民族」特有の聖なる教えが強調されて、他者との緊張増幅を招くことになる。M.ユルゲンスマイヤー『ナショナリズムの世俗性と宗教性』(玉川大学出版会)はこのような事態を説明しようとしたものだ。では、日本の状況をどのように見ればよいのか。島薗進『ポストモダンの新宗教』(東京堂出版)は1970年代以降の日本の宗教運動に「現代日本の精神状況の底流」を見ようとしたものだ。宗教復興と「文明の衝突」の動向にとって、日本は局外者ではない。「新新宗教」やスピリチュアリティの興隆(新霊性運動)からそのことが読み取れる。
2.東アジアの霊性とモラル
 「日本人は無宗教」と言われ、自分は無宗教と自覚する人が多い。中国へ行けば、「特定宗教は信じない」という人の割合は日本を上回るだろう。だが、東アジアには豊かな霊性(スピリチュアリティ)と倫理性(モラル)の「道」があり、伝統がある。仏教、儒教、道教、神道、新宗教、民俗宗教――これらの相互関係を見通しながら、宗教精神文化史を振り返れば「無宗教」という表現の根拠のなさが見えてくるだろう。
 加地伸行『儒教とは何か』(中央公論社)は東アジアにおける死者と生者の交わりの重要性に光を当てた画期的な書物だ。唯一の神を信じることや、究極の悟りの達成を信じることと、死者とともにあることを強く実感し続けることは等価かもしれない。そうだとすれば、「宗教」と「無宗教」の意味は大きくかわるだろう。他方、支配体制の方から見た「思想」史については、ヘルマン・オームス『徳川イデオロギー』(ぺりかん社)が新儒教を基軸とする近世東アジア世界の中で、神道へと傾斜していく日本の近世・近代の政治思想的世界観の展開につきよい眺望を与えている。
 「イデオロギー」を読み解く手法を用いて、「徳川宗教」研究を乗りこえようとしたオームスだが、そこには先祖や浮かばれぬ死者との交わりを実感して生涯を送った無名の人々、とりわけ女性の姿はない。その欠落はたとえば江戸後期の一女性の宗教的生涯を濃密に描き出した浅野美和子『女教祖の誕生』(藤原書店)によって補うことができる。尾張熱田の孤独な一女性が「三界万霊」の救済に目覚め、苦悩する庶民から武士まで多くの人々を導いていく。日蓮や親鸞の教え、そして金比羅信仰を引き継ぎ、慈愛に満ちた仏のもとへと帰心を誘う独自の信仰世界が形作られる。その姿はどこか孤独な現代女性を彷彿とさせる。
 死者とともに生きる霊性は民俗宗教や儒教を基礎とするとしても、大乗仏教はそれを包み込み下支えする働きをしてきた。古代以来の日本で死者との交わりがいかにして仏教信仰の中核に位置づけられていくか。「苦しむ死者」を通してこそ実存的な葛藤が表出される日本の宗教文化の特徴は、池上良正『死者の救済史』(角川書店)が如実に描き出している。
 この本は靖国論の基礎としても読めるが、家や一族の団結を促す祖霊信仰や死者供養に対して、ヨコの連帯による救済を志向する大乗仏教の別の一面にも目を向けたい。菩薩の慈悲の理念はボランティアや社会活動に取り組む現代日本人の心の深層に響いている。丹治昭義『宗教詩人 宮澤賢治』(中央公論社)は帝国主義の時代に菩薩の慈悲の理念を生き抜いた詩人の世界の行き届いた解説書だ。賢治は他者との断裂に痛みつつ、支え合い、助け合いをよびかける仏教精神を現代日本人の心に甦らせた。激変する現代東アジアに息づく、豊かな霊性とモラルの伝統の一つの結晶として賢治作品を理解することができる。
3.宗教・死生・科学 
 人が生きていく上での宗教との関わりはさまざまだ。宗教とはそもそも人が生きる形に宿るものであり、世界や人生についてのある種の考え方である。宗教教団・宗教伝統に所属・帰属するということだけが宗教との関わりではない。そこでたとえば、人が死とどのように向き合って来たか、というところから宗教を見直してみる必要がある。西洋の古代から現代まで、人は死とどう向き合って来たのか、その歴史をパノラマ的に描いて見せたのがフィリップ・アリエス『死を前にした人間』(みすず書房)だ。そこでアリエスは静かに落ち着いて死を受け容れていった人々の「飼いならされた死」について論じているが、そこには人をひきつけて止まぬ宗教の古層が描き出されているように思われる。
 現代人がいかに死生を扱いかねているかについては、膨大な量の書物が書かれてきた。医療やその周辺で出会う困難な倫理問題に適切に対処しようとすると、宗教文化を考慮に入れざるをえなくなる。日本の妊娠中絶問題を考えるには、水子供養について学ぶ必要がある。だが、水子供養につい学んでいくと、そこに地蔵信仰や菩薩の理念が、つまりは仏教の核心に関わる問題が潜んでいることが分かる。ウィリアム・ラフルーア『水子――〈中絶〉をめぐる日本文化の底流』(青木書店)は日本の宗教文化と生命倫理の関わりを通して、宗教に帰属感をもたない現代人にとって、なお宗教文化がもつ奥深い意義を浮かび上がらせた重要な作品だ。アメリカと西洋の宗教文化を背景に生命倫理問題の宗教的次元にまで踏み込もうとした、レオン・カス『生命操作は人を幸せにするのか』(日本教文社)と読み比べてみたい。世界の生命倫理の議論は哲学や倫理学による基礎づけとともに、現代の科学技術と諸宗教の伝統との深い次元での対話に基礎を置く方向へと展開する兆しがある。
 科学が発達し人間の死生の根本前提であったものをも変えてしまいかねない時代が来た。だが、そこでは宗教と科学がますます対立を深めると見るだけでは十分ではない。新たに宗教と科学が融合するような領域が多々生じてきている。宇宙を断片化し部分に還元してとらえるような唯物論的な近代科学の限界が見すえられ、新たに全体(コスモス)や創発性を組み込んだ自然の見方が求められている。ポストモダン科学は西洋の近代以前に根強く存在してきた自然神学の伝統に回帰する兆候を垣間見せる。S・トゥールミンの『ポストモダン科学と宇宙論』(地人書簡)はそのような知の構造的転換を鋭く論じている。宗教と科学の融合がとくに見えやすいのは心理学や心理療法の領域だ。現代の心理学は宗教の代替物のように見えることが少なくない。「宗教から心理療法へ」という変化、また「心理学の中の宗教的なもの」をどのように理解すればよいのか、島薗進・西平直編『宗教心理の探求』(東京大学出版会)はこのような観点から、現代心理学を問い直している。

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