死生観の現在

藤井正雄編『仏教再生への道すじ』勉誠出版、2004年6月、63−77ページより、一部抜粋。詳しくは書物をご覧下さい。


一、 死生観の復興
 戦時中には「死生観」や「生死観」という語は大いに人気があった。言うまでもなく、若い兵士を初めとして身近に多くの死に行く者があり、自らも死を覚悟しなければならない人が多かったからである。試みに、一九四三年に刊行された『日本精神と死生観』(西田長男編、有精堂刊)という書物を見てみよう。冒頭の「死滅を考へざりし日本人」という文章を、紀平正美は次のように結んでいる。
 今日の大戦争に於て、第一線に活躍して居る日本人[が]、天皇に、国家に、其の生を拓して居ること、何れにおろかあるべしとは考へられないが、知識者には、死の意義を考へるなど、多少の迂路がとられるやうである。然るに少年航空兵として訓練を受けたものには、幾多の美談佳話があるが、どうぜ死ぬるならば、其の「只今」を永恒ならしめんとして、更に大敵或は敵の巨漢に体當りの自爆をやるなどは、生死超越などいふ概念で取り扱はるべき性質のものではない、死を永恒ならしむるといふ、神代時代からの日本の考へ方をそのまゝに今に露呈したものに外ならない。則ち死滅を考へないのである。(二六―二七ページ、[ ]内は島薗による挿入)
 死を語る時は深刻、荘厳な口調にならざるをえない。無惨な死が身近になってきているから、死について納得する言葉を求めている。死に向き合っているという意識をもち、真剣に死生を考えている(と考える)ことが、厳しい現実を受けとめるための避けがたい仕草となった。
 「ほんもの」「真正なるもの」は死とともにあると感じられると、死を語る哲学的、宗教的な用語が輝きを帯びて現れてくる。紀平に続く佐藤通次の「国家と生死」という文章には、実存哲学風の用語が託宣のように用いられている。
 生が死を貫いて生の一元となるといつても、かくして現れる生は、箇体の生にすぎぬのである。従つて、生死の辨に泥(かかは)ることは、箇体の生の問題に執する事となるのである。
その際、死は単にかかるものとして考へられるのみであつて、いま死を考へてゐる生の働きに呼応する面を現してゐない。生を思ひ死を思ふ働きは、与へられた生を漫然と生きる植物や禽獣の生とは異なり、自覚的に発現する生であるから、この生によつて掴まれる死は、植物や禽獣の生の契機として考へられる存在的な死であつてはならぬ。即ちそれは、自覚的・事行的な死でなくてはならぬ。徒らに生死の辨に拘る事は、対象を自覚的に把握する事をせぬ静観知の立場に墮するのである。(三八―三九ページ)
  
 この議論は、結局は「死の自覚とは滅私にほかならぬ」(四二ページ)といったところに収まっていく。このような言葉をもて遊ぶことを強いられた若者たちが、戦後に気安く「死」を語ることを好まなくなった経緯はよく理解できる。崇高なものと結びつけられた乃木希典の死を平凡な人間の平凡な心情の次元で理解しようとした、司馬遼太郎の『殉死』(文藝春秋刊)は一九六七年の作品である。他方、輪郭鮮明に見え、輝く自己を佇立させるかのような「死生観」への憧れを、あえて遠ざけようとするそうした身振りに抵抗しようとするかのように、三島由紀夫が「自決」を行ったのが、一九七〇年のことだった。
 戦時期の響きを宿した「死生観」に対して、「戦後」を生きる者が抱き続けたこのアンビヴァレンツをよく体現した文章を残したのは、『戦艦大和ノ最期』の著者、吉田満たっだ。戦後を経済人として生き抜いたこの元学徒兵は、一九四八年、沈みゆく戦艦の中で死を覚悟した時の体験を次のように振り返っている(「死・愛・信仰」『戦中派の死生観』文藝春秋、一九八〇年、所収)。
 私がおそれ避けて来た「時」であった。果たして内心の声が抗しがたく迫って来た。――死にゆく者。死神の顔色でもうかがうか。それとも決算の用意があるのか。お前の生涯を飾る一切のうち、いま死にゆくお前に役立つものがあるか。あれば共に進むがよい――私は答えようと懸命に、追憶に向って救いを呼んだが、不安はつのるばかりであった。一枚一枚この肌をはがされ、むごい孤独のままに打ち捨てられようとしていた。それは余りに明らかだった。何もない、何一つない、これが俺だったのだ。(一三一ページ)
 生死の境を彷徨い、救われて横たわったベッドで、吉田は次のように考える。「平凡に生きる」ということ、そのことを通して確かなものをつかみとるということ。そのように「死から充分にへだた」り、「至誠をつくし」て生きることで「死を超える」のだと。
 俺は愛したい。献身したい。ひとに押し付けひとを叩くための議論でなく、そのためにこそ自分が生きているということだけを語りたい。そしてそのように生きたい。俺が戦塵の前で目を蔽ったのも、死のかたわらで麻薬を求めたのも、当たり前のことだった。あれが特効のいくさでなかったら真相はより明らかだったろう。必死、決死という感傷に耽ることも出来なかったろう。右か左かを選ばなければならぬならば、素手のかなしさは更に堪えがたかったろう。欺かれてはならない。あのようなものが死ではない。死から充分にへだたり、生きることが平凡な確かさを持っているとき、そこにこそ死がある。死ぬか生きるかの刹那、あるのはただ肉体の、感覚の、動物の死のみだ、生きねばならぬ。正しく、愛をきずいて、生きるにふさわしく生きねばならぬ。一瞬一瞬に至誠をつくし、悔いなき刻々を重ねねばならぬ。刻々に死ぬことによって、死を超えるのだ。そこにこそいのちをいとなんでゆくのだ。(一三二―一三三ページ)
 平凡な生をたんたんと生きることに「死を超える」ことを見いだした戦後的精神は、今ではやや遠くなった。『アエラ』二〇〇三年八月一八―二五日号は、「一〇代死生観アンケート」の結果を載せている。一〇〇人のうち、三割が「死のうと思ったことがある」と答えたという。この記事は二〇〇三年の前半だけで一一件、三二人が試みたというネット心中の流行に想を得ている。たくさんの高校生が集団自殺をする「自殺サークル」(園子温監督)は二〇〇二年の作品だ。映画作品やマンガ作品に死をむやみに身近に引きつけようとするものが増えている。つねに死を覚悟して生きる剣客を描いた『バガボンド』(井上雄彦)は、二〇〇三年までの四年間に一七巻までが単行本となったが、総売上数三〇〇〇万部を超えたという。
 「死から充分にへだた」るどころではない。死をむやみに引き寄せて、愛撫するかのように生きる流儀が魅力を増しているようだ。「死生観」を話題にした本が増える所以はこんなところにも現れている。この「死生観の復興」は何を意味するのだろうか。また、仏教教団の現状とそれはどう関わり合っているのだろうか。
二、八〇年代、九〇年代の死への関心の高まり(略)
三、現代仏教教団と死生観(抜粋)
 曹洞宗の梅花流御詠歌講は、真言宗系の御詠歌講(密厳流など)に学びながら、一九五二年に発足している。長い伝統をもつ仏教教団の、この新しい試みはその後目覚ましい発展をとげる。最盛期である一九八七年当時、全国に五、六〇〇講、一七三,六四二人の講員数を数えるに至っている(曹洞宗宗務庁の提供資料による)。
 この梅花講の演目の中で、もっとも人気の高いものの一つが「追弔御和讃」である。その調べを文字で伝えることはできないが、歌詞はわかりやすいものだから、その人気の由来はすぐに理解できるだろう。
(一) その名を呼べばこたえてし 笑顔の声はありありと
今なお耳にあるものを おもいは胸にせき上げて とどむるすべをいかにせん 溢るるものは涙のみ
(二) 立ちては昇りのぼりては  哀しく薫ゆる香(こう)の香(か)に  かずかず浮かぶ思い出よ  供えし花はそのままに 霊位(みたま)の座をばつつむなり  清きが上に清かれと
(三) 一世(ひとよ)の命いただきて  会うことかたき勝縁(えにし)をば 夢幻(ゆめまぼろし)となどかいう  うつつの形(かげ)は消ゆるとも  うつろうものか合(か)わす掌(て)に 契りて深き真心は
 死後、御霊はどこに行くのか。その境遇はどのようなものなのか。仏となるのか。六道を輪廻するのか。この和讃はそのような教説めいたことは何も述べていない。だが、「真心」や「清さ」について詠い、無常感が基調をなしている。そして死者と生者との間の情的交流については、実に濃密に詠っている。心の浄化の願いと「みたま」の実在感が心情の基礎となっている。これを仏教の「死生観」とよぶべきかどうかとまどう。だが、ここには近代の多くの日本人にとって懐かしい、死生の境を超える霊魂信仰と心なおしに関わる実践がある。御詠歌講はこのような霊魂信仰やカタルシス体験と、それと結びついた情的交流を喚起することによって、戦後の人々の心を、そして身体や情緒をつかみとったのだ。(中略)
 共同体のきずなの弱まりは近代化の初期から始まっていたことだった。二〇世紀に入って大規模に広がった新宗教の発展は、伝統的な共同体にかわって新たな都市的共同体が形成されていく傾向を反映していた。既成仏教教団は新宗教教団に相当程度、地盤を奪われたといえる。だが、既成仏教教団と新宗教教団とが共有するものは多かった。家の共同体を通していのちの永続性が保証されるという死生観もその一つだった。
一九七〇年代以降、このような共同体のきずなと家族を通したいのちの永続性の感覚が顕著に失われていった。人々が仏教に求めるものも、家族の交わりに力点を置くものから、個人の悟りや霊的向上に力点を置くものにかわってきた。出家が新たに魅力を帯びてくるようになったのもこれと関わりがある。このことを示す例として、オウム真理教とチベット密教の流入をあげることができるだろう(島薗進『現代宗教の可能性――オウム真理教と暴力』岩波書店、一九九七年)。
 先進国に急速に広まりつつあったチベット密教の影響を受けつつ、一九八〇年代の中ごろに独自の信徒宗団を形成するようになったオウム真理教は、現世と切り離された環境で修行をすることを打ち出し、そのことで輝かしい宗教性をもつ教団と受けとめられた。オウムの信徒は家族を初めとするこの世のあらゆる共同性から離脱することをよしとした。そして、「生死を超える」ための瞑想と苦行の実践にはげんだのだった。そこでは現世とは別次元の世界の実在が強く信じられた。死や死後の世界が個々人のすぐそばにあるものと考えられたのである。
それはある意味で戦時中の学徒兵の世界に近かった。世の終わりと理想世界の到来が信じられ、自己が永遠の生命(最終解脱)に近いと考えたのも、戦時中の若者の心情に近かっただろう。ただ、今ではもはや国家に永遠のいのちを託すことはできなくなっている。そこに重要な違いがある。オウム信徒が死を近しく感じることは、また現代の世界各地に見られる原理主義的な宗教勢力の意識とも似通ったところがありそうだ。とりわけ、自らが信仰をともにするのではない人々との断絶の意識において、共通点がありそうだ。だが、オウムの場合、信徒同士の絆も弱いものであり。信徒集団の中にあってさえ、自らの内なる意識に思いをこらし、そこから死の向こうの世界を見ようとしている点が異なっていた。
 オウムのメンバーだった若者の死生観が、現代日本人の死生観を代表するものでないのはいうまでもない。だが、そこから現代日本人の死生観の特徴を読みとる徴候を拾うことは可能だ。オウム真理教は日本において、徹底した思弁や孤独な修行や瞑想の宗教としての現代仏教の新傾向を代表する教団だった。欧米諸国で知識層を魅了するチベット密教と似たような性格を、多少とももっていたのだ。
 梅花講の世界と先進国の仏教徒の孤独な修行の世界とはまことに遠いように見える。だが、現代日本の死生観の中でそれらは隣り合わせにあり、反発し合ったり、混じり合ったりしながら共存している。

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