『中外日報』2007年1月1日号
日本の宗教界では生命倫理に対する関心が高まっています。「いのち」が軽んじられる傾向を感じとっているためでしょう。宗教研究者の間でも、今後、ますますこの領域の研究の重要性が認識されることでしょう。
生命倫理をめぐる話題が新聞紙上でますます目立つようになっている。二〇〇六年に紙面をにぎわせた問題のいくつかをあげれば、尊厳死法案、死が近い患者さんの治療停止の是非、臓器移植法改正案、クローン胚作成の是非、代理母の是非、腎臓移植の妥当性、自国では得られない医療を求めて外国に出掛けていく医療ツアーの問題等々である。どうして医療をめぐる倫理問題があれもこれもと吹き出して来るのだろうか。
病気を癒すことができ、長寿者が増し、ますます医療の世話になることが増えてきた。私たちの生活は医療に取り囲まれていると言ってよいほどだ。医療に助けられているのだが、別の面から言えば医療に依存する度合いが大きくなってもいる。人類生活の中に医療の占める位置がますます大きくなっているのだ。だからこそ、どのような医療が望ましいのかをつねに問わなくてはならなくなる。これが第一の理由だ。
医療の発展によって、かつては可能ではなかったことができるようになった。そうなると今度は、それはしてよいのかどうかが問題になる。医療は人の苦しみを除去することを使命とするので、発展する医療はつねに善を進めるはずだった。だが、今やそうではないのかもしれない。苦しみを癒す医療から欲望を満たす医療へと医療の持ち分が拡大してきている。このように発達した医療が人類社会に予期できなかった不幸や混乱をもたらす可能性がある。このことが第二の理由だ。
個々人が望むことでも、社会としては困った帰結を生む可能性があれば、その望をかなえることはできない。だが、今度は社会が共通の価値観を提示しうるかどうかという問題が生じる。国民社会の構成員もその価値観も多様化している。かんたんに合意が得られないのは当然である。しかもグローバル化が進み、国が異なれば異なる基準でいいと言えることばかりではなくなって来ている。そうなれば国際的な合意を得なくてはならないがこれはひじょうに難しい。そのためにトラブルが拡大する。このように価値観の相違を調整するのが困難だということが第三の理由だ。
体外受精が可能になったとき、代理母が可能になることは予測された。だが、とりあえず不妊の夫婦の悩みを解決し、子どもが産めるようにすることは善ではないか。それはうっすらと兆す懸念を吹き飛ばすほどのものだと思われた。だが、やがて代理母に子どもを産んでほしいと考える女性が出てくることは避けられなかった。代理母を依頼した女性にとって子どもが生まれるのは福音そのものだろう。だが、それは社会の親子関係の混乱を招くかもしれないし、代理母となった女性の心に重いトラウマ(記憶による外傷)をもたらすかもしれない。代理母から生まれた子どもがそのことを知ったとき、その子どもの心に何が起こるのだろうか。こうした問題を予測して考えようとしてもよくわからない。合意が遅れているうちに、進めてしまう人が出てくる。生命倫理の思考と討議は後追いになっていく。結局、よほどの理由がなければ、医療が可能にすることを押しとどめるのは難しい。こんなことでよいのだろうか。
こうした難しい問題には医学者だけでなく法律家や心理学者や社会学者や哲学者や倫理学者も智慧を出し合って合意に近づいていかなくてはならない。だが、宗教者や宗教学者にも大きな責任が課される。なぜなら、いのちとは何か、一人の子が生まれるとはどのような意味をもつことなのか、どのような親子関係が望ましいのか――こうした問題は合理的な思弁で解決できるものを超えており、宗教の持ち分と深く関わってくるからだ。
実際にはカトリック教会をはじめとする西洋のキリスト教会は、比較的早く、明快な答を出すことが多い。だから、西洋諸国の生命倫理の議論はカトリック教会を中心としたキリスト教の立場を考慮しながら組み立てられていくことが多い。だが、キリスト教以外の宗教の影響が強い国ではそうした議論では十分に納得できないと感じられるのは当然のことだろう。仏教や神道や儒教や民俗宗教の思考法を十分にくみ上げた議論が必要なのである。
ヒト胚の研究利用の問題では、西洋諸国はアジア諸国の動向に神経をとがらせている。西洋ではキリスト教勢力による反発があるので、十分に議論を尽くしてからでないと研究が進められない。受精卵から人のいのちは始まっており、それを破壊することは殺人に等しいと論じられる。この議論を反駁して推進論を通すまでには、時間がかかる。ところがキリスト教の影響がさほど強くないアジア諸国はどんどん研究利用を進めてしまうのではないか。事実、ソウル大学の教授は九四年の段階でクローン胚からヒトES細胞を樹立するのに成功したと報じられた。これは研究成果の捏造であり、実際には成功していなかったことがわかった。だが、中国や日本が本気で研究に乗り出せばアメリカやヨーロッパ諸国は研究の遅れにより、多大な損失をこうむることになるだろう。将来の巨大な産業利益を失うようなものだ。
「文明の衝突」ということを思い起こさせる問題である。宗教文化がらみの価値観の争いが科学研究の分野にも広がりつつあるのだ。グローバル化と冷戦状況の崩壊に伴い、宗教文化が異なる者同士が不信感を抱いていがみあう情景が世界に広まっている。それが医療や生命倫理の分野でも無視できないものになりつつある。いつも宗教について考えをめぐらしている人間にとっては頭の痛い事柄である。しかし、これはチャンスでもあるのではなかろうか。生命倫理問題をめぐって宗教文化に根ざした思考を積み上げていくことにより、世界の相互理解と和解に貢献していく可能性が見えて来ているのだ。
このような状況を踏まえて、ぜひとも宗教者、宗教研究者からの活発な応答を期待したい。それは生命倫理のより深い考察に資するだけではなく、宗教伝統や宗教文化の自己省察の深化にも資するものとなろう。市民が自らを支えている宗教文化の重みを自覚するきっかけとなることも期待できる。