スピリチュアル・ブームにひそむ危険――現代人はどこに向かって生きるのか

『キリスト新聞』2007年4月7日号
『スピリチュアリティの興隆』という著書の準備が終わる頃から、テレビでの「スピリチュアル・ブーム」が一段と度を増して来たようです。その危うさをどう見定めればよいのでしょうか。


 一九九五年三月のオウム真理教地下鉄サリン事件のあとは、宗教や霊的なものに対する警戒心がとても高くなった。地下鉄に乗ろうとすると何だか恐い時期があった。名前を変えても麻原の犯罪を心から反省してはいないアーレフ(旧オウム真理教)の人々が近くに住んでいると、落ち着いて暮らせない住民の心情はよく理解できる。
 オウム真理教事件の後も、国内の宗教団体がメディアで話題になるのはスキャンダラスなことばかりだった。奇想天外な主張で内輪を固め外部の人々を驚かせたり、支配欲にとらわれた指導者が信徒がもて遊ぶような例が少なくなかった。「カルト」への警戒感はすっかり定着したかのようだ。
 他方、国際的には「宗教テロ」や「文明の衝突」といった言葉が飛び交う状況が続いている。キリスト教、イスラーム、ユダヤ教の一神教はおたがいを排除しあい、血で血を洗うような争いを続けているというステレオタイプ・イメージが広がっている。仏教は平和主義のはずかもしれないが、日本の既成仏教の沈滞ぶりや、仏教系新宗教の拡張主義を見るととても期待はもてない。既得権益に固執する守旧的な体質もなかなか改まらないと見られている。
 だが、閉鎖的ではなく真摯な態度で宗教活動を行っている宗教団体や宗教者までもっぱら警戒心で遇されるのは考えものである。オウム真理教に入信した人々の中には、自己自身に深く問いかけ他者と社会のために貢献したいという真摯な願いをもつ者もいた。そうした人々の求道心や向上心が新たな宗教的探求の道を見いだすとすれば、それを初めから冷たく遇するべきではない。日本人はそもそも宗教に対する敬意が薄く、宗教アレルギーにとらわれすぎているのではないだろうか。
 おそらくこうした状況を反映していると思われるが、人々の期待が「スピリチュアリティ」へと向かう傾向が強まっているようだ。かつて宗教が培ってきたが、もはや宗教には見いだしえないものとしてスピリチュアリティが求められている。近代合理主義には失望したが、かといって伝統的な宗教に帰ることもできない。そういう人が増えてきた。
 瞑想やセラピーや巡礼を試みる。アニミズムや神秘主義や輪廻転生の思想に引きつけられる。オーラや気功や臨死体験が身近に感じられる。ファンタジー映画やアニメ作品の不思議な異界の存在が好ましい。若者を魅了する小説やコミックにもスピリチュアルなテーマは頻出する。世界の先進国で進行するこうした精神状況については、刊行したばかりの拙著、『スピリチュアリティの興隆』(岩波書店)で論じた。
 危険なカルトや他者を排除する一神教など、宗教集団の怖さとは縁がないように思われるスピリチュアリティだが、それなら暴力や排除や搾取とは関わりがないものだろうか。スピリチュアリティとは宗教のいやな面を取り去った清らかな世界なのだろうか。人々を閉塞や頽廃や自暴自棄に導いていくような可能性、人々のよき交わりをひきさいて孤立化を進めるような悪しき側面はまったくないのだろうか。
 そんな見方は楽観的にすぎる。宗教集団については強すぎるほどの警戒心を保っているが、消費文化についてはいたって寛容というのはバランスを失している。スピリチュアル・ブームと言えるような側面に注意を向けよう。それらは人々を惑わせ、途方に暮れさせるような危険性をはらんでいる。
 テレビ番組でスピリチュアルな癒しを説く人物を見慣れているうちに、霊の世界が身近になる視聴者は少なくないだろう。それは霊的な世界のイメージに頼る姿勢を育てることになる。だが、自ら霊的な世界を身近に感じるようになったとして、それをどのように確かな生き方と結びつけることができるだろうか。霊的世界のイメージをもてあまし、より強いメッセージを求めてさまよう人たちが大量に生み出されても不思議はないだろう。
 だが、新しいスピリチュアリティのもっとも深刻な問題は、堅固な学びの道や自己陶冶の過程を見いだしにくいということだ。消費文化の中のスピリチュアリティに親しむだけでは、長期的に指導を受け修練を積んで身につけたが故に力となるようなものを得にくい。自由に取捨選択でき、束縛されたり強制されたりすることがないのがメリットであるように見える。だが、それでは自己が拡散してしまい、自己を見失って主体性を失う過程の始まりかもしれない。
 スピリチュアリティにのめり込むことで、人々との堅実な共同行動から遠ざかる人もいるだろう。その結果、知らず知らずのうちに軽いシニシズムと自暴自棄を楽しむようになるかもしれない。人気のスピリチュアル・カウンセラーがおもしろおかしい雰囲気にとけこみ、親しみ深くかつ頼りなるヒーローを演じていくテレビ画面はどこか危うい。カリスマ的なリーダーを信じやすいメンタリティを育てつつ、同調しない者への排除が勧められているかのようだ。つまりはいじめを育てている環境と似ているのではないか。
 テレビ視聴者の間に集団的な軽信を育てることは、また偏狭なナショナリズムや自己滅却的な指導者崇拝や排他的な集団主義の魅惑に引き込まれやすいパーソナリティの形成に道を開くだろう。視聴率競争に追われるテレビ局は、オウム真理教のメンバーたちの心に起こったことを、今また多くの人々の心に引き起こそうとしているのではないだろうか。

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