『東京新聞』2006年9月7日(夕刊)
宗教と政治の関係をめぐる混迷
島薗 進
二〇〇六年八月一五日に小泉首相が礼服で社殿に上り参拝したことは、多くの人を途方に暮れさせた。なるようになれといった態度と受け取った人も少なくなかっただろう。「それでも国民の支持は得られる」という考えがあったとすれば、それは一国の政治指導者にふさわしい考えとは言えない。小泉首相は就任当初から、こうした態度をとろうとしてきたわけではなかった。アジア諸国に対して前向きな外交姿勢を取ろうともしていた。だが、次第にアジア諸国との対立にこだわるようになり、戦没者追悼問題への対処とアジア外交の双方の道を袋小路にしてしまった。
二〇〇一年一二月、小泉内閣は福田官房長官の下に「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(追悼懇)を置き、討議を開始した。この懇談会は約一年、集中的に討議を行い、報告書を提出した。そこでは新たに国立の追悼施設を設立するという内容が示されていた。小泉内閣は公的な追悼施設を整える方向を指し示したことになる。その一方で、首相は二〇〇一年八月一三日に、すなわち八月一五日ではない日に靖国神社に参拝した。これはある意味で理解できる選択だった。八月一五日の参拝は公的な意味が強い。しかし、八月一三日となるとその意義はだいぶ異なり、私的な参拝としての性格が強まる。靖国神社という宗教施設に首相が私的に参拝することは許されるという立場をとったことになる。この立場は二〇〇五年まで続けられた。小泉首相は靖国神社に私的に参拝するという方針を貫こうとしたと理解できる。
小泉首相は、(1)特定宗教の宗教施設である靖国神社ではなく別の施設を公的な追悼施設とするべく舵をとり、(2)しかし私人として靖国神社に参拝するとした。少なくとも信教の自由の観点からは納得できる方向性をもっていた。外国からの批判に対しては、靖国への参拝は私的な参拝であり公的な意義をもつものではないことを明確にして理解を求めるべきだった。「いつ参るか」で大いに意義は異なるという考えを説明すべきだった。また、(1)が公的追悼施設の設立という意図をもつこと自ら明確にし続けるべきだった。
中国や韓国からは靖国神社にA級戦犯が祀られていることが問題とされた。もし、靖国神社が公的追悼施設であるとすれば、外交上これに応じなくてはならない。しかし、靖国神社は一宗教施設であり、宗教性は鮮明であり、その信念を守る権利がある。戦前の日本は国家神道体制によって信教の自由をふみにじった。そのために多くの人々が苦しんだ。そして宗教的な全体主義にのめり込んでいった。日本の国民にとって首相の靖国公式参拝が気になるのは、まずは政教分離や信教の自由の問題があるからだ。
中国や韓国は靖国問題は歴史認識の問題だとして、もっぱらその方向から首相の姿勢を批判した。もちろんそれは重要な問題の一つだが、追悼施設問題をもっぱらA級戦犯合祀に関わる外交上の問題に関係づけるのは好ましい選択ではなかった。静かに戦没者の痛みに思いをいたし、頭を垂れる場をもちたい。これは多くの国民の願いだが、首相の初心でもあったはずだ。諸国民が意地を張り合うようではアジアの将来が懸念される。次期政権に外交の修復が大きな宿題として残された。
だが、もう一つの大きな宿題は、政教関係や信教の自由の考え方を再確認することだろう。戦死した兵士を国の守護神とするような国家神道が再興されるなら、国民の心の自由は脅かされる。これは占領軍の強制ではなく、日本国民の歴史的経験に基づく認識だ。就任時の小泉首相はその認識を保持していたが、退任間近になってあやしくなった。アメリカが宗教的使命感を背景に偏狭な対外政策に向かったことが世界の批判を浴びているが、多様な宗教が共存してきた長い伝統をもつ日本が「神の国」を目指すブッシュ流を模倣する必要はもちろんない。