思想史からの死生観研究は死生学教育の礎石の一部である(コメント)

『年報日本思想史』(東北大学)第6号、2007年3月(「死生観と教育と日本思想史研究」をめぐるセミナーでのコメント原稿です。)


[積極的に、だが批判的に]
 私は東京大学の二一世紀COEプログラム「死生学の構築」の拠点リーダーという立場で、二〇〇二年から死生学の教育・研究について積極的に取り組んで来た。東大文学部の哲学・倫理・宗教・思想研究に携わるスタッフは、当初は心ならずもこの取り組みに加わった者が多かったが、なぜこのような動きが生じているかを理解するにつれて、「心ならずも」というより、「積極的に、だが批判的に」関わるようになって来ている。私自身は日本の宗教史や民衆の生活思想の研究に携わって来た立場から、これまで進めて来た研究を死生学の方へ幾分切り替えることにはそれなりの苦痛が伴った。しかし、若い頃、自ら医学を志したこともあり、宗教研究と死生学研究には接点が多いことから、次第に死生学の研究・教育が意義深いものだと感じるようになって来ている。
死生学の研究・教育の共同作業の調整係としての役割を負う立場にいる者としては、日本思想史の研究者の方々にも、この分野にどんどん入って来てほしいと感じている。事実、死生学の研究・教育に携わっていると、日本思想史研究の諸分野の専門家の貢献をぜひとも求めたいと思うことが少なくない。たとえば、なぜThanatologyやDeath Studiesに対応する日本語として、「死生学」という言葉が広まったのか。韓国では「生死学」という言葉があるが、「死生学」という言葉が使われていない。その差はどこから来るのか。鎌倉仏教の祖師においても仏教用語である「生死」と並んで、儒教の古典に由来する「死生」が用いられるのはなぜか。これらの問題については、まだ十分な答を得ていない。
死生学や死生観という言葉が広まることは理解できる。そこに「知りたい」、「ともに考えたい」という広いニーズがあるので、宗教史や思想史がそれに応じようとするのは自然である。宗教史や思想史はたぶん大いに貢献することができ、社会の中で自らの働く場を拡充していくことができるだろう。しかし、大学での死生学においてもそうだが、中等教育やさらには初等教育まで視野に入れると、なおさら「死生学」や「死生観の教育」がもつ危うさにも気づかざるをえない。「死生学」や「死生観の教育」について、批判的な視座が必要とされる所以である。
[死生学・死生観の語の興隆の背景]
 死生学や死生観の語が広まっているのは、現代文化が人々から死を遠ざけてしまい、人々は死に向き合うすべを見失ってしまったからだと言われる。医療現場では末期ガン患者を初めとして、死期が間近に来ている患者に対するケアが必要な機会が増えてきている。しかし、近代医療に携わる専門家は身体の諸機能の分析的理解に習熟し、人々を治療するための知識は存分に学ぶが、死に行く人を看取るすべは学んでいない。死に行く人の苦痛を緩和し、自らにふさわしい死を迎えることができるよう支援するケアを育てなくてはいけない。このような理由から、一九六〇年代にイギリスでホスピス運動が始まり、世界に広まっている。死に直面して急に死を意識するのではなく、若い時から人生には必ず伴う死についてよく学ぶべきだという「死の準備教育」の必要も説かれ、実践されている。
 だが、日本の場合に限定すると、死生観の語が流行ったのは今が初めてではない。最初に死生観の語を用い始めたのは、儒学の素養をもち、仏教の講演や著述で生活を立て、後には「修養」の専門家として知られるようになる加藤咄堂である。若い加藤が著してヒットした『死生観』は一九〇四年に刊行されているが、その前後には武士道に関する著述が多数、刊行された(拙稿「死生学試論(二)」『死生学研究』二〇〇三年秋号)。加藤も江戸期の陽明学や武士道的な死生観にもっとも共鳴している。これがちょうど日露戦争の時であったのは偶然だろうか。
死生観の語が頻繁に用いられた第二の時期は、第二次世界大戦中である。この時期、死生観がよく語られたのは、死に行く若い兵士、とりわけ学知的素養のある兵士に、戦争での死を美化し、納得させるという隠れた動機をもっていたことは明らかだ。「若者に早く死を受容させたい」という国家の意志を知ってか知らずか、哲学者・倫理学者・宗教学者・仏教学者らは雄弁に死生観を論じあった。
 現在の死生観・死生学興隆の背景においては、若者を戦争にかり出すという動機は見当たらないようだ。だが、医療の現場で「患者さんに早く死を受容させたい」という欲求は日増しに強くなっている。個々人が自らの死生観を促す必要を説く際に、死に行く者のために用いる医療費の圧迫が重大問題であることを公然と説く人々も増えてきた。他方、宗教界は「いよいよ宗教者の出番が来た」とこれを好機ととらえ、近代化で失った失地の回復に乗り出す傾向も見られないではない。こうした死生観・死生学興隆の背景については十分に批判的に理解し、そうした批判的思考自身が死生学や死生観の研究・教育の中に組み込まれるようにすべきだろう。
[現代人のニーズと思想史の中の死生観]
 佐々木馨氏がアンケート調査の結果によって示されたように、また、中村一基氏が熟年者向けの講義の経験を振り返って語られたように、現代の老若男女は死生観に強い関心をもっている。『葉っぱのフレディ』(レオ・パスカーリア)や『100万回生きたねこ』(佐野洋子)はとてもシンプルだが深い真実に関わる物語で、そこに現代人が求めるスピリチュアリティが示唆されている。伝統的な宗教や思想から読み取りうる死生観をそのまま現代人に教え込もうとしても成功しないだろう。中村氏は「現代の宗教は説得力あるあの世概念をもっていない」という副田義也氏の言葉を紹介されたが、とりあえずは「そうに違いない」と思いたくなる。
しかし、佐々木氏の死生観教育では、鎌倉の祖師の死生観は重要な位置を占めている。そこでは思想史の知識がまちがいなく重要である。たとえば道元の「生死」で語られていることがかつての仏道修行者にとってどのような意味をもっていたのか、それは仏教思想史においてどのような位置をもつのだろうか。これを深い知識を踏まえてわかりやすく説くことは現代の老若男女にとって大いに参考になる。戦争の時に説かれた「生死一如」は道元本来の意図するところとどこがどう異なるのかという問いは、現代人にとって切実である。受講者はとくに道元の死生観に共鳴が高いとのことだったが、思想史的な学びを踏まえてあらためて問い直したらどうなるのだろうか。
 死生観が求められている時代は、また死生観が安易に語られる時代でもある。映画、コミック、コンピュータゲームの中に、軽やかな死や死を軽んじる生への誘いがふんだんに盛り込まれている。そもそも現代の先端科学技術や競争社会がそれなりの苛酷な死生観をまき散らしているとも言える。中村氏はネット自殺の背後にある「リセット」のイメージに言及されたが、子供に効率追求を求めてやまない親は子供に「リセット」への欲求をたたき込んでいると言えないこともない。輪廻転生の死生観が広まるのは、そのように軽んじられる死生を受け入れるためのギリギリの戦略という理解も可能である。
親子の絆が無条件の恵みと感じられない社会では、死生は互換可能なものと感じられる。死を遠ざける現代文化と言われるが、実は子供の頃から軽い生、軽い死をいやというほど心に焼き付けられて育っていくのではないか。天台本覚論や武士道の伝統がこうした風潮にうまく適合しているところはないか。吉川英治『宮本武蔵』にのっとった井上雄彦のコミック『バガボンド』(数千万部の売れ行きという)はこんな問題を考えるよい練習問題となろう。市民が、また青少年が求めているのは、このような問題に対する批判的反省を織り込みつつ死生観を学ぶ場をもつことだろう。
[東アジア近世・近代の思想と死者とともにあること]
 近世の儒学や国学を尊んできた日本思想史研究は、死生観という観点にどこまで注意を払って来たのだろうか。清水正之氏は西村茂樹の世教/世外教という区分論を検討し、近代日本の思想史が世教である国民道徳論を基軸としたものとなり、世外教的なものを排除していったとする。また、これに対し、村岡典嗣は神道・国学の世外教的な側面にもふれて開放型の日本思想史を構想したという。天台本覚論や武士道の影響という問題を織り込むとこの理解はもっと複雑になる。また、思想と儀礼実践との関わりという問題もからめて考えていく必要がある。
 現代の儒教ルネッサンス思想運動の旗手であるハーヴァード大学燕京研究所所長、杜維明(Tu Weiming)氏は東大の21世紀COE「死生学の構築」のシンポジウム「儒教における生と死」において、これまで十分に取り組んでこなかった課題として「儒教における死へのまなざし」について論じた(『死生学研究』2006年春号)。「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」という『論語』「先進篇」に代表される、死を論ずることへの忌避は、近代東アジアの思想に大きな影響を及ぼして来たと思われる。実際には死生観がひじょうに重要な役割を果たしているにもかかわらず、それが平生の言説にはもたらされにくい。戦時に死生観がもてはやされるが、それと現世主義的(世俗主義的)な倫理思想・政治思想との関係づけが十分になされて来なかったのではないか。
 死生観が儒教の根幹に関わるものであることを明らかにしたのは、加地伸之氏である(『儒教とは何か』中公新書、『沈黙の宗教――儒教』筑摩書房)。加地氏によると儒教は孝を説いて世代の連続性を強調し、死者への尊崇の儀礼実践を説くことによって死を超え生の永続を保証する思想である。柳田国男流の民俗学では先祖崇敬は儒教以前の日本の土着信仰(固有信仰、民族宗教)ということになるが、東アジアで共有された文化であり、儒教がそれを支える思想基盤であったことは疑いようがない。だが、そもそも儒教はそのことについて表だって語らない。あるべき生について、また日常倫理実践について多くを語るが、その背後の死生観的前提については黙しているかのようだ。加地氏が「沈黙の宗教」とよぶ所以だが、もし思想史研究がこのような観点を見過ごしているとしたら、そこに方法論的問題が潜んでいないだろうか。
 同じことは仏教についても言える。近年、末木文美士氏が主張しているように、日本仏教は死者供養の実践によってこそ、人々の生活に浸透していったのだが、仏教学・仏教思想史研究はそのことについて語らない(『現代宗教2006 特集:慰霊と追悼』東京堂出版)。これはさかんに輸入された西洋近代思想が「死者とともにある」ことの意味について十分な言葉をもっていないこととも関わりがあるだろう。死生観をすぐに「個が死に向き合うこと」へと結びつけるのが、西洋発の死生学の傾向だ。だが、日本の死生学では「他者とともにあること」の意識を死生学の礎石とする視点が浮上してきている(『死生学研究』2004年秋号)。死生観を教え学ぶ場においても、この観点を欠かすわけにはいかないだろう。
[近代人文学=教養教育の現代的展開の中で]
 現代の人文学における思想研究は、近代教養主義文化と深い関わりをもつ。哲学・思想・宗教・芸術を文字的教養(石田梅岩が批判をこめて「文学」とよんだもの)を通して学ぶことが、エリートとしての人間形成の基礎として尊ばれた時代があった。現代の人文学や思想研究はその伝統の中で形成されたスタイルを新たな時代環境に即したものへと発展させていく課題を今なお負っているのではなかろうか。身体を通して身につくもの、交わりを通して相互に養いあうものの自覚化がますます重要になって来ている。「教育」という観点から思想研究をとらえ返すことは、このような課題を自覚させてくれるよい機会になると思われる。
 現代における死生学研究や死生観教育へのニーズはさまざまな方面から生じてきている。死をもてあましている医療現場に身を置く者、自らの死に備えたいと思う者、近しい者の死に打ちひしがれた思いをもつ者、自殺の誘惑にかられたことがある者、脳死臓器移植への態度を決めかねている者、クローン技術や遺伝子知識による生命操作への判断を迫られる者等々。そこから学知や学問的学びに対しても、さまざまな期待が生まれる。伝統的な、あるいは教団的な宗教の側は、今こそ自分たちの出番だと身を乗り出してくる。ジャーナリズム、大衆文化、娯楽文化はそこに多大な経済的利益が生じることを見越して、売れ行きよい商品の生産に余念がない。
 死生学研究や死生観教育へと誘われる者は、好むと好まざるとにかかわらず、すでにそのような場に引き込まれている。ここではかつての教養教育に携わる者がもっていた、安定した「研究する立場」「教える立場」はもはや維持できない。だからといって、もっぱら社会的受容の方へと身を寄せていくことがよき発展をもたらすとは限らない。長い時間をかけて培われてきた学問的伝統には他のものに置き換えがたい力がある。「死生学」はそのような伝統ではないし、近い将来にそのような伝統を築きうるはずのものでもない。同じように、人文学的教養教育についてもその伝統をたやすく他のものに置き換えてしまうとすれば、多くを失うことになるだろう。
 現代的なニーズを自覚しそれに適切に応じることと、これまでの学問的伝統を尊びその熟成を図ることとは矛盾するわけではなく、実は相互に連関しつつ進めうるし、そうすべきことなのだろう。死生学研究や死生観教育は一つの例にすぎないが、大きく言えば学問的伝統に根を降ろしつつ、近代人文学=教養教育の現代的更新、発展を目指していきたい。近代人文学=教養教育が医療やケアや教育の現場のニーズにどう対応していくのか、批判的視座を失わず、注意深く見守りたい。日本思想史研究はそうした大きなプロジェクトの中で重い役割を担うはずである。

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