『朱』(伏見稲荷大社)第47号、2004年3月、2−13ページ
一、民俗宗教の近代的変容
江戸時代には「三教」といえば神道、儒教、仏教で、この三者で主要な思想体系はカバーできるという建前だった。また、明治以降は神道、仏教、キリスト教が三つの主要な宗教で、制度上、このどれかに入らない信仰行為は淫祠邪教とか、類似宗教とかよばれることになった。しかし、日本人の信仰生活の実態は、これら「教」や「宗教」によってつくされるものではない。いや、そのようなメジャーな伝統に収まりきらないところにこそ、日本人の信仰生活の大部分は属している。柳田国男以来の日本民俗学は、そのような領域に注目してきた。民俗学が研究しようとする対象は、口頭伝承や「心意伝承」(折口信夫)が重要な位置を占めるが、宗教に限っていうと、それは「教」によって体系化される「前の」「民俗宗教」の領域ということになる。
民俗学に顕著に見られる思考法は、外部から入ってきて上から複雑な文字知識や組織形態を課すようになる「前の」、「より古い」文化の形態、あるいは原型にあたるものを探り出そうとする発想である。柳田国男は仏教や儒教の影響を受ける以前の「固有信仰」の探究を、民俗学の主要目標と考えた。純日本的なものを求める国学以来の発想であり、それはそれなりに意義ある試みであろうが、真なるものは古いものであるということになり、古いものへ古いものへと問いが向くのは、やや狭苦しい。変化してきた様態そのものに注意を向け、今生きているものの、生きている姿をより深く理解しようとするのも、学問の重要な課題である。
筆者は近代への転換期以降、日本の宗教がどのように変化してきたかに関心をもち、研究を続けてきた。幕末維新期に急速に発展し、やがて教派神道や新宗教へと形づくられていく運動は近代日本の宗教の理解にとって、決定的に重要な意義をもつ。だが、「新宗教」とよばれるとしても、それらはまるっきり新しいものではない。仏教や神道や儒教の影響と見えるものも多々ある。だが、もっと深くつながっているのは民俗宗教の伝統である。中でも神仏習合の世界で、霊威ある神や霊、あるいは身近に働く神仏を尊び、地域を超えてつながりあう民間宗教家が活躍する世界である。筆者はそれを「習合宗教」の世界とよんでいる(拙稿「習合宗教」圭室文雄他編『民間信仰調査整理ハンドブック上 理論編』雄山閣出版、一九八七年)。それはまた日本の神々のうち、「霊威神」とよぶべき存在がもっとも生き生きと躍動した信仰世界でもあった(拙稿「初期新宗教における普遍主義」南山宗教文化研究所編『神道とキリスト教――宗教における普遍と特殊』春秋社、一九八四年)。
稲荷信仰は修験道と並び、日本の習合宗教のもっとも強力な貯蔵庫の一つであった。そして修験道と同様、神仏分離以降の近代化の過程でもっとも激しい変容をたどった信仰世界の一つでもあった。では、明治、大正、昭和を経て、あるいは一九世紀から二〇世紀にかけて、稲荷信仰はどのようにその内実を変えてきたのだろうか。現代日本人の信仰構造を考える上で、これはたいへん興味深い論題だ。他を圧倒して多数ある稲荷神社の普及度を思い出すだけでも、「稲荷信仰はどのように変化してきて、これからどうなるのか」という問の重要性は理解できよう。
これまでこのような問いかけは正面からなされてこなかったのは確かである。歴史学者や民俗学者は真正な稲荷信仰の究明や稲荷信仰の本質の探究に真剣なあまり、稲荷信仰の今に生きる姿の解明が軽くなったきらいは否定できない。宗教社会学者や宗教人類学者はこの長い歴史をもつ信仰世界を敬遠してきたようだ。とはいえ、五来重『稲荷信仰の研究』(山陽新聞社、昭和六〇年)のようなすぐれた研究書や、『稲荷講志』(二冊、伏見稲荷大社講務本庁、昭和五二、五三年)のような信頼できる資料集が刊行されて状況はかわってきている。近代研究史研究・現代宗教研究を専門とする筆者のような浅学の者にも、「稲荷信仰の近代」についてなにがしかのことを述べることが可能となるような蓄積は、先学によってすでにある程度なされてきていると思われるのだ。
二、稲荷講社と稲荷信仰組織の再編成
現代の多数の「稲荷巫覡」(稲荷行者)について調査した、アンヌ・ブッシイの記述と分析は貴重である(「稲荷信仰と巫覡」『稲荷信仰の研究』所収)。このフランス人の宗教人類学者は、日本の宗教史の大きな一角を担ってきた習合宗教的な民間宗教家のある系譜が、二〇世紀の後半にどのような信仰世界を形づくっているかを見事に描き出している。
稲荷行者の信仰活動や集団形成のあり方はさまざまである。祭壇のあり方、唱え言葉や経典、入巫の過程、等々、個々の行者の工夫や置かれた状況による部分が多い。「師」や「教会」がある場合もあるが、「師」自身がそれぞれ独立しているので、孤立した師弟関係を超えた共通世界は少ない。「教会」といってもそれらを束ねる組織ががっちりとあり、信仰生活を細かく規制しているわけではない。いわば庇を借りているにすぎない場合が多い。ここではブッシイの調査成果をそのまま借りるのではなく、『稲荷講志』所載の資料をもって示してみよう。
『稲荷講志』には、昭和二年に結成された伏見稲荷の稲荷講社に加盟する集団が一定の条件を満たして「支部」に昇格する際の「設置承認」資料が多数、掲載されている。たとえば、昭和三〇年に設置された福岡支部は光中ナカ、ミヨの母子によって営まれてきた信仰活動を踏まえたもので、光中ミヨが支部長となるものである。「調書」には次のように書かれている。
本扱は先代光中ナカ以来四十年間に亘って本社神符を取次ぎ当代になって十三年であり三代目継承者も決定されてゐる。一時神理教に現在は扶桑教に所属するが信仰の実質は全く稲荷信仰であり信徒二千人と称しその殆んどが神符を奉祀する。当代ミツ女史は母堂の死後水行により霊感の人となり朝夕二度神前に向ひ信徒の伺ひに応じてをり例月十七日に月次祭を執行してゐる。信徒中副長候補の木村賢三氏は早くより入講してゐたが十全の役員中の一部に異論があつて全員の入講は実現に至らなかつたところ本年三月団体参拝を契機に一決入講したもので本社との関聯をもつことの遅かりしを一同後悔してゐる実情である。教会は昨年の新築により十分の広さ間取り其他の設備よく整ってをり神道教会としては市内随一と称されてゐる。当分は扶桑教と現状を維持しつゝ講社本部の方針に従つて活動することを決定した。既に九州各地に概ね支部の設置を見たのであるが代表的都市では本支部が唯一のものである(昭和三十年四月八日視察/真屋幹事・鷹森書記)。(『稲荷講志』第二、六四八ー九ページ)
伏見稲荷の稲荷講社は昭和二年に「附属稲荷講社」として結成されてから、支部(及びより規模の小さい「扱所」)の結集が急速に行われ、早くも昭和五年には総講員数、一六、一三九人を数えている(同前、一〇七ページ)。その後敗戦に至るまでの時期は、「お塚」などの「お山」の行場的な信仰形態について規制が厳しかった(「朱」編集部「稲荷山のお塚について」『朱』三六号、一九九三年、一六八ー九ページ)にもかかわらず増加は続き、昭和二〇年度の講員数は三五、六二二人に達している。敗戦後、一時講員は減少したようで、昭和二二年度の講員数は、二七、一九八人となる(『稲荷講志』第二、三八九ページ)が、その後は再び増加が続いたと思われ、昭和三五年度の「事業報告」では、講員総数、四六、八二二名と記されている(同前、八九五ページ)。この時期がこの組織のピークであったようで、昭和三八年度の「事業報告」には「最近では聊か衰微の傾向さえ現れた」と記されている。そして、『稲荷講志』にはこれ以後、講員総数は記載した資料が掲載されていない。また、昭和四四年度の「事業報告」には、「本年度に於ては、講員初穂料の怠納者を大幅に整理し、確実な講員数の整備を行った」とある(同前、一〇四六ページ)。
では、この昭和二年から三〇年余りにわたる稲荷講社の拡大とは何を意味しているかというと、全国の地域社会にすでに存在していた稲荷信仰の諸組織が、伏見稲荷講社と新たな関係を取り結んだという側面が強いと思われる。伏見稲荷の講組織としては、すでに明治七年に遡る瑞穂講社があった(「稲荷搆史平説」『稲荷講志』第一、所収)。昭和一六年に「稲荷講社に就いて」(『神道研究』第二巻第一号、『稲荷講志』第二、に再録)という論文を書いた児玉権之助によると、この当時の「誓約書」から明治一〇年頃の講社数は一一〇、講員数は三六、八一六人に及んでいるという。かなりの数の講員がいるようであるが、これは地域の崇敬者をまとめて数えたようなものが多く、実質的に伏見稲荷神社と信仰的関係を保っていた人の数ではない。京都府内の講社数が八五、講員数が二六、六八一と大半を占めているのはそのためである。
昭和二年に新たに結成された「附属稲荷講社」はそのような地域的な氏子住民としての講所属者の結集を目指したものではなく、日ごろから熱心な信仰心をもち、会費を払うような動機をもった講員の結集を目指したものである。児玉は「附属稲荷講社は先ず崇信者個人として入講せしめることに主眼がある」(『稲荷講志』第二、二八七ページ)と述べている。そして講員は六大都市を始め都会に多く、植民地にも多いという(同、二九三ページ)。これらは新しい稲荷講社は、都会で活躍する稲荷行者が引き寄せた信徒の集団を主体とするものであることを物語っている。だからこそ非宗教性を旨とする神社神道であるにもかかわらず、宗教的活動を行っているとの非難を受けやすかった(「稲荷山のお塚についての覚え」一六四ページ)。神社の正統的な崇敬に忠実であろうとする立場の児玉は、この点について次のように論じている。
稲荷講社の支部と言へば、世人は兎角稲荷講社の分社又は出張所の如く予想し、又教会類似の施設を為すかの如く考へるやうであるが、元より法規の許容する所では無く、本講社細則には之を予防して、講社支部を宗教の教会・講社と同一家屋内に設置すること及び支部に於て加持祈祷等を為すことを厳禁してゐる。(『稲荷講志』第二、二九五ページ)
この立場に従えば、稲荷行者らを中核として巫儀を行ったり、「玉姫大明神」などの神名を掲げてお塚を築いたりすることは許されないことになる。児玉はそうした類の信仰集団を「私設稲荷講社」と名づけ、伏見稲荷神社が管轄する「附属稲荷講社」と区別しようとしている。
このような状況の下で、各地の稲荷信仰集団にとって、稲荷講社に所属するかどうかが難問であったことは容易に推測できる。前記の福岡支部の例で言えば、光中ミヨを中心とする稲荷信仰集団が教派神道の神理教、次いで扶桑教の傘下の「教会」として長らく社会的な認知を得ていた。児玉の類別でいう「私設稲荷講社」の地位に甘んじていたのだった。ところが戦後になり、次第に神社=非宗教という建前が弱まるに従って、伏見稲荷大社の講社本部がこの信仰集団とコンタクトをとり、協同関係を拡充しようとする気運が育っていったと思われる。昭和三五年にこの集団が伏見稲荷大社を団体参拝した折に、話が急速に進展し、そのすぐ後に真屋幹事、鷹森書記が現地に赴いて「視察」を行い、交渉の末に「調書」を作成し、「支部」としての登録が行われたという経過があった。
この例では、伏見稲荷大社にこの稲荷信仰集団のお塚や行場があったのかどうか、そのような参拝行動の焦点となる場が定まってきたのはいつ頃からなのか、不明である。団体参拝が行われているということから、光中グループの守護神を祀るお塚や滝行の場があったと考えて不自然でないと思うが、筆者の手元に確証はない。だが、次のような例は、稲荷山のお塚や行場をめぐる信仰との関わりがもっと明瞭に想定できるものである。昭和一一年に設置が承認された奈良支部の場合で、その調書は次のようなものである。
奈良市中院町在住稲原音吉氏は奈良ホテルに生魚を納入することを生業とする商人であるが一七年許り前にその妻女が大患に罹った時稲荷大神の特別の霊感を戴いて全治したことがありそれを機として稲荷信仰に入り爾来毎月二回の参拝を欠かしたることなく今も継続してゐる。その参拝も常と異なり一日の業務を終つた後夕刻から夜にかけて御山の登拝を行ふといふ熱烈なる信仰者でその都度一ノ峯の茶店西村秀孝氏方に休憩するを例としてゐたが今回西村氏より斡旋を受けて講社に加盟したものである。
更に稲原氏は同信の知友にも広く稲荷大神の神徳を鼓吹して「神立会」なる稲荷神社参拝団を組織し月々の掛金(二五銭)を積み立てゝ毎年二回必ず当社への参拝を継続してゐたがそれらの会員大部分が今回講社の講員に入講しその数百名を超えるに至ったので前記西村氏を介して支部設置を申請いたものである。右の神立会は一時は会員二百数十名にも達したことがあり、何れも熱心なる信仰家の集まりであり會て会員中から同会をして何れかの神道教派に属する教会として経営しては如何かとの議も出た程であつたが稲原氏は篤実真面目な人柄であり元来教会なるものを好まずとてふつうの参拝団として今日に至つたものであるといふ。(以下略)(同前、一九八ー九ページ)
これは児玉の論文が書かれたのと同時期に書かれた文書であり、神社側の規制が強かった時期のものである。この時期には、教派神道の教会に所属するか、稲荷神社の講社に所属するかは稲荷信仰集団にとって重要な選択の問題であり、稲荷講社に所属することは信仰生活の規制にいくらかなりと服することを前提としなければならなかった。だが、にもかかわらず、稲荷講社側からの働きかけに従う判断をしたのだが、その際、大きな働きをしたと思われるのが茶店である。
明治以降、稲荷山の茶店は山岳信仰における宿坊やかつての伊勢信仰における御師に似て、稲荷山で信仰集団を迎えるエージェントとしての役割を果たしてきた。管長や寺社の管理の目をくぐり抜けるようにして生まれてきた茶店だったが、やがて神社側も二〇軒余りの茶店を管理するようになり(明治三五年)、神社と茶店が連携して「宗教ではない」とされた神社崇敬の一定の枠組みの範囲内で、信仰集団のお山参拝を促進するような体制が整えられていった(「稲荷山のお塚についての覚え」、一六一ー二ページ)。昭和二年に結成された稲荷講社は勢いのある巷の稲荷信仰組織を結集するとともに、それらを神社の意向に従うものに方向づけて、大正後期以来の神社非宗教論による批判に対処しようとしたものであろう。ここに引いた奈良支部の場合は、稲荷行者の稲原氏と彼をめぐる信仰集団に対し、茶店を通して神社が働きかけ、神社の意向に従うがどうかの吟味の末に講社への加入が実現したわけである。
稲荷講社の結集に際して、茶店がどれほどの役割を果たしたか、筆者にはそれを数量的に示す手だてがない。しかし、昭和二年以降に結集された稲荷講社の信仰活動の中で、お塚や滝などの稲荷山の施設をめぐるものが大きな位置を占めたこと、また、お塚参拝や滝行を行う人々が茶店に滞在するのを常としたことは確かである。稲荷山の茶店と行者を核とする稲荷信仰集団は緊密な情報交換を行って連携し、近代の伏見稲荷信仰のきわめて重要な構成要素となったのである。
三、稲荷信仰の近代的変容
では、そもそも伏見稲荷における稲荷山の茶店と信仰集団の連携関係は、いつ頃、どのようにして形成されたものなのだろうか。稲荷山の狐神(命婦、だ枳尼天)や洞の信仰、滝行、またおこもりを含めた稲荷山とその周辺の参拝行動は長い歴史をもつものであろう。しかし、明治維新以後、新たに新拝所(お塚)とよばれるものが現れるようになり、稲荷山の風景は一変した。新拝所についての記述は、明治二年の『月番雑記』が初出であるという(同前、一四五ページ)。これは神仏分離によって、従来、伏見稲荷にあった信仰施設が除去されたことに対する信徒の反応として理解でできる面が大きい。伏見稲荷では、明治元年、神仏分離令の直後に愛染寺と仏教関連の施設が徹底的に排除されることとなった。
が、このときの受難はひとり寺院だけに限ったものではなかった。日ごろ参詣の人の中には、そのあまりにもの変わりようにとまどったもの、また永年もち来った自己の信仰をつづける場を失ったもの、その中には、いわゆる先達・御代(オダイ)もいたはずである。それらの人々がそれぞれの信仰的な不満を充すために、その地を山上の神蹟の辺りに求めたのが新拝所出現のいきさつ・発端ではなったろうか。同じ稲荷社境内における、山下とは全く趣を変えた山上での信仰のめばえであった。(同前、一四八ページ)
このような新たな山上の信仰形態の発展にどう対処するかは、稲荷神社側の問題だったが、上地令により稲荷山の多くが神社側の管轄外となったことも手伝って放任せざるをえなくなり、新拝所を訪れる人々を迎える茶店も次々に建てられ、早くも明治四年にはその存在も容認されるに至った。
明治四年に国家に上地された山林のうち約九万六千坪は明治三五年に境内地に編入されるが、その範囲内ですでに六三三基のお塚(「標石」)が存在した。この時、神社は山内の茶店二一軒に番号を付して管理し、各茶店に神蹟周辺の清掃を義務づけている(同前、一六一ページ)。これから大正一二年までの時期がお塚の建立・修復の全盛期だったようである。昭和七年には『御塚台帳』が完成しているが、そこでは二、二五四基が数え上げられている(同前、一六八ページ)。大正一二年に高山昇宮司が就任して以後、神社の非宗教性という建前への配慮からお塚の新設が禁止されるから、この数は大正一二年のものと大差ないという。戦後もお塚の新設禁止の方針は維持されたが、昭和三七年、明治三五年に続いて明治初期に上地された山林の返却があり、それを機にお塚の建立が許可されることになった。昭和四一ー四二年の神社側の調査では三、三二二基(南谷、北谷等を含む全域では、七、七六二基、同、一六七ページ)となっているが、これには再編入された境内地のお塚や昭和三七年以後に新設されたものの他に、昭和七年から三七年の間にひそかに新設されたものも含まれているかもしれない。
茶店と密接な関係をもったお塚の建設は、近代における伏見稲荷神社境内地、および稲荷山と周辺地の風景を一変させた。だが、それは単に外形的な変化ではない。信仰内容の変化とも関わるものだったと思われる。
上田正昭はお塚の信仰は中世に遡るという(上田正昭「お塚の信仰」直江廣治編『民衆宗教史叢書 第三巻 稲荷信仰』雄山閣出版、一九八三年)。天正一〇年に没した秦長種の筆になる稲荷山山頂図に、上ノ塚・中ノ塚・下ノ塚・荒神塚・人呼塚(また命婦塚)などの塚名が見えるという。稲荷信仰は古墳(=塚)に関係が深いことや、狐霊の出入りする場所と信じられた山中の「洞」(狐穴)に対する信仰が明治以降の塚の信仰に連なっていることも指摘されている(五来重「総論――稲荷の現象学と分類学」『稲荷信仰の研究』所収)。だが、現在の稲荷大社周辺の「お塚」の信仰の特徴を考えるには、そこに祀られている祭神の性格について考察するのが重要であろう。そして、これらの神名は稲荷行者(稲荷巫覡)が尊ぶ神霊の名と深い関わりがある。
アンヌ・ブッシイは、昭和二三年に大阪で伏見稲荷支部玉姫教会を設立した中井シゲノについて、次のように記述している。
出現する神と霊は様々である。多くは地主神や狐、狸の霊、守護神の従属神と考えられている。中井シゲノさんは守護神白高大神と玉姫大神の外、教会境内の地主神で白蛇として現れた白竜大神、中井家の守り神であった白鬚大明神、そして白藤大明神とクス姫大明神という木の神霊、また古女郎(天狗)、眷属の白滝大神、大岩明神、小岩明神、また狸の姿で現れた死霊の源八大明神や、お初大明神とお福大明神という天神山を荒さっていた霊狐と狸などを祀る。しかし滝寺でのこの巫女の行場では弁天竜王大神は主神で、その他多数の神霊が信仰対象となっている。稲荷巫覡の中でこの巫はもっとも多くの神霊を感得し、祀っている代表である。(『稲荷信仰の研究』二三五ー二三六ページ)
滝寺というのは郡山の大和田滝寺のことで、昭和初年に白高講を結成した中井シゲノはここを独自の行場として整え、、後に小屋や道場を建てていった(同前、二四七ページ)。毎月二三日の白竜大神の月次祭には、大阪の玉姫教会のお塚様で前で、天御中主大神をはじめとして八百万神を下ろし、最後に自分の守護神を下ろすという(同前、二五四ページ)。新しい信者の家ではその家の守り神が降りて来るように祈願し、家の主人は彼女が語った何々大神という神名を神棚の「お社」に納め、「御霊シズメ」を行う(同前、二五六ページ)。また、狸や狐がついた人に対しては、アゲやテンプラの皿を用意して般若心経をあげ、病人の口から霊の名前を語らせ、これを何々大神とし守護神として祀らせるという(二六六ー二六七ページ)。
これは一例にすぎないが、ここに見られる信仰世界の特徴は近代の稲荷信仰の特徴をよく示している。ここに登場する神々は由緒のある大文字の神々であるよりも、ご利益をもたらす弁天、竜神などと、身近にイメージされる人間や動物に近い小文字の存在である。「神」というよりは「霊」というのがふさわしい場合が多い。その中でひときわ高い地位を与えられているのが「守護神」である。この守護神は稲荷神の化身とも見られるが、個々の行者に関わりが深い個別化された神である。家の守り神ということから言えば、祖霊とも見なすことができる。事実、現代の稲荷行者の中には、祖霊を祀る者もいる(同前、二二一ー二三〇ページ)。ブッシイが明らかにしているように、現代の稲荷行者(稲荷巫覡)にとっては、このような守護神信仰がきわめて重要な意義をもつ。
このように身近な神霊が神として神名を与えられ、社殿を与えられて奉祀されるという現象は、近代において顕著に見られるようになった信仰形態である。よく似た例として御嶽信仰の霊神碑があげられよう。ブッシイは次のように述べている。
また伏見の稲荷山には、北谷の茨谷と明心というお塚の霊場で、「何々家合祖神霊」、「何々家先祖霊神」が、十七も(昭和四十年現在)祀られている。これはまた、木曽御嶽の麓や山中に立ち並ぶ十万余の霊神碑に似た面をもっている。この霊神は木曽御嶽の先達をはじめとして、行者たちの霊を祀るマイリ墓である(同前、二二四ページ)。
だが、御嶽信仰との類似は、霊神碑と守護神信仰やお塚信仰との類似に限られない。在家の行者が自ら神がかり、霊威あるな神と一体化して状況を打開するための託宣を下すという形態も似ている。中には御嶽講のオザ立てと同様に、二人の巫がコンビを組んで巫儀を行う例もある(同前、二五八ー二六〇ページ)。これは修験道や密教系・日蓮系の仏教に見られる憑祈祷と似ている。だが、御嶽の場合は、神がかる巫が権威ある僧侶(山伏)に従う「ダイ(台)」であるにとどまらず、自ら神意を伝える権威ある存在として現れることが多い。
ブッシイは触れていないが、これは初期の大本教の「鎮魂帰神」ともたいへんよく似ている。初期の大本では新しい信徒を「神主」とよび、「審神者」が指導して、神霊を憑依させる鎮魂帰神の儀礼が尊ばれた(大本七十年史編纂会編『大本七十年史』上、宗教法人大本、一九六四年)。一対一に限らず、一対多の場合もあったが、新信徒はこの儀礼を通して守護神の名を得るのが常だった。これは明治二八年に出口王仁三郎が静岡にあった稲荷講社において修得し、出口なおを中心とする丹波の大本教信徒集団に持ち込んだ行法だった。王仁三郎が学んだ稲荷講社は、国学者の本田親徳の系譜を引く長沢雄循が指導する集団だった。この集団はその名称のとおり、近代における稲荷信仰の展開形態の一つであった。新宗教史に巨大な足跡を残した大本教は、近代における稲荷信仰の継承者の一翼を担うものとも言えるのである。
四、近代宗教史の中の稲荷信仰
これまでの話は「伏見稲荷の近代」に焦点を合わせたもので、「稲荷信仰の近代」という話題の中では、神道の系譜に偏った話になっている。神仏分離以後、一部の行者を中心とする習合宗教的な稲荷信仰は確かに神道化の傾向を深めていったと思われる。僧侶や山伏の関与が薄れ、したがって仏教経典や仏教用語の影響が薄れ、かわって身近な神や霊を祭壇に祀り、崇敬するという傾向である。
これはすでに江戸時代から起こっていた変化で、山岳信仰の中で修験道の影響を脱して、在家の信徒が自ら講集団のリーダーとなり、積極的に宗教活動を展開していくという形をとった。富士講、御嶽講、石鎚講などはその代表例だ。このような大規模な習合宗教の変容を土台として、教派神道の台頭は起こってくる(拙稿「教派神道」『悠久』五八号、一九九四年)。天理教や金光教のように教祖によっ打ち立てられた教派神道のある種の潮流も、こうした習合宗教の神道化の傾向に棹さすものである(拙稿「民俗宗教の構造的変動と新宗教」『筑波大学哲学・思想学系論集』第六号。一九八一年)。
教派神道の諸派のうち、黒住教、天理教、金光教、禊教のような教祖をいただく創唱宗教の諸派を除く多くの派は、多様な信仰集団の寄せ集めであった。神理教、神道修成派、神習教、大成教、出雲大社教などは言うまでもないが、扶桑教、実行教、御嶽教などのような山岳宗教の諸派でも富士信仰や御嶽信仰の集団に限定されていたわけではない。実は稲荷信仰の諸集団が、これら教派神道の教会のかなりの部分を占めていた。かつては仏教各宗派の寺院の統御化にあった稲荷行者が、僧侶や山伏の配下から脱し、神道的な性格を強めていった。そのようにして組織的にもかなりの独立性をもつようになったが、制度上の存続保証を得るために、教派神道諸派に所属せざるをえなかったのである。
だが、稲荷信仰の近代的な変容形態は、このような神道化の流れをたどったものだけではなかった。他方にむしろ仏教的な色彩を強めるものもあったからである。神仏分離による危機を脱するために、「正一位稲荷大明神」にかえて「最上位経王大菩薩」として崇敬対象の仏教化を図った日蓮宗系の高松稲荷妙教寺の場合、江戸時代中期に発展の基礎が築かれたようだ。明治初期にはすでにかなりの崇敬者を集め、門前町が形成されていた。だが、神仏分離後は仏教の枠組みの中で大衆化を図ることにより、近代稲荷信仰への更新が行われていった。明治前半期に早くも一二人一組の「最上講」が組織されたこと、「一日まいり」が強調されて「一日会」が組織されたこと、明治三七年に中国鉄道吉備線が開通したこと、昭和二七年に「洗心閣」という荒行堂を開設し、僧侶だけが行っていた修法を在家の先達にも伝授しようとしたことなどが、仏教的な稲荷信仰の大衆化のメルクマールとなった出来事とされている(中尾堯「最上稲荷と妙教寺」、最上稲荷総本山教務部「最上稲荷の諸堂祠と御本尊」、ともに『稲荷信仰の研究』所収)。
曹洞宗の豊川稲荷の場合は、最上稲荷よりももっと新しい。豊川の門前町の形成はようやく幕末維新期のことであるという。成長期の豊川稲荷にとって神仏分離は厳しい危機だった。門前、境内の鳥居をすべて撤去し、「妙厳寺豊川閣だ枳尼真天」と名を改めた。その本格的な発展は、東海道本線の開通につづいて豊橋から私鉄豊川鉄道(現JR飯田線)が開通した明治中期のことであるという( 川隆道「禅宗寺院と稲荷信仰」『稲荷信仰の研究』)。同時期、曹洞宗内部の密教的な大衆信仰の発展は、山形県鶴岡の龍澤山善法寺や神奈川県足柄の大雄山最乗寺や静岡県袋井市の秋葉総本殿可睡斎などにも見られる。
こうした近代の仏教系の稲荷信仰(あるいは稲荷信仰の系譜を引く龍神信仰、天狗信仰)の発展を支えていた稲荷行者は、初期の霊友会のような仏教系新宗教教団の支部組織の指導者と類比しうると思われる。先に神道系の近代稲荷信仰と習合神道系の新宗教、大本教に関連が深いことを述べたが、仏教系の稲荷信仰についても新宗教との比較は有益であろう。だが、こうした考察はまだ十分な資料的裏付けをもったものではない。仏教的な稲荷信仰の近代的な展開については、なお調査研究すべきことが多い。
この稿では「稲荷信仰の近代」という課題を設定し、民間の行者のリーダーシップが大きな位置を占める習合宗教的な稲荷信仰の展開にしぼって考察を進めてきた。考察の対象を狭く限定し、いくつかの限られた業績や資料集に依拠した試論に過ぎない。しかし、初めに記したように、日本宗教史を大きくつかみとろうとする展望のもとで近代稲荷信仰について考えるという姿勢は一貫しているはずである。機会があれば、なおこうした考察を続けていきたい。