『思想』899号、1999年5月、1−3ページ
宗教は善と悪を振り分ける。宗教に身を寄せる人はわが身を善の側に置き、他者に悪を投影し、担わせる。内外の悪の勢力を退治し、自己が属する善の力を維持、拡大せんがために他者を引き込み、同化し、抑圧し、追放し、排除し、血祭りに上げようとする。自己自身に向き合うときも、宗教は自らが掲げる救いの道に従うことで、因果応報――善の勝利と悪の克服が実現できると教える。善行は幸福を、悪行は不幸をもたらす。たとえ、今のこの世の生活で帳尻があわないとしても、生まれ変わりや死後の審判で正当な報いが実現する。このように善悪の複雑なからまりあいを解除整理した上で、悪の克服への素朴な信頼を鼓吹するのが宗教だ、と受け止められている。
だがそうなのだろうか。宗教が安定した社会秩序を維持する働きをするという議論に、ある程度の妥当性があるとしよう。また、苦難という「こうむる悪」の経験の圧倒的な力にいくらかなりとも想像力をめぐらせよう。どれほどのうめき声の中に地球は漂っていることか。そして苦難=悪を引き起こした責任が誰か(個人・集団)にあるという思いは避けがたいし、しばしば正当である。しかし正当なことが実現されないことはむしろ多い。正義と力の配分は合致しない。他者が「犯す悪」を告発し続けても、どれほどの効果があろうか。多量の善でおおわれる社会が、人知人力で近づいてくるとはとても思えない。とすれば、いちおう無力な人間の現状を受け入れた上で、悪の克服にまつわる物語に耳を傾け思いを凝らすことがむしろ順当な態度となろう。宗教が悪の克服を説く背後には、悪の執拗で圧倒的な実在への峻烈な確認と問いかけが含まれていると考えた方がよい。
たとえば奇跡によって病気が癒されたという喜びに人が熱狂している。それは「素朴な善への信頼」ではないか。さしあたりそう見える。だが、それはギリギリときしみ続けてきた「悪の経験」の裏面でもあるのだ。むしろ重い病苦と引き裂かれるような悲しみをもたらした黒々としたものへの、筆舌に尽くしがたい畏れの裏返しの表現とも理解できる。あらゆる言葉を尽くして善の源泉をほめたたえる偈にうたわれるまばゆい光は、実は計り知れず奥深く大いなる悪の闇にかろうじて差し込んだ微光の幻視なのかもしれない。死に向き合い、悲しみをその深さに釣り合うほどに分かち合う力を与えてきたのが宗教だと理解されるなら、癒しの熱狂の中にも同じ生死の陰影を読みとることはさほど困難なことではない。そのように人生のさまざまな機会に応じて、光と闇の交錯を宗教は語り、描き、演じて、人を倦ませることがない。悪の克服をめぐる宗教の教えは一見単純だが、悪を包み込む宗教という器の容量はもっともっと大きい。少なくとも、かつて大きかった。
近代合理主義や啓蒙主義やヒューマニズムの影響の濃い空間では、このような悪をめぐる両義的な思考や所作の場が体験しにくくなっている。とりわけ人知の向上による進歩の神話が生きているところではそうだ。進歩の神話も「悪の克服」のヴィジョンを提示している。しかしそれは宗教のヴィジョンよりも単線的で平板である。平板なものに親しむうち、人間の経験の豊かな茂みやくぼみに目が及ばず、汲み尽くすいとまもなくあわただしく通り過ぎてしまうことになりがちだ。そのような平板な情報空間で宗教は「悪の克服」への素朴な期待の姿を取るが、実はそれは啓蒙の自画像との重ね絵なのかもしれない。
八〇年代のある時期から、悪の圧倒的な力を語る言説が目立つようになった。筆者が思い浮かべているのは、たとえば「風の谷のナウシカ」や「新世紀エヴァンゲリオン」や「もののけ姫」の大ヒットであり、ニヒリズムの人気やオウム真理教の発展である。オウム真理教は外部の悪の像の妄想的な誇大化と歩調を合わせつつ、内部にぽっかりと虚無を育て、無造作な悪の実行へとのめりこんでいった。こうした大いなる悪の表象の歓迎は、さしあたり環境問題や人口問題、資源問題などの「犯された悪の累積」の重苦しさに関わりがあると理解できよう。
しかし、もう一歩、踏み込んで事態をのぞき込むと、そこには進歩の神話の失墜という深いトラウマが見て取れる。冷戦時代には疑われつつも何ほどかの威信を保っていた自由と繁栄の、あるいは平等と連帯の「善の王国」のイメージは今や見るも無惨に色あせ、むしろ「暴力と排除の近代」の扇動者隠蔽者の言説と見えるようになった。競争前進のエートスを抱え込んだ学問の世界での近代批判は、ここに突破口を見いだそうとする。文明の進歩を語る神話的言説がいかに悪の源泉となったことか。「批判」や「脱構築」は「正当」そのものであろう。だが、その正当性の語り口はしばしば前進する啓蒙の平板さに通じている。悪との戦いの意図はまことにまっとうであるとしても、その所作がひきつったものに見えてしまうことがある。悪の露出と告発が高尚難解な装いをこらしていても、内に平板な否定の音調を伝えていて、悪を孕んだ豊かな生のヴィジョンへとつながらない。
他方、一般に「精神世界」とよばれ、筆者が「新霊性文化(新霊性運動)」とよんでいる希望の言説もある。伝統的な宗教と近代合理主義、双方の限界が露わになった今日、個々人の自由な「霊性」の陶冶が望まれる時代(ニューエイジ)が来た。この新たな「霊性」の追求においては、悪が果たす役割はやや小さい。光と闇の物語というより、明るい光の浸透への期待が目立つ。「森の思想」や古神道をたたえる言説は善悪のからみあいの陰影を欠く。個々人が瞑想を通して学ぶ自己変容や気づきの体験は、人類全体の意識の進化に通じると理解されることが多い。「癒し」やディープエコロジーが語られる際にも、進歩への素直な希望が躍動している。その意味では、近代合理性のオルタナティブを標榜しているにもかかわらず、新霊性文化は実は進歩の神話の枠内にいる。しかし、ほんとうに人類意識の進化が起こっているのか、当事者たちも懐疑に陥ってしまいがちだ。
進歩の神話の喪失のトラウマから立ち直るには、悪をめぐる宗教的な思考やふるまいの多彩なストックを見直してみる必要がありそうである。衛生的で健全な宗教の発展を願う言説(啓蒙の間尺に合わせた「カルト批判」)と、そのような「悪への回帰」の抑えがたい欲求とをつきあわせ、心の実験室でゆっくり探査吟味をしてみることにしよう。