書評と紹介:小松美彦、土井健司編『宗教と生命倫理』ナカニシヤ出版、二〇〇五年五月三〇日刊

『宗教研究』346号、2005年12月、174−179ページ


 アメリカ合衆国でバイオエシックス(生命倫理学)という学問分野が成立してくるのは一九七〇年頃のことであるが、そこではキリスト教の死生観や倫理観が当初から強く意識されていた。これは、英仏独などのヨーロッパの科学先進国で生命倫理問題が論じられる際も同様である。安楽死や妊娠中絶の是非は生命倫理の論題としてもっとも重要なものの一角に位置するが、これらはカトリック教会をはじめ、キリスト教諸派の立場を深く考慮せずには議論を構築しにくいものだった。脳死・臓器移植の是非やヒト胚の研究・利用の是非というような問題も、キリスト教の教会側の立場が議論の方向を定める上で、大きな役割を果たしてきた。安楽死や妊娠中絶はキリスト教世界では長い歴史をもった倫理問題であり、その蓄積から新しい生命科学や先端医療が提起する倫理問題についても、すぐに議論の焦点が見えてくるという経緯があった。
 では、非キリスト教世界はどうか。これまでのところ、非キリスト教世界で宗教勢力や宗教的言説が生命倫理問題の帰趨に大きな影響を及ぼしたという例は少ない。日本の脳死・臓器移植問題をめぐる討議は、その数少ない例の一つであるが、そこでも宗教勢力や宗教的言説がどのように影響したのかというと説明が容易でない。人によっては宗教はあまり関係ないと判断するかもしれない。仏教や儒教やイスラムやヒンドゥー教が現在の生命倫理の諸問題にどのような立場で向き合うかといえば、「まだ見えて来ない」というのがおおかたの見方だろう。これは非キリスト教世界の多くの地域が経済的にさほど豊かでなく、バイオテクノロジーがさほど発展していないという理由、あるいは、貧困の克服や経済的発展の達成に関わる他の諸問題に比べて生命倫理問題の重要性の度合いが高くないという理由によるところが大きいだろう。
 だが、現代の生命倫理の問題は国家や地域の枠内では解決しないことがますます増大してきている。キリスト教やユダヤ教の文化を背景としてなされてきた議論だけでは、とても間に合わない事態が押し寄せてきている。たとえば、ヒト胚の研究・利用の是非の問題だが、欧米諸国ではキリスト教の立場からの反対が強く、人のES細胞の樹立・利用やクローン胚の作成についてなかなかゴーサインを出せない状態だが、韓国ではいち早く人のクローン胚からES細胞を樹立してしまった。欧米の科学者らは、中国やシンガポールがヒト胚研究・利用を躊躇なく進めていくだろうと恐れている。では、中国や韓国や日本ではヒト胚研究・利用の倫理問題にどのように取り組むのか。その際、仏教や儒教や神道といった宗教伝統はどのような死生観や倫理観をもって、直面する諸問題に取り組もうとするのだろうか。
 イスラム教やヒンドゥー教の立場からもどのような判断となるのか、近い将来、必ず大きな問題として浮上することだろう。二〇〇五年の三月に東京で行われた国際宗教学宗教史会議第一九回世界大会においても、生命倫理をめぐるパネルが数多く持たれたのは記憶に新しいところであり、今後、宗教研究の出番が確実に増してくると考えるべきだろう。しかし、近年まで日本の宗教研究の世界では、諸宗教や諸文化を見渡しながら、生命倫理問題に取り組もうとした業績はほとんどなかった。本書、『宗教と生命倫理』はこのような空白を埋めるものであり、現代の宗教研究の重要な課題に一石を投じた意義深い試みと言えるだろう。
 「なぜ「宗教と生命倫理」なのか」と題された序論で、小松美彦はアメリカ流のバイオエシックスの特徴を説明して、「自己決定権」の理念が基軸となったことを示している。小松はその背景には、経済活性の必要性から生物医学・生命科学を発展させようとする大きな力が働いており、自己決定権の理念が発展を正当化する機能を果たしたと論じる。「なぜなら、新規医療技術が問題を含んでいるにせよ、自己決定権はその需要を個々人の自由裁量に委ね、したがって、新規医療技術を丸ごと否定するには至らないからである。」だが、二一世紀に入る前後から、生命倫理問題をめぐって自己決定権が論軸とならないという事態が目立つようになり、自己決定権重視の背後にある個人主義にかわって共同体主義的な論調も市民権を得るようになってきた。このような思潮の転換は、アメリカ流のバイオエシックスが新規の医療技術や生命科学/技術を正当化するための便宜主義的な性格をもつことを示すものではないか。生命倫理学のこうした性格に鑑み、原理的な考察を提供できる宗教からの発言が今こそ求められていると小松は論じている。
 小松は続いて、本書が取り上げる諸宗教として仏教、キリスト教、儒教、ヒンドゥー教、イスラーム、神道をあげ、主要な課題として「?独自の死生観の概観、?従来の生命倫理問題とのかかわりの検討、?各宗教からの原理的な議論の構築」の三つを提示している。大きな視野を求めた、大上段の課題設定であるが、各論者は果敢にこの課題に取り組み、いずれも独自の論点を提示しようとしている。野心的な編集意図、またその期待に応え各論者が正面から力業で取り組んだ、その意気込みにまずは敬意を表したい。
 中島隆博による第一章「死者を遇する〈倫理〉――仏教と生命倫理」は、主に脳死・臓器移植を念頭に置き、ヒト胚研究・利用の問題にも触れながら、著者なりの仏教的生命倫理の形而上学的基礎を示そうとしている。素材として中国仏教における死後の魂の存続と殺生戒をめぐる論争が取り上げられるが、論点は明瞭である。死後の魂の存在が否定されるにしても仏教は他者である死者との関わりを軽視しはしない。また、殺生を戒めるとしても、人間生存上、動物の死を避けうると考えているのではなく、他者としての動物に向き合う姿勢を求めていると理解できる。「死者を死者として遇すること」を通して、自然を超え、形而上学的な次元を見失うまいとする倫理性が仏教には備わっており、そこに現代の生命倫理問題に寄与しうる何かがあると論じられている。
 土井健司による第二章「「いのち」の倫理の再構築に向けて――キリスト教の視点から」は、ヒト胚研究・利用問題や脳死・臓器移植問題を念頭に置きながら、柔軟な聖書解釈と「関係」を重視した「いのち」論に基づく生命倫理論を提起している。アメリカのキリスト教で顕著に見られる教条主義的な否定論と迎合論的な賛成論に対して、土井は「いのち」概念や「生や死の根本経験」に即した原理的だが柔軟なキリスト教生命倫理の道を求め、「愛という言葉によって表現される人格的関係」をその基礎に置こうとする。「いのち」の経験とは、何者であっても一対一の人格的関係をとりもとうとするときに成立するものであり、「いま・ここ」の関係において成り立つ。そこにこそ「尊厳」の経験が成り立ち、それをとりはずすと他者を非人格として、また手段として遇する危険を冒すことになる。脳死を死とする立場は、死にゆく者を非人格的関係においてとらえている。人工妊娠中絶問題やヒト受精胚・クローン胚についても、そのような人格的関係において向き合えば、中絶を認めつつヒト胚研究・利用を容認しない立場を支えることができると論じられる。
 以上の二章は、「他者に向き合う」、あるいは「他者とともにある」関わりの中に、守られるべき「いのちの尊厳」を見ようとするという点で共通の主張を含んでいる。それは、一つには生命倫理の基礎を、客体化された実在としての人間のもつ優越性に見ないということである。また、客体としての生命に対する道徳的禁止に従う意識的主体にではなく、他者とともにあることから要請される行為をなそうとする人間的構えに力点を置く立場をとるということでもあろう。そこでは死者や動物に対する構えも問われることになり、バイオエシックスが自明視しがちな客体としての人格から、主体としての実存的人間へと倫理的な関心の場が移動している。生命科学の引き起こす倫理問題と仏教やキリスト教の宗教伝統が保持してきた倫理性の突き合わせが適切になされ、宗教伝統との突き合わせを通したバイオエシックスの更新という課題の核心に迫る内容をもった論考と言えよう。
 齋藤かおるによる第八章「生命があるとは、どういうことか――宗教と自然の生命」も以上、二章と問題意識を共有している。ここでは環境倫理を参考にしながら「生命」の概念そのものを考え直すべきだと論じられ、最近のキリスト教学者の業績を参照しながら、人間と植物やそれ以外の事物をも「主体―客体モデル」ではなく、「主体―主体モデル」によってとらえるべきことが提起されている。また、平等と合理主義の上に組み立てられた「動物の権利」の理論ではなく、異なるものをそのものとして受け入れる「寛容さと慈しみ」の立場から人間と動物の関係を考え直すべきだという。さらに、人間の労働と性について旧約聖書の記述をすべてそのまま受け入れるのではなく、それらが人間自身の創造に委ねられており、喜びを求める積極的な生命の相互関係としてとらえ直していくことができるはずだと述べている。生命倫理の問題にすぐに適用する以前に、伝統的なキリスト教の生命観をエコロジー的な生命認識に寄り添わせてとらえ直していく可能性について論じた論考である。
 第三章、第四章、第五章は日本人になじみが薄い地域や宗教伝統を扱っており、異文化に対する目を開かれるという点で意義の大きい諸章である。愼蒼健による第三章「儒教と生命倫理の可能性――基礎作業の試み」は韓国における生殖医療や先端医療の発展が、儒教の影響によるという説明の妥当性を検討し、疑問符を付している。愼は体外受精の数の割合が日本と韓国でさほど違わないこと、卵子提供による体外生殖は日本でも必ずしも強く反対というわけではないこと、男児の産み分けにおいても日韓で顕著な差があるとは言えないことなどをあげて、韓国での儒教の影響を強調する日本の研究者の議論を批判している。愼は韓国での生殖医療や先端医療の顕著な発展の事実を否定しているのではない。ただそれを儒教的死生観によって説明するのでは足りないという。臓器移植を例にとると、儒教の孝の理念には遺体を重視することによる抑制要因と親のための社会的上昇を義務として遺体利用をも是とするといった両面がある。儒教に話をもっていく以前に、韓国医学者の技術主義的な思考パターンなど医療文化の特徴をよく検討すべきだと論じている。
 町田宗鳳による第四章「ヒンドゥー教に学ぶ〈いのち〉の哲学」は、「いのち」を大肯定、する生命賛美の多神教としてのヒンドゥー教に、生命感覚を失った現代の生命科学や先端医療を是正する方向を示唆するものがあると論じている。だが、他面、ヒンドゥー教には「宗教は生命尊重を説く」という常識に反するような面もある。ヒンドゥー教の神々には、シヴァやカーリーのように、破壊と血と殺戮を好むかに見えるものもある。町田はそこに「壊しきれない生命力への確信」があるという。ヒンドゥー教の神話には人体の利用を肯定するかに見えるプラグマティックな思考法もあり、町田は生命倫理の個々の論題にすぐさま適応を求めて論ずるような論じ方は意義が薄いと論じる。それよりも、ヒンドゥー教の諸特徴、たとえば儀礼を尊び、聖なる次元を強く求め、堅い自己に依拠せずにしかし調和を求めてアイデンティティを確保するといった特徴から、生命科学の健全な発展と柔軟な生命倫理の考察に役立つものを拾い上げていくべきだという。
 中田考による第五章「「イスラーム」と「生命倫理」」は、「生命倫理」というような枠組みに従って倫理問題を議すること自体がイスラーム世界にとっては外在的な事柄であり、文化植民地状況を反映したものであるという前置きから始められている。そして、イスラームにおいてそもそも倫理とは何か、またイスラームの「生命観」とは何かについて歯切れ良い紹介がなされている。万物に生命は宿り植物や鉱物でさえ言語能力を有すると考えられているという点、人間は「神による世界の信託」を引き受けたが、それは理性的存在だからなどではなく、不正な存在でありながらも倫理的存在として責任を引き受けることによってだという点などである。権利と義務については、義務こそが先行しその「反射として」権利が生ずる。殺人の禁止があるからこそ生きる権利が生ずる。権利は「正当な理由」により解除されるもので絶対的ではない。動物に対しても人間には扶養の義務があり、動物に苦痛を与えてはならないとも指示されており、動物の権利を認めていると言える。イスラームの生命倫理というものがありうるとして、その立論のあり方は現在のバイオエシックスのそれとは大きく異なるものになるだろうという主張は傾聴すべきものである。
 第六章、第七章は日本の文化伝統について述べたものであるが、それぞれオリジナリティの高い論考である。日本の宗教文化から生命倫理問題を考察する際に、欠かせない論題について意義深い論述がなされている。津城寛文による第六章「神道世界の死生観から」は、主に脳死・臓器移植問題を取り上げ、神道学者や神道者、さらには神道系の大本教団による生命倫理論をわかりやすく整理し紹介している。生命倫理問題に積極的に取り組もうという姿勢が弱い神道だが、脳死・臓器移植については脳死は死ではないが臓器移植は認めるというのが基本線である。だが、死に際しての儀礼を重視する見解もあり、その見解に従えば臓器移植は実現しにくくなるだろう。この立場と関連するが、死後の霊魂の存続を強調する大本教団のような立場があり、聖師出口王仁三郎の聖典『霊界物語』に基づき、臨死の状況の霊魂を重んじて脳死・臓器移植に反対している。だが、聖典を論拠としつつも常識に依拠して現代科学の専横に抗おうとする視点も示されている。バランスよく適切な紹介がなされているが、津城がとくに関心をもつのは、臨死体験や死に直面した人間の実存的な意識を取り込むべきではないかという問題である。
 今尾佳生による第七章「中世説話における動物の生命――殺生の宗教学へ」は、まず仏教説話において人間と動物の関係がどのようにとらえられているかを考察している。殺生戒については「殺すか殺さないか」ではなく、「殺しつつ愛おしむ」という矛盾・葛藤にこそ要点がある。「生命の循環的階層」性という認識があり、畜生道への転生は恐るべき堕落とされ人間と動物との間に断絶がある。他方、「動物が人間を救済する」、「動物に堕ちることによって救済される」、「動物の苦しみを痛切に体感して発心する」、「動物が他界への導き手となる」、「仏菩薩が動物の姿をとって人を救う」などの説話で人と動物の親しみ深さも示されている。人間と動物は近い存在なので、殺生を犯せば循環的階層性の下降を導きかねないが、そのことの自覚によって上昇(最終的には成仏)の可能性も生ずる。だが、時代が下ると「殺生によって動物の境遇を改善した」といった論理も現れ、儒教的人間中心主義も台頭する。現代では死の疎外によって殺生という矛盾的なあり方そのものから遠ざかる傾向がある。エコロジーに親和的な世界観としてアニミズムがもてはされるが、アニミズムにも殺生をめぐる仏教の感性に近い死の認識があったと今尾は付け加えている。
 以上、おおよその論旨を紹介してきたが、現代の生命倫理の諸問題を考察する上で、宗教文化から考えていくことが大いに必要であり、またたいへん有望であることを十二分に示した書物といってよいだろう。とりわけ、規範命題中心に生命倫理を考えるのではなく、「矛盾をはらんだ関係の中に置かれた人間と生命」に焦点をあてて生命倫理を考えるという視点が浮上してきているのが興味深い。これはほとんどすべての論考が、理性的判断を行い自己決定権を行使する自律主体に焦点をあててきた従来のバイオエシックスの限界を踏まえ、それを超えた論点を示そうとする問題意識を共有していることによるだろう。小松が述べている本書の構想にもどると、?〜?の大きな枠組みの設定も成功したと思われる。
 とはいえ、まだ諸宗教を横断して重要な論題を列挙するというような段階にまでは至っていないようだ。?と?をつきあわせて?に至るころができればたいしたものだが、なかなかそうはいかない。キリスト教の場合(第二、八章)はこうした手順の先例が多々あるのだが、他宗教の場合には、?の方に力点がかたよって?が薄くなっている場合(第三、五章)、逆に?の方に力点が置かれて?が薄くなっている場合(第四,六章)に分かれているように感じられた。仏教に関わる第一,第七章が比較的バランスがとれているのは、現代日本文化に近い世界なのでさほどの説明を要しないという理由によるのかもしれないし、仏教に即した生命倫理の考察がそれなりの蓄積をもつに至っていることによるのかもしれない。
 というわけで、本書を通読すると人類文化の多様性に圧倒されるような思いも残る。だが、さらに各宗教の中の多様な立場や解釈潮流のことなども考慮に入れる必要がある。考察すべき生命倫理問題(?)をしぼって、諸宗教からの考察を比べるような試みも今後は必要になろう。課題は多いが、このような試みを求める声はますます高まってくるだろう。新海域への船出を知らせる明るい汽笛をのせた好著の刊行を心から言祝ぎたい。

カテゴリー: 02エッセイ パーマリンク