新宗教の生命主義的救済観と死生観――金光大神を例として――

『福音宣教』第60巻第7号、2006年7月、31−38ページ(発表されたものに書き加えてあります。)


一、現世志向的な宗教意識の由来
 19世紀の前半から発展してきた日本の新宗教の諸集団の大多数が現世志向的であり、死や死後の世界に強い関心を向けるというより、この世の生の充実にこそ力点を置いていることはよく知られている。人間の「陽気ぐらし」を見てともに楽しむことこそ、人間と天地万物を産み出した神の究極の目標だったという天理教の教えはその代表的なものである。19世紀半ばまでに発生した黒住教や天理教から、最大の隆盛期である第二次世界大戦後の数十年に至るまで、新宗教全体にわたって生命主義的救済観が共有されていると論じられてきた。筆者も共同執筆者の一人だが、対馬路人他「新宗教における生命主義的救済観」(1979)はそのことを明らかにした論文としてよく知られている。
「生命主義」という語の意味するところの一つとして、伝統的宗教と比べて「生」の横溢が強く願われ、讃美されている代わりに、死に対する関心が薄いということがあった。「新宗教における生命主義的救済観」ではそのことを次のように論じている。
 生命主義的救済観の特徴の一つは、われわれが現に生きているこの現実世界における
 救済の実現を説くことであり、この点で、彼岸志向的ないし解脱的救済論の現世悲観主義と著しい対照を示している。この現実世界における生命の充実・開花に積極的・救済的な意義が与えられるのとは対照的に、死後の世界での救いに対する関心はうすい。
  我道は死ぬるばかりぞ穢れなり、生き通しこそ道の元なれ(黒住教『黒住教教書』)
  死ぬる用意をするな、生きる用意をせよ、死んだら土になるのみ(金光教『金光大神理解』)
  死んでいってからなんて何ひとつ自由にならない、生きているうちだけが自由であって金もつかえれば仕事もできる、修業もできる(霊友会『天の音楽』)
 少なくとも第一義的には、救いはこの現実世界において「子孫繁栄、家繁昌」(金光教)、「陽気ぐらし」(天理教)、「寿命も長くなり、おだやかにくらす」(大本教)生活、「現世の幸福(みさち)」(PL教団)の実現、「強き強き生命力の涌現」(創価学会)、「地上天国」(世界救世教)の実現といったかたちで達成されるべきであると考えられている。(98ページ)

 では、なぜこのような新宗教の現世志向性という特徴、また死への関心の薄さという特徴が生じたのだろうか。この理由はなかなか複雑であり、「新宗教における生命主義的救済観」でも説明に苦労しているが、おおよそ三つの方向から理由をあげていると言ってよいだろう。一つは、日本の基層的な宗教文化の特徴に由来を求めるもので、神道やアニミズムのように、主としてこの世の生命の生成、発展に聖なるものの現れを見るような感性が古代から現代に至るまで強い影響を及ぼし続けてきたと見る。したがって近代以前の日本宗教にもきわめて長期にわたって現世志向性や生命主義という特徴は見られたので、新宗教の現世志向性や死への関心の薄さもその延長線上にとらえることができるということになる。
 第二は、近現代の社会や文化の特徴と関連づけようとするもので、伝統的な権威体系からの解放という点に注目するものである。伝統宗教では読み書き文化により権威を得、しばしば禁欲生活を規範とした聖職者が主導権を握っていた。聖職者の権威は現世的な欲望を低く見、民衆の日常生活や身体性の価値を軽んじることに結びつきだった。そもそも現世否定的、来世志向的な救済観は、はなはだしい階級社会においてこの世の民衆の生活の苦悩を解決困難と見る悲観主義に根ざしていた。近代化がもたらす伝統的権威からの解放と民衆の生活向上により、この世の人生においてこそ宗教的目標が達成されるし、そうあるべきだという考え方が発展してくると見るのである。
 三つ目の説明は、宗教史の発展過程をより子細に見ようとするものである。たとえば、葬祭仏教とよばれるような仏教の展開過程と関連づけて、新宗教の現世志向性や死への関心の薄さを説明しようとする。「新宗教における生命主義的救済観」では、次のように論じられている。
 日本における仏教の民衆への浸透(一五ー一七世紀)は葬祭と密接に結びついて進められた。仏教は人の死後の至福を確証し(往生)、死者を来世に安住せしめる(回向)手段を提供するものとして受けとめられ、現世の倫理などにはあまりふれることがなかったが、その後この傾向はますます強まり、ついには葬式仏教とよばれるようになった。新宗教は仏教に対する革新運動として起こったわけではなく、葬祭との関わりの薄い民俗宗教という基盤から発生したから、葬祭と死後の救済には当初からさほど関心をもたなかった。一方、民衆の葬祭への関心はとくに減退したわけではなく、新宗教を受け入れた民衆の多くは仏教の葬祭を行い続けた。比喩的にいえば、いなかの家から都市に働きに出た次三男坊は、お盆にいなかに帰れば葬祭を熱心につとめる仏教徒であり、都市では死後の問題にわずらわされず生の問題にのみ関心をいだく新宗教の信者でありえたのである。このように、新宗教と仏教の間にはある種の分業がなりたったわけであり、新宗教は死者の供養と死後の救済の問題を仏教に任せてしまうことができたといえよう。このことは新宗教が生の問題に没頭し、生命主義的救済観を展開するのに好都合だったであろう。(104ページ)
 以上、三つの視点は相互に排他的なものではなく、どれもそれぞれに妥当なものであり、それらを組み合わせることでより納得できる理解に至ることができるようなものだろう。三つの理由の相互関係を明らかにする上でとくに重要なのは、葬祭仏教が日本社会に根を下ろす近世の宗教史をどのように理解するかという問題である。この問題は、「新宗教における生命主義的救済観」では詳しく論じられていない。そもそも日本宗教の救済観と死生観の展開を考える上で、近世の変化はきわめて重要な意義をもつと思われるが、これまで十分な議論がなされてきていない。儒学や国学については思想史研究の分野で、仏教については仏教史の研究分野で、また神道や民俗宗教については宗教史や神道史や民俗学や歴史学の研究分野においてさまざまに論じられてきたが、近世宗教の展開を総合的にとらえようとする研究はごく少数の学者によってしかなされて来なかった。近世宗教における救済観と死生観との関わりというような問題について論じる基礎がまだ形成されていないと言ってよいかと思われる。
二、金光大神の場合
 ここで詳しくその問題に立ち入るゆとりはないが、一つの例を取り上げて、より深い考察や研究のための手がかりを示したい。素材は一九世紀の半ばに発生した新宗教、金光教の教祖、金光大神(1814-1883、宗教性を深める以前は、赤沢文治とよばれた)の死生観である(島薗 2004b)。前にあげたように、「死んだら土になるのみ」(『金光教教典』「金光大神理解」?、島村八太郎45)との言葉が伝えられている金光大神の死生観は、ひとまず現世志向的と特徴づけてよいだろう。「生きている時に神になっておかないで、死んで神になれるか」(同前、島村八太郎10)との教えの言葉も残されている。生きている間が大切なのであり、よく生きる努力をしないで、死のことばかりを考えてもしかたがないではないかとの主旨である。「生神」になることが目標だとする教えの言葉も多く、金光大神の信仰理念の核心を示すものともとらえられているが、この「生神」という言葉にも、死や死後のことを考えるよりも、どう生きるかにこそ考えを向けよという意味が含まれている。「生きた母がかわいい子の手をとってさえ、病を治すことができまいが。死んだ神にすがっても、生き死にの安心のおかげを受けることができるか」(同前、島村八太郎13)といった発言にも、この世の「おかげ」に主眼を置こうとする考え方が示されている。
 だが、他方、金光大神は死後の霊魂の存続を確言してもいる。金光教教団刊行の最新の教祖伝、『金光大神』では、「死生の安心を得るには、死んで後の心配をするよりも、生きている今月今日を大切にして、信心を進めるよう導いたのだった」(490ページ)と述べるとともに、「生まれるとき神から与えられた魂が、死後も生き続けると教えた」とも述べている。では、死後、霊魂はどこへ行くのか。どのような状態にあるのか。だが、これについては、必ずしも明確な考えをもっていなかったのではないかと思われる。
 死後の魂のゆくえについて断定的なことは言わないと明言する言葉も残されている。
 金光大神もまだ修行中で、死んだ後のことまではわからないが、この世に生きて働いている間に、日々安心して正しい道さえ踏んでいれば、死んだ後のことは心配しなくてもよい。(畑やすし『平人なりとも』237−8ページ)
 ここには死後の世界について断定的な教えをもっている既存の宗教に対する距離感が表明されていると見ることもできよう。また、ある信徒の質問に対する次のような答が残されている。
 金光様、真宗では、死んだら西方十万億土へ行くと言うし、太夫様は、鈴を負って高天原へあがると言います。宗教がたくさんあっていろいろの教えがありますが、死んだら、魂がそのようにいろいろと分かれるのでしょうか」と伺った。金光様は、「そういうことはありはしない。十万億土へ行くのでもないし、鈴を負って天へあがるのでもない。真宗や神道ばかりではなく、真言宗でも天台宗でも、天が下の氏子の死んだ者の魂は、天地の間にふうふうと、ぶゆが飛ぶように遊んでいるので、どこへ行くのでもない。わが家の内の仏壇にいるし、わが墓所にうずめていることからすれば、墓所と仏壇で遊んでいるのである。/この世で生きている間に、人が悪いことをしたりすると、死んでからでも天地の神様のおとがめを受けるのである。(中略)/それゆえ、この世で悪いことはできない。天地の神様は天と地でじっと見ておられる。地におれば、天からじっと見ておられる。天知る、地知る、我知るというであろう。それが、天地の神様が知っておられるということである。天は見通しであるからなあ。(『金光教教典』金光大神理解?、佐藤光治郎28)
 ここでは既成宗教の遠い他界に対して、近い他界の実在が示されている。また、死者を送るための儀礼はさほど重要ではないが、死者の「御霊」は大切にしなくてはならないという教えもある。
 「此方死なば、屍は苞にして川に流すなりと土に埋めるとなりと、勝手にせよ、人の死にたる体は空なり、不浄なり。しかし、親を川に流したと言うては、世間もかれこれ言うであろう。菰に巻いてでも土に埋めておけば、事は足る。御霊のまつりは大切にせよ。」(『金光教教典』金光大神理?、佐藤範雄20)
 これらはいずれも、葬祭仏教に代表される既成宗教の死をめぐる教説や儀礼に対する距離感と関わりがある。確かに死後の世界での救いに大きな関心を寄せることは否定されている。だが、死後の霊魂の実在は否定されているわけではなく、死者の霊魂の実在感はきわめて明確である。死者の霊との交流や共存の意識は金光大神の宗教性の中ではかなり大きな位置を占めていたと思われる。このことは金光大神の前半生を振り合えることによってさらに明確に示すことができるが(島薗 1980a)、紙数の都合上、それについては省略したい。
三、近世・近代の宗教史の中での死
 このように葬祭仏教に代表される既成宗教の死をめぐる教説や儀礼に対して、金光大神が距離感をもっていたのは、近世後期(18世紀後半から19世紀前半)の(1)読書人的知的世界と(2)民衆の宗教意識の双方の展開と関わりがある。近世初期の16世紀から17世紀にかけての時期と比べると、この時期には儒教や神道の文書知識は著しく増大し、読書人的知的世界において仏教的なコスモロジーの諸前提は相対化される度合いが高まっていた。かわって神道のコスモロジーが受け入れられる場合もあったが、それは仏教や儒教のそれに対する相対的なものとしてであらざるをえなかった。そもそも儒教は死後の世界についてあげつらうことをきらうような教えを含んでいた。若い頃、学のある庄屋の小野光右衛門(1785-1858)から熱心に教えを受けていたと思われる金光大神が、このような読書人的知的世界の影響を受けていたことは十分に考えられるところである(島薗 1980b)。
 他方、金光大神は既成仏教教団とは相対的に独立した、神仏習合的な民俗宗教の世界に深く関わっていた。とりわけ仏教寺院との関係が薄く、民衆自身が担い手となる石鎚講や金神信仰などであるが、これらは山伏や先達などとよばれたシャーマン的な民間信仰家の活躍する世界だった(島薗 1981)。近世後期においてこうした大衆的な習合宗教の世界は、次第に既成仏教教団からの独立を強め、独自の宗教的世界を構築しつつあった。こうした大衆的習合宗教の世界では、死や死後をめぐる儀礼や教説はあまり関心を向けられない。しかし、死者の霊との交流という点では、死や死後の世界に深い関わりをもっていた。金光大神の死や死後の霊魂についての教えは、こうした近世の大衆的習合宗教の世界を継承し、発展させたものとして理解できる点が少なくないのである。
 このように考えると、日本の近世後期の社会においては、死や死後の世界についてさまざまな宗教的思想的立場が並立していたことが知れる。伝統仏教的な立場、教説神道的な立場、儒学的な立場、習合的民俗宗教(とりわけ大衆的習合宗教)の立場などである。いちおう4つの立場に整理したが、それぞれの中にもさまざまな立場の相違があったと思われるが、今はそれには触れない。ただ、仏教的な立場の中で、葬祭仏教的な傾向が次第に強まっていったということは強調しておいてよいだろう。中世的な仏教世界が、生活の全領域をおおう「仏法」の立場を成り立たせていたとすれば、近世以降の葬祭仏教においては、仏教的世界の機能が家の共同性を支える葬祭儀礼という側面に集中していき、日常生活の諸領域から撤退していく傾向を強めたといってよいだろう。
 それにかわって、近世宗教の中では次第に、教説神道的な世界、儒学的な世界、習合宗教の世界が興隆していった。そして、それらはそれぞれに現世志向的な性格を帯びていた。伝統仏教的世界は自ら葬祭仏教的な世界に狭められていったと述べたが、それはこれらの競争相手の世界観の影響が強まっていったことと同時的でもあった。民衆の生活世界の側から見れば、これらさまざまな宗教的世界が併存し、競いあう状況が広まっていったと言える。19世紀の半ば頃には、このような宗教的世界の多元化と現世志向化が進んでいったと見ることができる。金光教はこうした状況を反映して登場した新宗教である。
明治維新以後はそこにさらに近代の科学的合理主義的世界観の影響が加わる。これは宗教的世界の多元化と現世志向化の傾向をさらに強めていったと言えるだろう。しかし、それでは伝統仏教の来世志向的救済観や死生観は息の根を止められるほど影響力を弱めたかというとそうも言えない。浄土真宗の影響力は、近世後期から明治期にかけて現勢を維持した、あるいは勢いを強めたとさえ言えるかもしれない(島薗 2004b)。また、この時期には社会構成体としての家が、堅固な力を保持したり、いっそう強めたとも言える。家の秩序と深い関わりがある葬祭仏教は、明治民法の下でその基盤を保障された面もある。伝統仏教的な救済観や死生観は、近世から近代にかけても一定の影響力を保持し続けた。
 しかし、日本社会全体を見渡すと、確かに伝統仏教の来世志向的な救済観や死生観の地位は相対化され、それにかわってより現世志向的な救済観や死生観が地位を高めたのである。金光教の教祖、金光大神が死について残した言葉は、そのようなプロセスの貴重な証言として見ることもできだろう。
 もちろん金光教は新宗教の一つの例にすぎない。しかし、金光教の創始者、金光大神の宗教的経歴と宗教性は、新宗教の生命主義的救済観が多くの人々に受け入れられた理由の一端をかいま見させてくれる。日本の近世の宗教史は近代の宗教史を準備した。金光大神の例はその経緯をほのかに浮かびあがらせてくれる。このような例を重ね合わせていくことにより、私たちは今日の日本の宗教状況を理解する手がかりをさらに豊富に得ていくことができるだろう。
参考文献
畑やすし『平人なりとも――金光教祖の生と死』扶桑社、1996
金光教本部教庁編『金光教教典』金光教本部教庁、1983
金光教本部教庁『金光大神』金光教本部教庁、2003
島薗進「金神・厄年・精霊――赤沢文治の宗教的孤独の生成」『筑波大学哲学思想学系論集』第5号、1980a
 同 「宗教の近代化――赤沢文治と日柄方位信仰」五来重他編『講座・日本の民俗宗教5 民俗宗教と社会』弘文堂、1980b
 同 「民俗宗教の構造的変動と新宗教――赤沢文治と石鎚講」『筑波大学哲学思想学系論集』第6号、1981
 同 『金光大神論の課題――超越性のあり方』金光教首都圏フォーラム、2004a
 同 「民衆宗教と民衆仏教――一九世紀日本の来世と現世」荒木美智雄編『世界の民衆宗教』ミネルヴァ書房、2004b
対馬路人・西山茂・島薗進・白水寛子「新宗教における生命主義的救済観」『思想』665号、1979

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