増進的介入と生命の価値――気分操作を例として

『生命倫理』第15巻第1号(通巻16号)、2005年9月


1. 増進的介入をめぐる議論の高まり
 1990年代以降、次第に重要性を増してきている生命倫理の問題に、増進的介入の是非や限界をめぐる論議がある。増進的介入(エンハンスメント)は通常の医学的介入である治療(トリートメント、キュア)に対置されるものである (1)。病気を治療するのが元来の医療の目的だとすると、現代医療は「治療を超えて」心身の「改善」に介入する力を格段に高めている。先端医療や生命科学の研究の中には明らかに増進的介入を視野に入れたものがあり、急速に増大している。生殖細胞や遺伝子のレベルでの選別、ひいては組み替え、改造の可能性も研究の日程に上ってきている。増進的介入により、次世代に増進的変化が持ち越されるような例も増えていくだろう。科学的にそれが可能であることを示して反響をよんだ書物も刊行されて反響をよんだ(2) 。これまでのように、人類が同じ種として「人間性」を分かちもっているという認識が掘り崩されるかもしれない。フランシス・フクヤマやユルゲン・ハーバーマスのような現代世界の著名な社会科学者や哲学者が、危機感をもってこの問題に取り組み、生命の価値をめぐる論点の明確化に挑戦している (3)。
 アメリカ合衆国では2003年にブッシュ大統領のもとの生命倫理委委員会が、『治療を超えて』と題された報告書を公にした (4)。この委員会の座長は医学を学んだ後、哲学研究に転じたレオン・カス(Leon Kass)であり、カスの主導の下、この委員会は倫理的な配慮から生命科学と先端医療の推進に歯止めをかけようとしてきた。まず、クローン人間の産生と治療のためのクローン胚の作成・利用の是非の問題、すなわち「いのちの始まり」をめぐる倫理問題が議され、ヒト・クローン個体の産生の禁止を合意するとともに、治療のためのクローン胚の作成・利用に対して4年間の間は政府の援助を行わないというモラトリアムを置き、討議を継続することを提議した(2002年) (5)。それを受けて、この委員会は直ちに増進的介入の討議に取り組み、それが『治療を超えて』に結実したのである。治療のためのクローン胚の作成・利用やES細胞の樹立・利用をめぐる倫理問題と密接に関連し、その背景をなす問題として医療・生命科学による増進的介入の限界をどう考えるのかが論じられたのだった。
 1978年にはじめて体外受精が成功して以来、着床以前の段階のヒトの生殖細胞系列を人体の外部で操作することができるようになり、生命操作の可能性が大きく開けることになった。1996年のクローン羊ドリーの誕生、98年のヒトES細胞の樹立、そして99年のヒト・ゲノムの解読完了と、「バイオの時代」を告げる科学技術の発展が続き、遺伝子を操作してヒトを作り替える可能性もにわかに現実味を帯びるようになってきた。増進的介入の限界をめぐる討議が熱を帯びるようになったのは、生命科学のこうした発展をにらんでのことであることは言うまでもない。だが、医療による増進的介入そのものはさほど新しいものではない。美容整形や成長ホルモンの例が取り上げられることが多いが、ビタミン剤の利用などまで含めれば、20世紀の医療はすでに多くの増進的介入を可能にしてきた(6) 。医療費や研究費の配分において、増進的介入にも公的資金を投入してよいのかという政策問題もある。増進的介入は「人間性の危機」をめぐる問題とは必ずしも意識されていなかった。1993年にヘイスティング・センターで増進的介入をめぐる学問的討議が開始される際にも、ヒトの発生過程(生殖細胞系列)への介入が主たる論題として強く意識されたわけではなかった。
 『治療を超えて』は増進的介入の諸分野として、(1)「よりよい子どもを得ようとすること」(産み分けや子どもの集中力増進)、(2)「すぐれた技能を達成するために」(スポーツにおける能力増進)、(3)「不老の身体」(老化防止)、(4)「幸せな魂」と題された分野を取り上げており、「幸せな魂」を扱った章はさらに、?記憶の操作を論じた部分と?気分(mood)の操作を論じた部分に分けられている。増進的介入をめぐる生命倫理の論題は多岐にわたり、論点も多方面に及ぶことが知れる。だが、『治療を超えて』はあえて論点を絞り込もうとしており、この問題が人類文明の重要な選択に関わるものであることを示唆しようとしている。アメリカ的価値観に強く訴えかけてもおり、この論題が重要な政治問題であることも知れる。そこにある種の単純化があり、議論の無理があるようにも思われるが、大問題を正面から受け止めようとする野心的な試みはそれなりに評価すべき点でもあるだろう。
 『治療を超えて』は遺伝子操作や発生過程での介入にはさほどの重きを置かず、むしろ成人への増進的介入医療の是非に力点を置いており、それは各論の配列にも現れている。各論の最後に置かれているのは、薬物による大人の精神への増進的介入を扱った「幸せな魂」の章だが、それはこの論題の重要度が低いからという理由によるのではない。むしろこの問題こそ、最終的で包括的な論点に関わっているからだと論じられている(p.205)。この言明には多くの異論や疑義が投げかけられるかもしれない。しかし、「幸せな魂」のための医療の是非を論じることが、増進的介入の倫理問題を考察する上で、たいへん重要な意義をもつという論点には、多くの読者が同意するだろう。少なくともアメリカの公共的討議においては、そうした合意がなされたようである。
 「幸せな魂」の後半部分は気分明朗剤とも特徴づけられるSSRI(選択的セロトニン取り込み阻害薬)の利用をめぐる問題を扱っている。2000年代初頭のアメリカでは、大人の8人に1人がSSRIを服用しているという。また、エリート大学の学生の20パーセントが気分明朗剤を現に服用しているか、服用経験があるという調査結果もある。これらの中には確かに治療的目的で処方されたものがあるだろうが、かなりの量が増進的介入にも用いられてきたと推測され、その割合がどれほどかはわからない。これは手軽で「安全」な薬物による人間改造ではないか。私たちの倫理の基盤である人間性そのものを掘り崩しかねない危うい事態ではないだろうか。
 SSRIは軽度の鬱状態の改善にめざましい効果があり、1990年前後に爆発的に普及した薬品群である。中でもっともよく知られているのはプロザックである。そこでプロザックがSSRIを代表して増進的介入の嫌疑を受けることになるのだが、この「被告」の背後には有力な弁論が存在している。プロザックをめぐって問題が生じることを指摘しつつも、その積極的利用に賛意を表し、大量の読者を獲得したピーター・クレイマーの書物である。以下、クレイマーの弁論を紹介し、レオン・カスの生命倫理委員会が提示した異なる解答を参照する。その上で、一般に増進的介入の限界について論じる際に、この論題がもつ意義につき、若干の私見を述べることとしたい。
2.抗鬱剤の使用の限界
 ピーター・クレイマーの『プロザックに耳を傾ける』(Listening to Prozac, 1993,邦訳『驚異の脳内薬品』 )(7)は、科学的知見に基づいてこの薬の特徴を説明するとともに、それが及ぼす社会的文化的影響にもふれ、生命倫理的問題をも示唆しており、その意味で有益な書物である。ロングセラーとして多くの読者を獲得し、『現代心理学』誌において「ここ数年でもっとも重要で刺激的な心理学の書物の一つである」と称賛された(ペパーバック版の中表紙広告による)のも故なしとしない。クレイマーはハーヴァード大学とロンドンのユニヴァーシティ・カレッジで歴史と文学を学んだ後、ハーヴァード大学で医学博士号を取得した俊才で、今はブラウン大学で精神医学を教えながら自ら診療所を開いている。広く人文的な教養を身につけており、生理学的な精神医学と人文学に通じる精神分析等の心理療法(精神療法)の知識をあわせもっているのが強みであり、それがこの書物に十二分に生かされている。
 プロザックは1987年12月にイーライ・リリー社から発売され、副作用が少なく、軽度の病状や悩みを克服する効き目が注目されて急速に普及し、1990年にはアメリカのマスコミでさかんに話題に上るようになった。当時すでに、アメリカでは月に65万回処方されていたという。1997年刊行の日本語版序文には、アメリカで五百万人、欧米で二千万人が使用していると記されている。このようなプロザックの人気は、人間とは何者かという認識を変えるような意味があるとクレーマーは主張する。その使用効果を通して、薬が人類に何かを教えている、それに耳を傾けようというのである。
 クレイマーはプロザックの使用を勧める支持者であり、かつて心理療法が、あるいは精神病理学や臨床心理学がもたらしうると考えられていた人間洞察を、今や生理学的薬学的精神医学が担う時が来たという認識をもっている。慎重に言葉を選びながらも、著者は巧みに一つの薬品が人類文化を変える力をもつと唱えている。
 プロザックは、いつもおずおずとしている人に自信を与え、感じやすい人を大胆にし、内向的な人にセールスマンのような社交術を教えるかに思えた。プロザックには、霊感をもつ牧師や高血圧症のグループ治療のように、患者を変身させる力があった。彼らは自分の経験を話したがった。私の患者たちは自己について何ごとかをプロザックに教えられたと口をそろえて言う。サムと同じように、プロザックは体内の何が生物学的に決定され、何が経験から得たものかを明らかにしてくれたと患者たちは思っていた。/(/は原文改行を示す)私はこの現象を「プロザックに耳を傾けること」と表現した。考え直してみると、実は私自身がいつしかプロザックに熱心に耳を傾けるようになっていたのだった。プロザックに反応した患者たちと過ごすうちに、人の性格ないし個性の源についての私の見解は変わっていった。かつては、経験の積み重ねによって次第に身につけたものと思っていたのが、生物学的に決定された生まれつきの気質だと見るようになった。自尊心がどのように保たれるか、人間関係において「敏感性」がどのように働くか、また、社交術がどのように使われるかについても、私は別の見方をするようになった。用心深く引っ込み思案になって不器用な暮らしかたをしている患者が、薬物治療によって実に柔軟な態度で積極的に活躍するのを見て、西欧社会ではある社交形式が他に比べてよしとされているとの印象を私はますます強くした。私はこうした問題を考え抜いたわけではない、ただ、投薬によって人々が新しい行動様式を得るのを繰り返し観察した経験が、常日頃の私の世界観に大きな影響を与えた。
 クレイマーによるとプロザックはある種の過剰な「敏感性」=傷つきやすさ(sensitivity)を緩和する。つまり、人から受け入れられないのではないかという不安、また受け入れられなかったことへのうずく痛み、すなわち「拒絶や喪失に対する敏感性」(sensitivity to rejection or loss)である。この「敏感性」をほうっておくと症状が悪化し、鬱病になる。あるいは完全性を求めて不安にかられる強迫性障害(OCD)が深まる場合もある。プロザックは従来の基準ではまだ病的と診断されるほどでもない、この「拒絶=敏感性」(rejection-sensitivity)に顕著な効果を現す。拒絶されたり、無視されたりして孤独に沈み、その穴ぼこから出られなくなり、人前でも不安を振り払えない引っ込み思案の人々が、プロザックの服用により明るく大胆になり、元気に振る舞えるようになる。結果として人間関係が改善し、生活全体がガラリとよい方向に転じていくこともある。
 従来の抗鬱剤との違いは、副作用が少ないことである。抗鬱剤は1950年代から使用されるようになり、イプロニアジド(マルシリド)やイミプラミン(トフラニル)が初期のものである。だが、これらの薬品は鬱状態を改善する一方で、さまざまな副作用をもたらす。ところがプロザックは神経伝達物質の再生アミンのうち、セロトニンだけに作用し、軽い鬱状態の気分調整に限定的に機能する薬剤として開発作成された。副作用が少なく医師にも本人にも効果が読みやすいのが特徴である。一方、この薬は重い鬱病にはあまり効果を現さない。むしろ鬱病に陥るかもしれない前駆的状態の人、病的とは言えないが気後れしたり、落ち込んだりして社会生活上のロスをこうむっている人の気分を変え、元気にする効果がある。
 ところが当初はそれほど期待されなかったこの薬が発売されると、たいへんな反響をよぶことになった。「拒絶や喪失に対する敏感性」で悩む多くの人々がこの薬によって幸福へと近づいたと感じたのだ。この薬が効果をもつ「症状」は、従来ならできるだけ薬は使わず、心理療法(精神療法)で処理するのが適当と考えられてきたような精神科医学にとっては周辺的な領域だった。精神分析やその他の心理療法のように、クライエントの生い立ちや経験を聞いて悩みを理解し、考え方の転換を導き出して好転させるのが本来の立ち直りで、薬物はそれを手助けする程度にとどめるべきものと考えられてきた。だが、プロザックを用いれば、クライエント自らが、自律的な機能をもつ生理作用を薬物で調整し、気分を好ましい状態にもっていくことができる。これは複雑な心理療法の問題ではなく、化学反応による生理作用の統御、調整の問題として理解できるだろう。
 この薬は「気分明朗剤(mood brighteners)」ともよべる。コカインやアンフェタミンなどの気分高揚剤罪(mood elevators)のように舞い上がりや副作用を及ぼすことなく、病的とは言えない程度の抑鬱気分を明るくする。飲み続けていけば、その人は罪意識や不安や孤独感によるへこみ、落ち込みから何ほどか解放されるだろう。使用者は「情動耐性(affect tolerance)」が増す。つまりストレスに耐えることができるパーソナリティに変わっていく。現代社会ではこのような性格が有利である。現代欧米社会でフェミニズムが求めているものとプロザックが提供するものには類似点がある。控えめで他者への奉仕を好む女性よりも、しっかりと自己主張をしながら陽気に楽しみ、頭の回転が速くて不安にかられることなく物事をテキパキと処理していく、そういう女性が成功するが、プロザックはそのような性格になるのを可能にするのだ。
 自己主張的で陽気で活発であり、罪意識や不安や孤独感に悩まされないような性格を薬物で引き寄せることができる。病的とまでは言えない人にとくに効果がある。副作用がないとまで言えないが、それほどの悪い副作用はまだ出ていない(ここは論議のあるところだが、クレイマーの見解はこうだ)。「安全性」という点での問題は少ない。だが、これは治療と言えるだろうか。「治療を超えた」医療、増進的介入の性格が強い医療と言わなければならない。このことに何か倫理的にマイナスの意義があるだろうか。医師はこのような「気分明朗剤」を処方することに良心の痛みを感じないだろうか。
 クレイマーは自らこの問題に悩んだと述べている。美容精神薬理学(cosmetic psychopharmacology)、あるいは薬理学的自己実現とよべるようなものが、医師として許されるのかという問いだ。しかし、長い間、心理療法では別に病気ではない人を治療することが認められて来た。それによって性格が変わるクライエントもいるだろう。薬理学的ということで、とくにとがめられる理由が生ずるのだろうか。また、薬物がもたらす「気分高揚(hyperthimia)」が現代の競争社会にうまく合った特定の性格特徴だという最近の科学的知見もあり、それは確かに倫理的問題でもある。「気分高揚」の人は楽天的で、決断力があり、考えが素早く、カリスマ的で、エネルギッシュで自信にあふれている。プロザックの使用はこういう性格を増やすことにつながるが、そのことに問題はないか。だが、クレイマーにとってもっとも重要なのは、そもそもある人物が自ら自身であるという意識(personhood)を変えてしまう医療は妥当なのかという問いだった。その人の人生を通して苦しめてきた精神的問題が、生物学的に解決したとすれば、責任とか自由意志とか社会の中で形作られた「その人らしさ」といった、私たちの人間観や道徳観の根幹が変わってしまうのではないか。
 結局、クレイマーはこれらの疑問符を退ける。こうした問題があったとしても、悩んでいる人々にプロザックを処方して、援助の手をさしのべることを妨げるほどのものではないと判断する。そのもっとも重要な根拠は、新しい精神薬理学により私たちが生物学的決定論に近づかざるをえないという点に求められる。「プロザックに耳を傾ける」経験を通して、私たちの人間観道徳観が大きく変容せざるをえない。その新たな人間観道徳観に基づいて判断するなら、精神薬理学的な増進的介入は容認できるものではないか。これがクレイマーの結論である。
3. 慎重論の論拠
 では、プロザックの使用のような医療の増進的介入に反対する人々は、どのような論拠に基づいて反対しているのか。ここではまず、慎重論の立場をとるアメリカ政府の生命倫理委員会の見解を紹介したい。レオン・カスが主導するブッシュ大統領の下の生命倫理委員会の報告書『治療を超えて』に述べられているものである。第1節でもふれたように、「幸せな魂」の章は、「記憶」の操作と「気分」の操作の二つをとりあげている。前者はトラウマとなった記憶を消去するような医療技術について論じている。これは倫理的な問題としてはたいへん意義深いものだが、スペースの都合上、ここでの議論は気分操作の問題に限定したい。
 『治療を超えて』は「幸せな魂」の生命倫理を論じるにあたって、まず「幸せとは何か」という大きな問題から議論を始めている。座長であるカスらの意見では、幸せにとって「あなたは何者か」というアイデンティティの問題、あるいは人格の問題が重要だという(p.211)。その幸せが一時的な高揚感にとどまらず、あなたの一生にとっての幸せであるかどうか。また、得られた「幸せ」が真実のものであるかどうか。つまり、それにふさわしい行為を介さないで得られたまがい物でないかどうかが問われる。さもなければ、快楽や満足や喜びと真の幸福が混同されてしまうだろう。真の幸福は十全な主体性をもった人格が、自ら担おうとする愛や責任と切り離せないものなのだ。
  第一に、チェックを受けずに記憶を消すこと、気分を明るくすること、また、私たち自身の情緒的な傾向を変えてしまうことは、強く、首尾一貫した人格的アイデンティティを形成する私たちの能力を掘り崩しかねない。私たちの内的生活が日常的経験の浮き沈みを反映しないものになり、それとは別に展開するものになればなるほど、私たちは自らのアイデンティティを消散してしまうことになる。私たちの生活は他者と関わり合い、日常茶飯事と予想できない事柄の混合物に身を浸すことから成り立っている。この過程で次第にアイデンティティは創られていくものだが、そのアイデンティティが消散してしまうのだ。
第二に、新しい薬品が記憶や気分を行為や経験と切り離してしまえば、私たちはいかにして生きるか、何を感じるのかについて、真実であり現実にかなっていることが難しくなるだろう。とりわけ自らの人生の、また他者の人生の限界や不完全性に責任をもって、かつ尊厳ある態度で向き合うことができなくなってしまいかねない。人間の生はもろくはかないものであり、幸福を追求し、他者への愛とともに生きていけば、失敗や苦悩は避けがたいものである。そうした真実を学び、挫折や不安や悲しみは人間の生が不可避的にはらんでいるものであることを、適切な自省によってしっかりと知ることができるはずだ。ところが増進的介入によって、挫折や不安や悲しみは治療すべき病気であるかのように、いつかは撲滅されるだろうもののごとくに扱われることになる。人間の幸福の核心には他者と結びつきながら、追求していく行為のプロセスがある。満足や快楽や喜びはそうしたプロセスと切り離せないものであり、人間生活の豊かさの反映であることを学びとっていくことこそその人を形作るものであろう。ところが増進的介入は満足や快楽や喜びが目的そのものであり、一日のうちに我がものにできるかのように考えるように促されることになる。(p.213)
 増進的介入は、(1)その人が何者であるかというアイデンティティを危うくさせるとともに、(2)その人を人生の真実から切り離してしまい十全な人格を失わせてしまう。これが「幸福な魂」の増進的介入に反対する『治療を超えて』の主張の要点である。
プロザックなどのSSRI(選択的セロトニン取り込み阻害薬)による気分の操作の是非のみに焦点を合わせた、後半部分についてさらに見ていこう。『治療を超えて』は6点にわたって、SSRIがもたらす倫理的マイナス作用をあげている。スペースに限りがあるので、無理を承知で要約しよう。?SSRIによって人が得たものは、真実とは異なる何かである。薬物を通して得た自己は真実の自己ではない。?薬物は真実の世界の深さから人を隔ててしまう。苦しみや悲しみの深さから隔てられることは、愛や共感の深さからも遠ざかることになりかねない。?困難や不満足からこそ、向上への意欲もわく。否定的な経験からこそ、深い意味での知恵や強さや共感力も生ずる。?人間の自己理解が医療化される。生理的な作用や遺伝子を通して自己を理解するようになり、医師がよき生活を管理することになる。?生き甲斐あるよい人生(human flourishing、すなわちアリストテレスの「エウダイモニア」)は「快」からのみ得られるのではない。行為や経験において養われた徳こそが人生を真に豊かにする。SSRIはよき人間生活の根源を見失わせかねない。?SSRIは人々が自己の内側に閉じこもったり、皆が明るい気分をもつのがノーマルとされる社会を引き寄せるかもしれない。どちらも自由を尊ぶ社会が達成してきたものを脅かしかねない。
 このように『治療を超えて』は、気分明朗剤による増進的介入の倫理的問題につき、多面的に論じており、今後の議論のための多くのヒントを提供しており豊かである。だが、そこでの強調点は、自律的な自己が弱められるのではないか、個々人の主体性が失われるのではないかという点に集約される。つまりは、真の現実から離れて薬で作られた自己に安住しようとすること、そして、自由社会に求められる責任ある主体的自己が見失われてしまうこと――ここにこそ気分明朗剤による増進的介入の倫理問題の核心があると主張されている。
4.自律と主体性という論点を超えて
 クレイマーの『プロザックに耳を傾ける』は、プロザックが使用者の自律性を弱め、人生の深みから遠ざけるという批判に対して、かなりのスペースをさいて反論を展開している。プロザックは快楽の状態を手軽に求める方法であり、人を自律的な行為から遠ざけるとされるが、むしろプロザックを使用することによって、より自律的に行為する力を得ることの方が多い。プロザックはマリワナやLSDとは異なり、自己陶酔をもたらして自閉化させてしまう薬物とはまったく異なる。それは人を活動的かつ社交的にし、適切な社会性を獲得するのを助けてくれる。このように「プロザックは快楽を間接的に与えてくれる。つまり、ふつうの社会的交流を楽しみ、社交を妨げる障壁を低くしてくれる。だから、プロザックは人間の自律を強めてくれるというのが、私の印象である」(p.265)。
 増進的介入は医療の力を借りて自由を得ようとすることなので、個々人の物質と医療技術とシステムへの依存をもたらし、実は市民の自由を奪うことになるという論点がある。『治療を超えて』においてもこの論点が主調をなしていた。この論点が一定の妥当性をもつことは確かだろう。自律(autonomy)や主体性(agency)や自己一貫性(integrity)の価値はアメリカ主導の生命倫理の議論においては、常に主要な判断基準の一つとして重んじられてきた。だが、この論点が増進的介入の限界を見定めようとする際の、主調となるべきものであるかどうかについては大いに問題がある。増進的介入の中にはその受益者の主体性を増進させようとするものが少なくないからだ。プロザックのようなSSRIはまさにそうした薬物の代表的なものである。
 そもそも医療技術は、科学の力によって受益者の生活能力を高めることを目指してきた。中でも精神科医療は、心理的な次元で自律や主体性を回復することを主要な目標の一つとしてきた。心理療法(精神療法)の目標の中でも自律は大きな位置を占めてきたはずである。だからこそ、心理療法は近代的な医療理念、ケアの理念の中に一定の位置を占めることができたのである。ところが、プロザックのような薬物は心理療法が果たしてきた機能のかなりの部分を、薬物療法で代替できることを示した。クレイマーはそう主張している。プロザックが自意識的、心理的な次元での自己や主体性の拡充という目標にかなっているという評価には、それなりの妥当性があるのではなかろうか。
 では、プロザックのような気分明朗剤における増進的介入の主要な限界はどこにあると見るべきなのだろうか。今日の生命科学と先端医療技術は人間の理性の心身に対する支配力を格段に強化することを目指している。しかも市民は競争社会のもとで自己の心身を統御して効率性の要求に応じるべく、強度のストレスに見舞われている。医療を媒介として人間は人間自身の自律性主体性を強化することを追求し、その度合いがはなはだしさを増しているのだ。増進的介入の倫理的問題のかなりの部分は、自己や主体性の弱体化にではなく、むしろ強い自己や主体性の過剰な追求に見るべきではないか。
 近代的な自己拡張や主体性追求が見逃してきた生命の価値にこそ増進的介入の倫理的問題の核心があるという見方は(8) 、プロザックの使用の限界を考える際にも有効だろう。私たちは身体の苦難をできる限り退け、快や満足を増進することによっても生命の価値を得るが、思いがけない不運に見舞われ、痛みや苦難を免れがたい(vulnerability)ことから、もっと重く基本的な生命の価値を感得すると思われる (9)。招き寄せるのではなく訪れてくるものに開かれてあること、与えられたものによってこそ生きていること(giftedness)を知り、そしてそれを喜びをもって受け入れることにこそ善き生の要諦があるという考え方も広く分けもたれている(10) 。自己の彼方から訪れる生命の恵みの感受力は、痛みの経験と切り離しがたい。また、痛みを免れがたいことの経験は、他者の痛みや苦難に対する慈悲共感の念を育てる。それは謙虚さや責任感や連帯意識の源泉となるものである。そこに善き生活を形作る共同性の基礎が育まれる。
 『治療を超えて』ではこのような論点を中心的な論点としていないが、そこここにその片鱗は含まれている。気分の操作の問題を論じる際にも、痛みや悲しみこそが生命の価値の源泉ともなること、とりわけ愛や共感の基礎になることが注目されていた(論点??)。また、どのような社会的波及効果があるかについて、慎重に考慮すべきであることにも注意が促されていた。世代を超えて苦難と共同行為の記憶を伝えること、痛みからこそ学びうると知ること、共感力を育成すること、人類社会の連帯の基礎を守ること――こうした生命の価値にとって、増進的介入医療はどのような影響をもたらすだろうか。たとえば、SSRIの乱用がもたらす社会的影響は慎重に検討されるべきであるが、そのような学問的企てはほとんど進んでいない。『治療を超えて』では自己の統合(integrity)や主体性(agency)が脅かされるという点に力点が置かれたために、以上のような諸論点が背景に沈むことになった。
 このように考えると、プロザック等のSSRIの使用の是非は、クレイマーがほのめかすほど楽観的に判断することはできないだろう。明らかに病気である場合に使用が許されるとしても、それを超えて用いることが許されるのか、許されるとすればどのような場合なのか、なお慎重に検討されるべきである。個々の使用者の自律と主体性が増大するかどうかに注目するのであれば、それと同時に、周囲の人々との、また痛み苦しむ人々への慈悲共感の力がどのように変転するのかも探求されるべきだろう。また、訪れるものを喜びをもって受け入れる力が養われていくのかどうか、痛みをもって他者に向き合う姿勢が失われていないかどうかも見定められるべきであろう。そして、このような生命の価値の観点から見て、薬品の普及がもたらす社会的・文化的影響がどのようなものであるかも丁寧に調査、検討される必要があろう。従来の医学ではカヴァーできない学問的探求に力を入れなくてはならない。
 この稿では気分操作の問題を例に選んで、増進的介入の是非や限度について考える際、考慮すべき論点の一部に光をあてて来た。だが、気分操作という論題についても、ごく限定された論点を取り上げたに過ぎない。さまざまな他の形の増進的介入について考える際には、さらに多面的な倫理的考察が求められることは言うまでもない。

(1) 増進的介入について概観できる論文と書物に以下のものがある。松田純「人体改造――増進的介入(エンハンスメント)と〈人間の弱さ〉の価値」、同『遺伝子技術の進展と人間の未来――ドイツ生命環境倫理に学ぶ』知泉書館、2005年、所収。Eric T. Juengst, ”Enhancement Uses of Medical Technology,” Stephen G. Post et al eds., Encyclopedia of Bioethics, 3rd ed., 2004, Eric Parens ed., Enhancing Human Traits: Ethical and Social Implications, Georgetown University Press, 1998。なお、「増進的介入」の訳語は松田氏の訳に従っている。
(2)リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』(東江一紀他訳)翔泳社、1998年(Lee M. Silver, Remaking Eden: How Genetic Engineering and Cloning Will Transform the American Family, Avon Books, 1997)、グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変する――遺伝子工学の最前線から』(垂水雄二訳)早川書房、2003年(Gregory Stock, Redesigning Humans: Chosing Our Children’s Genes, Houghton Mifflin Company, 2002) 。
(3)フランシス・フクヤマ『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』(鈴木淑美訳)ダイヤモンド社、2002年 (Francis Fukuyama, Our Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution, Farrar, Straus & Giroux, 2002)、ユルゲン・ハーバーマス『人間の将来とバイオエシックス』(三島憲一訳)法政大学出版局、2004年 (Jürgen Habermas, Die Zukunft der Menschlichen Natur: Auf dem Weg zu einer liberalen Eugenik?, Suhrkamp, 2001)。
(4)The President Council on Bioethics, Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness, Regan Books, 2003.
(5)The President Council on Bioethics, Human Cloning and Human Dignity:An Ethical Inquiry, 2002.
(6)Sheila M. Rothman and David J. Rothman, The Pursuit of Perfection: The Promise and Perils of Medical Enhancement, Pantheon Books, 2003
(7)ピーター・クレイマー『驚異の脳内薬品――鬱に勝つ超特効薬』(堀たほ子訳)同朋舎、1997年 (Peter D. Kramer, Listening to Prozacf, Viking Penguin, 1993)。引用はおおよそ訳書に従ったが、文脈上、拙訳をあてた部分がある。
(8)島薗進「生命の価値と宗教文化――生命科学技術と生命倫理をめぐる文化交渉の必要性―」『死生学研究』第5号、2005年春号。
(9)Gerald P. McKenny, “Enhancements and the Ethical Significance of Vulnerability,” in Erik Parens, op.cit.
(10)Michael J. Sandel, “The Case against Perfection: What’s Wrong with Designer Children, Bionic Athletes, and Genetic Engineering,” The Atlantic Monthly, April 2004.

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1 Response to 増進的介入と生命の価値――気分操作を例として

  1. 葛西 のコメント:

    『生命の始まりの生命倫理』、読ませていただきました。脳死臓器移植を議論した段階から、さらに問題がやっかいで微妙なものとなってきた状況のなかで、国が提案した議論に関わった当事者として、その問題性と経緯を丁寧に書かれた本でした。関連サイトへのアドレスなどがあり、教科書的な使い方が出来ると思います。また、個人的には、巻末付録にある文書の文体や図の書き方など細部が、非常に興味深く思いました。本の紹介も是非島薗進先生によって書かれたものが読みたいです。よろしくお願い申しあげます。

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