宗教研究の現在と東アジアの視座――戦死者追悼問題と国家神道の概念を手がかりとして――

篠田知和基編『神話・象徴・文化』楽浪書院、2005年8月、591−608ページ


一、「新しい追悼施設」と宗教界の反応
 この稿では、比較神話学と隣り合わせにある学問である宗教学を学んで来た立場から、東アジアという地域枠の中での比較宗教研究(宗教学)の現代的役割について考えたい。今日の世界の宗教学の現状を展望しつつ、東アジアの宗教学の役割に焦点をあてようと思う。
 東アジアの宗教学の役割を考える時には、まず、欧米を中心として進んできた宗教学に対して、東アジアの宗教が共通にもっている特徴をまず示して、新たな問いを投げかけていくという立場も考えられる。文明の衝突や文明間の対話という言葉が意義をもつとされる現代においては、東アジアと他の地域との異質性や価値観の相克に注目する視座が重要とであることは言うまでもない。私自身もそのような視座に大きな可能性があると考えており、この論考の後半ではそうした観点から話を進めるつもりである。
 だが、やや視点を変えて東アジアの内部での異質性や相克に注目するというやり方も考えられよう。グローバルな広がりの中で見れば共通点の多い東アジア諸国だが、相互の相違や対立も小さくない。宗教学においても、むしろそうした相違や対立に関わる問題を取り上げて、内部での対話を深めながら、世界の宗教学に貢献する道を考えてはどうだろうか。
 そこで、ここではまず、韓国や中国と日本の間で相互理解がたいへん難しい問題である、戦死者の追悼の問題について取り上げてみよう。一九七五年八月一五日に日本の三木首相が靖国神社に参拝して以来、歴代の首相は靖国神社に参拝するかどうか難しい決断に迫られてきた。日本の国民の中には、参拝は首相の当然の責務だと考える人々が少なくないが、国内にも根強い反対派がいる。加えて、次第に中国や韓国から厳しい批判の声が上げられるようになり、国際問題としての側面が重くなってきているからだ。
 自らは靖国神社参拝に積極的な姿勢を示してきた小泉首相は、当初は敗戦の記念日であり、戦死者の追悼にふさわしい八月一五日前後に参拝する姿勢を示し、二〇〇一年には八月一三日にそれを実行に移した。しかし、国内外の批判、とりわけ韓国、中国からの批判が厳しいことを知ると、自らの靖国神社参拝の日取りを八月一五日前後以外の時期に変える一方、二〇〇一年一二月には福田内閣官房長官の下に「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(追悼懇)を設け、「新しい追悼施設」の建設に向けて学識経験者らによる討議を行わせた。
 追悼懇の討議の結果は、二〇〇二年一二月に「報告書」としてまとめられたが、そこでは「新しい追悼施設」を設けるべきことが積極的に打ち出されている 。では、「新しい追悼施設」とはどのようなものだろうか。報告書によると追悼懇はその目標として、「誰もがわだかまりなく平和を祈念できる国立の戦没者追悼施設」を掲げていた。第二次世界大戦の死者に対してわだかまりなく公的に追悼を行う施設が欠如しているという認識が前提にある。また、戦争による悲惨な経験を踏まえ、不戦の誓いを新たにし、平和を祈念する施設を作る必要があると強調してもいる。後者については、グローバル化の進展や戦争を知らない若い世代の増加を受けて、国家として平和への誓いを国内外に発信すべきだと述べている。だが、また国家として歴史についての解釈を一義的に定めることはせず、国民による多様な解釈を保障する責務があるとも述べている。
 今ひとつ重要なのは、新たに作られるものは「無宗教」の施設であるべきだとしていることである。「無宗教」というのは宗教性を排除するということで、それは憲法の政教分離原則を尊重すべきだという理由によるという。また、追悼の対象については、次のように規定している 。
(1) 明治維新以降に日本の係わった戦争における死没者。戦後の防衛活動・平和維持活動での死没者。
(2) 民間人も外国人も含まれる。
(3) 死没者一般が追悼の対象となり得るというにとどまり、具体的な個々の人間が追悼の対象に含まれているか否かを問う性格のものではない。
(1)では、戦後の死没者のうち対象とされるのは、「防衛活動・平和維持活動」に関わって死んだ者となるが、これは現在の憲法では戦争を放棄しているので、戦争による死者はありえないという前提に立っている。これによれば、今後、日本の平和を脅かす行為を行って死んだ者は追悼の対象とされないことになる。あやしい外国船が国境を脅かして撃ち合いとなり、相手側に射殺者が出た場合などは除外されるのである。一方、(2)の規定は、靖国神社では兵士や軍隊関係者のみが神として祀られることになったことを念頭に置いている。外国人という場合、アジア諸国やアメリカなど連合国軍の死者も含まれることになり、敵味方を問わず追悼するという理念が入る余地があるものとなっている。(3)の規定は、靖国神社や沖縄戦の死者を追悼する「平和の礎(いしじ)」では、個々の死者の名前が記録されているのに対し、「新しい追悼施設」では名前が分からない多数の人々をも対象とすることを示している。
 この「新しい追悼施設」に対して宗教界はどのように応答したか。賛成の立場を表明した宗教教団は創価学会などごくわずかにとどまった。キリスト教や伝統仏教の中では、賛否が分かれている。賛成する人々は、靖国神社は公的な追悼施設にすることができない、あるいはすべきでなく、国家はそれにかわって公的に戦死者を追悼する別の施設をもつ方がよいとするものである。他方、これに反対する宗教教団や宗教者も多かった。その理由は大きく二つに分かれる。一つは神社神道に代表される靖国神社支持派があげるもので、すでに靖国神社というものがあるのに、あらためて似たような目的をもつ追悼施設を設ける必要はない、むしろ靖国神社への首相の公式参拝を進めることで、靖国神社の公的機能を高めていくべきだとする。もう一つは、多くの伝統仏教教団、新宗教教団の立場で、キリスト教徒の一部も支持している。それによると新しい追悼施設は今後、戦争や紛争で死亡する兵士を国家が顕彰する新たな施設となる可能性があり、戦死者を国家が美化して戦争を正当化する可能性をもつもので好ましくないとする 。「新たな靖国」だとして警戒する人もいる。また、「無宗教」の施設とするという理念に対して納得できないという意見も多い。これは「特定宗派によらない」とすべきであって、死者に対して追悼の好意を行う施設について宗教性を排除するような表現は好ましくないとするものである。
 この問題は政治的な動機が深くからみあっており、東アジアの政治史に関わる問題として論じることもできるだろう。だが、ここには宗教史も深く関わっており、宗教学の立場から考察すべき事柄も少なくない。以下では、そのような考察の一端を示して、世界の中での東アジアの宗教学の課題と役割にまで話を展開していきたい。
 
二、戦死者の追悼をめぐって
 靖国神社こそ日本の伝統にのっとった戦死者の慰霊・追悼の施設であり、この施設に公的な機能を与えるのが好ましいという考え方がある 。国内でこの立場に対する防波堤となっているのは、憲法の信教の自由と政教分離の規定である。靖国神社は神道という特定の宗教伝統を背負ったものであり、国家が靖国神社に関わることは特定の宗教団体に対して肩入れをしてはならないという憲法の規定に反するという立場からの抵抗である。
 これに対して、靖国支持派は世界各国を見ても、絶対的な政教分離という例は少なく、国家が関わる追悼に特定宗教が一定の役割を与えられることは少なくないとする。そうだとすれば、日本の場合、財政支援などは許されないとしても、首相の公式参拝ぐらいなら許されるのではないか。そのようなことまで禁じてしまえば、公的な次元から精神的な価値、伝統的な価値をすべて剥奪してしまうことになると論じられる。この論点をめぐる両派の対立を反映した裁判がいくつも起こされている。
 信教の自由と政教分離の問題は後でふれるとして、まず靖国神社の戦死者追悼のあり方がほんとうに日本の伝統的な追悼のあり方にのっとったものであるかどうかという点をめぐる論議について述べよう。日本の宗教史に通じた多くの論者は、靖国神社のように味方の死者だけを慰霊するやり方は近代になって作り出されたものであり、伝統的な慰霊の精神とは異なるという 。伝統的には味方の死者の霊を尊ぶとともに、敵方の死者を慰霊するという例が多い。一三世紀に蒙古が北九州に押し寄せ、多数の死者が出た時は敵兵の霊を弔ったし、一六三七年に徳川幕府が制圧した島原の乱の際もキリシタン一揆側の霊を祀った。これに対して、靖国神社は明治維新の変革に際して、天皇側に立って戦って死んだ兵士のみを祀り、敵方の死者はまったく顧慮しないというやり方で一八六九年に設立された東京招魂社が一八七九年に改称されたものである。国家のために戦ったと信じていても、天皇側につかなかった者は慰霊に値しないものと見なされている。日清戦争や日露戦争のように他国と戦うようになると、敵側の死者はまったく顧慮されなくなった。
 仏教の立場からは、かつての日本の戦争にまつわる慰霊は仏教の「怨親平等」の観念にのっとっていたとする。「怨親平等」とは「戦場で死んだ敵味方の死者の霊を供養し、恩讐を越えて平等に極楽往生させること」 とされる。だが、このような慰霊のあり方は仏教よりもっと理念化の度合いの低い民俗宗教の次元の信仰と関連づけて理解する必要もあるだろう。日本では古代以来、不幸な死に方をした人物、とりわけ政敵に滅ぼされた政治家や武人の霊の祟りを恐れる信仰が強かった。一〇世紀になると恐れられた霊を鎮めたり、さらには神として尊ぶという「御霊信仰」が成立し、その後、あらゆる階層の人々に強い影響を及ぼすようになる。祟る霊を鎮める信仰や御霊信仰は仏教によって排除されるのではなく、仏教はむしろそれを保存し助長したとも言える。
 このように敵の死霊を恐れて祀るという伝統は、日本の宗教史の中できわめて大きな位置を占めて今日に至っている 。だが、これは日本に固有の信仰だろうか。むしろこれは東アジアに共通の死霊をめぐる信仰パターンの一つであり、その日本的な現れと見るべきではなかろうか。たとえば韓国で「恨」とよばれる観念は、「死霊を恐れて祀る」という信仰伝統と通じるところはないだろうか。
 東アジアでは深刻な争いや葛藤という人間世界の悪を、はらすことのできない思いを抱いて死んだ死者の霊に託して考えるという宗教伝統が共有されている。これはそもそも死者を身近に感じ、死者とともに生きるという感覚を強くもった文化ということが基礎にある。日本では先祖は必ずしも恐れられる霊ではなく、むしろ安定した地位をもってこの世を守護する霊として観念されることが多い。だが、そのような守護の祖霊とともに不幸な死に方をして、多くの思いをこの世に残した死者を恐れ尊ぶという信仰も根強いのである。
 このことに関わって、仏教や新宗教の教団に属するいくつかの教団の人々が、靖国神社ではなく千鳥ヶ淵戦没者墓苑を尊び、こちらの施設をこそ公的な施設として重視すべきだと論じていることは注目すべきことである。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は一九五〇年代に、海外に残された日本の兵士等の遺骨を集める活動が活発になるにつれ、誰のものかわからぬ遺骨を葬る施設が必要となって一九五九年に竣工した国立施設である。その後、宗教界の中には第二次世界大戦の死者を追悼する行事をこの施設で行うようになった団体が少なくない。靖国神社よりも千鳥ヶ淵戦没者墓苑の方が、日本の戦死者追悼の伝統になじむものだと感じている人が多数いることは注目してよい。
 では、千鳥ヶ淵戦没者墓苑と靖国神社の戦死者追悼はどう異なるのだろうか。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は苦しい状況の中で戦死し、その遺体を葬ることさえできなかった死者たちの霊を慰める施設として形成され、そこでこそ戦死者の全体を弔おうとする人々に尊ばれてきた。それに対して、靖国神社は近代国家のために貢献し、りっぱな功績をあげた死者を顕彰する施設として成立し、発展してきた。そして国家への貢献が強調されるというのは、世界の近代国家の、とりわけ二〇世紀の戦死者の慰霊に広く見られるパターンである 。靖国神社は日本の宗教伝統にではなく、むしろ世界的な共通性をもつ近代国家の死者追悼に似ているとも考えることができるのである。
 二一世紀に入った今日、世界は近代国民国家の形成とともに作り上げられてきた「創られた伝統」を相対化し、あらためて地域住民の多様な文化を反映した新たな共同性を産み出すという難しい課題に直面している。東アジアの死者追悼、また死者記憶の伝統はどのようなものであったか、また日本の死者追悼、死者記憶の文化はその中でどのような特徴をもったものなのかという問いが浮上してきているのは、このような文脈の中でのことである。
 そうであるとすれば、日本の「新しい追悼施設」をめぐる討議は、近代のナショナリズムと結びついた戦争と追悼の文化のあり方を考え直すとともに、東アジアやその中の各地域の過去の戦争と追悼、また、広く死者記憶をめぐる文化を、また死霊をめぐる観念や実践のあり方を考え直すという課題を宗教学者に課しているとも言えるだろう。 
三、国家神道と靖国神社
 靖国神社で日本の公的な戦死者追悼行事を行うことに異論があるとすれば、それはどういう理由によるものなのだろうか。近代のナショナリズムとの関わりやより古い時代からの伝統的な死者慰霊の文化との関わりというのも、一つの論拠である。靖国神社こそ日本の伝統にのっとった戦死者慰霊の施設であるという議論の妥当性が失われるからである。また、靖国神社にはA級戦犯が祀られており、そのような施設が公的な地位をもつことは、日本が一九世紀末以来のアジア各地の植民地化や侵略を是認していることになるという理由もあげられる。韓国や中国で日本の首相が靖国神社に公式参拝することが批判される際には、この理由が大きな位置を占めてきている。
 日本の国内には、靖国神社の本社から神として祀られているA級戦犯の霊を除去し、別の場所に祀ることによって、アジア諸国からの批判をかわそうとする考えもあり、支持者も少なくない。しかし、靖国神社側はいったん祭神として祀られた戦死者の霊を、政治的な理由によって除外するというような行為は、宗教者としてとても認められることではないという態度である。他方、靖国神社への国家関与に批判的な人々も、A級戦犯を除外した靖国神社に首相が堂々と公式参拝するようなことになってしまうのは好ましくないことだと懸念している。これは韓国や中国の市民には少し理解しがたい事情かもしれない。
 日本の国内で首相の靖国神社に反対する人々の論拠はさまざまである。A級戦犯のような戦争責任を負う者が神として祀られているのはよくないというような理由も、もちろん重要な理由の一部となっている。靖国神社を尊ぶことは、アジア諸国への侵略戦争を是認することを意味しており、A級戦犯の合祀はそうした歴史認識をあからさまに認めることだとも考えられる。しかし、日本の多くの住民にとってより重要なのは、戦前の靖国神社がもっていた国家神道の中心的な施設としての機能についての記憶だろう。靖国神社は国民が国家を神聖化する信念体系にいやおうなく方向づけられ、暗い戦争へと引きずり込まれていく際に巨大な役割を果たした。天皇のために自らのいのちを投げ出すことこそ国民の義務であり、それを実践した人々こそ理想的な国民であるという考え方は靖国神社の祭祀と結びついて広められた。
 靖国神社に祀られることを期待し、天皇のためにいのちを投げ出す立場に立って犠牲を払ったと感じる人々、自らに近しい人々が国のために犠牲の死をとげたと信じる家族、またそうした犠牲を尊いと思う人々にとって、靖国神社は今も聖なる施設としての地位を保っている。だが、他方、天皇のためにいのちを投げ出すというような信念や行動が欺瞞的に仕組まれたものであり、多くの国民に犠牲が強制され、日本を誤った海外侵略と戦争に押しやったと考える人々もいる。そうした人々は、靖国神社こそ近代日本人が道を踏み誤るのに貢献した宗教施設の最たるものだと考える。靖国神社に公的な地位を与えることは、このような近代日本国家の誤った歩みを再肯定することであり、国内外においてその犠牲になった人々の思いを顧みないものであり、今後の日本にとっても危うい方向を指し示すものであるとうけとめている。
 この問題が宗教と国家の関わりをめぐる問題であることは言うまでもない。では、宗教と国家の関わりについて、どのような理論や課題意識をもって靖国問題に立ち向かえばよいのだろうか。すでに鮮明な戦争の記憶をもつ人々が少なくなっている今日、新たな世代にとっては、靖国問題はこのような問題として問い返されている。日本国内ではこの問題は信教の自由の理念を焦点として論じられることが多かった。神社参拝を強要された韓国・台湾の人々や、日本の侵略戦争によって多くのいのちを失った中国やアジア諸地域の人々が靖国神社にもつ意識とはやや異なる問題の立て方かもしれない。
 戦前の日本では国家神道が国教的な地位をもっており、それ以外の宗教は従属的な地位に置かれていた。独自の信仰を守ろうとする新宗教やキリスト教の諸教団に対しては厳しい弾圧が加えられたし、妥協的な姿勢をとる諸教団は次第に自ら国家神道になじんでいき、国家神道体制の一翼を甘んじて担うようになっていった。戦前の日本で精神の自由が失われたとすれば、それはこのような信教の自由の剥奪にこそ集約的に現れたと言えるだろう。現代日本においても信教の自由を脅かしかねない国家神道の復活が危惧される。首相の靖国神社への参拝はまさにそうした国家神道の復活の大きな一歩となるだろう。これは浄土真宗など一部の仏教徒やキリスト教徒がとくに強く主張する論点である。
 だが、そもそも国家神道とは何を指すのだろうか。日本の学界ではこのことをめぐり、明確な定説がない状況が続いている 。一方には、国家神道という語を狭く「国家と特別の関係をもっていた戦前の神社群」という意味で用いる人々がいる。この場合、「宗教」とは特定の施設や人的組織をもった集団が基礎となるものと理解され、「神道」もそのような「宗教」の一つと考えられている。しかし、国家神道とは天皇がこの世を治める中心的な神の子孫であり、神の国である日本の精神的指導者であるとする信念やそれをめぐる実践の体系であると広く理解する人々もいる。私は国家神道という語をこの広義で用いるという立場だが、その場合、天皇が行う儀礼や天皇が神聖な存在であることを国民に印象づける行事や言説などは、神社と関わりが薄くても国家神道の重要な要素ということになる。
 広義の国家神道において、神社にもまさるとも劣らぬ重要な役割を果たしたのは小学校である。小学校では天皇が定め、国民の守るべき道徳的教えの根幹を示したとされる教育勅語が神聖な文書として繰り返し唱えられ、暗唱させられただけでなく、聖なる存在として礼拝の対象にさえなった。各学校では教育勅語とともに天皇の肖像も神聖な事物として尊ばれ、火事の際などそれを守るために命を失う教員や職員すらいた。国民の祝祭日は天皇の誕生日を初めとし、天皇家や皇室神道に関わるものが大部分だった。学校での大きな行事の際には、天皇を神聖な存在として讃える歌が歌われ、修身だけでなく、歴史や国語の授業でも天皇の存在を神聖視する内容が多々、含まれていた。
 靖国神社はこのような広義の国家神道において中心的な位置を占める神社の一つである。国家のために犠牲となって死んだ兵士を、天皇が神として祀り、その功績を顕彰する宗教施設だったからである。兵士たちの中には靖国で再会することを約束し合って死んでいく者も多く、遺族は靖国に参拝することで国家のために犠牲となった近親者の喪失の悲しみを、何ほどか償われたと感じたのだった。靖国神社は一九四五年の神道指令によって、一宗教団体に過ぎず、国家との関係を絶つべきものとされた。これによって戦後の日本では、近代国家が戦地に送り出して死んだ戦没兵士の全体を、国家が追悼する施設は失われたのである。それは国家神道が解体されたことの帰結の一部だった。
 だが、広義の国家神道は第二次世界大戦後も完全に廃棄されたとは言えない。天皇が「国民の象徴」として、一定の地位を保ったことはその大きな要因である。天皇をめぐる神道的な儀礼がマスメディアで報道されるとき、日本の市民は国民的行事としての国家神道行事に参与していると言えないこともない。また、靖国神社が廃棄されなかったので、戦死者の追悼に国家がどう関わるかという争点も国家神道の潜在的な一要素として残ることとなった。国家神道を支持する勢力にとっては、靖国問題が象徴的な重要性を持つ宗教施設として存続し続けることになった。この見方をとれば、現代日本は表向き政教分離ではあるが、潜在的に国家神道の要素を保った社会と見ることができるのである。
 では、日本はなぜ、国家神道に身を委ねることになったのか。かくも多くを国家神道につぎこみながら、近代化の道を進むことになったのはなぜだろうか。古代以来の神祇思想の伝統があり、中世以来の仏教からの神道の自立の傾向、さらに一九世紀以来のナショナリズムによって、排外的な神道が次第に地位を高めてきたといちおうは理解することができる。
 広義の国家神道の思想は一九世紀初頭の後期水戸学において確立している 。後期水戸学は朱子学の影響を強く受けながら、そこに日本独自の天皇中心主義的な要素を織り込んで、新たな国家構想を提示しようとした思想運動である。水戸学は儒教を排して純神道的な精神に立ち返るべきだとした国学の影響を受けつつ、「祭政教一致」という理想国家の像を掲げ、西洋の植民地主義勢力に対抗しようとする政治理念を打ち立てたのだった。日本の国家神道の理念は東アジアの新儒教(宋学)的な近世思想の一ヴァリエーションとして成立したと見ることもできる。現代日本で戦死者の追悼の問題が争われるとき、このような伝統を、またこのような伝統を受けて生じた近代史の経験をどのように受けとめるべきなのかという問題が争われているとも言えるのである。
 国家神道の復興を目指す人々は、神道や国家祭祀は宗教ではないという議論に依拠したり、国家神道とは国家と特別な関係をもった神社神道のことであると狭い定義に依拠するなどして、第二次世界大戦までの国家神道や神道の地位を低く見積もろうとする傾向がある 。これは日本の近代宗教史を、また古代以来の宗教史の全体をどのように見通すかという問題と関わっている。「国家神道」とは何かという問いは、言うまでもなく「宗教」とは何か、「神道」とは何か、「神道」は宗教なのか、宗教であるとしてどのような意味で「宗教」なのかといった問いと結びついている。そして、この最後の問いは、儒教は「宗教」なのか、そうであるとしてどのような意味で「宗教」なのかという問いとも深く関連している。
 儒教は「宗教」なのか、そうであるとすればどのような意味で「宗教」なのかという問いは東アジアの宗教学にとって共通の切実な論題だろう。そして、それは東アジアの宗教史の中で儒教、道教、神道、仏教をどう関連づけて理解するかという大きな課題と不可分の関係にある。これらは答えるのが容易でないが、東アジアの宗教史の全体像を描くために避けられない問いである。日本の国家神道をめぐる論争は、とりあえずは日本の特殊な近代宗教史の理解に関わるものである。だが、その背後には日本宗教史における神道、儒教、仏教の関連づけという、日本宗教史の構造的理解への問いがある。そして、それは韓国宗教史や中国宗教史との比較へと発展していくのが自然な問いである。国家神道を深い次元にまで掘り下げて理解するには、広く東アジアの宗教史をどう理解するかという遠大な課題をも意識しておく必要があると言えよう。
四、現代世界の宗教学の課題と東アジアの宗教学の役割
 この稿では、日本の戦死者の追悼をめぐる問題を取り上げながら、そこで論じられている学問的論題が東アジアの宗教学の共通の課題と深く関わっているのではないかという考えを述べてきた。整理して述べると、それらは(1)戦死者の追悼や死者記憶のあり方とその近代的変容について東アジアの視点から問いを投げかけ、新たな比較研究の可能性を展望すること、(2)「宗教」、「儒教」、「神道」、「国家神道」などの概念の内実について問い直し、これらの語の使用法について再検討し、東アジアの宗教史を理解する枠組みを考察して世界宗教史の比較論的考察に寄与することである。
 これらはいずれも容易に解くことができる問題ではないが、東アジアの宗教研究者にとっては広く共有でき、その意義が理解しやすい切実な問いであると思われる。そして、こうした問題への理解が深まることによって、靖国神社問題について日本人も近隣諸国の人々も自己理解・相互理解を深め、相互の立場が齟齬する問題についてより適切な対応をとることができるようになることが望まれる。
 だが、これらはまた、世界の宗教学にとっても重要な論題である。近代宗教学は一九世紀後半の西洋に始まり、西洋の基層的な文化や西洋的な近代の経験を濃厚に反映して発展してきた。二一世紀に入った現在では、西洋以外の文化の観点からの考察の重要性は広く認識され、非西洋文化の視点からの研究成果が一定の影響を及ぼし、西洋的な諸前提が相対化されるようになってきている。しかしそうは言っても、なお西洋的な諸前提の影響は色濃く宿っており、非西洋地域の宗教の解明を進める上でそれが障害になっている場合が少なくない。実は非西洋の視点が十分に反映していないために、西洋文化自身の理解も妨げられていると言えるだろう。
 東アジアの宗教研究から、この壁を突き破っていく努力が求められているのではなかろうか。この稿で取り上げた二つの問題は、そのための練習問題といってもよいかもしれない。
(1)生者同士の横の広がりでの連帯を尊ぶのが普遍主義的な一神教文化の特徴であるとすれば、東アジアの宗教文化の特徴の一つは、時間を超えた死者と生者の連帯を尊び、横の広がりにおける連帯の可能性を限定的に考えるところにあるだろう。そのような宗教文化が、争い合った敵や、はらされぬ思いもった死者に対して、強い思いを寄せるという事実は死や追悼をめぐる世界の宗教史の考察に多くの示唆を与えるものだと思われる。
 フィリップ・アリエスの『死を前にした人間』 は西洋社会を対象としたすぐれた歴史研究で宗教史研究の側面を豊かに含んでいるが、それは人類の「死の歴史」の研究ではない。そこに東アジア的な追悼や死者記憶の観点を組み込み、比較研究がなされれば、どれほど示唆的な追悼・死者記憶の文化の考察ができるようになることだろうか。私たちは世界の諸宗教文化の下での追悼や死者記憶について、いくつも示唆的な業績をもっている。だが、古今東西の歴史を見渡せば、まだまだ多くの研究課題を残している。中でも、現代の戦死者に対する追悼や記憶に関する問題について、東アジアの宗教学から考えていくべき課題は大きい。近代国家が自国の兵士の死を特権化してきたことは妥当なことだったのだろうか。そこに他者を排除する新たな形態が形成されてきたのではないか。ひいては、今後、戦死者に対して、人類はどのような向き合い方をしていくのが望ましいだろうか。現代の社会倫理的な問題に対して、宗教文化の考察を基礎とした応答も求められていると思われる。
 死者の追悼や死者の記憶が社会倫理に関わるのは、戦死者の追悼と記憶の問題にとどまらない。たとえば、水子供養をどのように考えるべきかといった問題も連関した問題である。一九七〇年代以降に日本で急速に広がったこの宗教的実践は、今では韓国や台湾にも広がってきている。この信仰実践が親子の結びつきを重視する伝統文化と、また不幸にも早くいのちを断たれた存在の思いを重んじる文化と関わりがあることは明かである。だが、この実践は妊娠中絶をどのように考えるか、生殖に関わる生命倫理に対して宗教的な態度がどのように関わるかという問題を問い直す手がかりともなるだろう。事実、水子供養について考察することを通して、現代の生命倫理問題を問い直そうとする仕事が、すでにアメリカの学者によってなされている 。この問題はハンス・ヨナスが指摘したような世代間の倫理という問題にも関わっている 。今後、この問題について東アジアの研究者による意義深い貢献を期待するのは自然なことである。
(2)「宗教」(religion)という用語が何を指すのか、不明瞭になって久しい。その一つの理由は、「宗教」という語がキリスト教を背景とした西洋文化の諸前提や歴史的経験をひきずっているためである。儒教や神道は「宗教」であるかどうかというような問いは、儒教や神道そのものの歴史や内的な構造を考えようとしている人にとっては、さほど役に立つとは思えない問いと感じられるだろう。仏教や道教でさえ、「宗教」という語がふさわしいかどうか、疑う論者は少なくない。むしろ「道」や「法」こそ、確かな歴史的背景をもった用語であり、日本でも「仏教」は一九世紀後半になって積極的に使われるようになった用語であり、それ以前は「仏道」や「仏法」の方がふつうに使われる用語だった。これは仏教がまずは「道」や「法」に関わるものと認識されていたことを示している 。
 では、「宗教」という言葉を用いずに東アジアの精神文化史について考察すればよいのだろうか。「道」や「法」という用語を基礎として、東アジアの精神史・文化史を論じる試みが発展していくことは十分ありうることで、それはそれで歓迎すべきことだろう。しかし、かといって「宗教」の語によって範囲を限る精神史、文化史が必要となるわけではない。少なくとも現在までのところ、世界の諸精神史、諸文化史を共通の土俵に載せて考察する際に、「宗教」の語は一定の有効性を示してきた。その蓄積を踏まえて、より広い展望をもった比較研究を広げていこうとする戦略も納得できるものである。ただし、その際に「宗教」概念の見直しが必要となる。
 「宗教」の語が含む西洋的な前提を明るみに出し、他の文明・文化の現象にも使えるような概念へと広げていく試みも可能だろう。イスラム文化の観点から、インド文化の観点から、あるいはアフリカ文化の観点からこうした問いは問われうる。それらと並んで、東アジアの文化という観点からこの問いを深めていく可能性がある。西洋文化に匹敵する長い歴史と蓄積をもつ東アジアの文化から、「宗教」概念の問い直しを行っていくことはとくに豊かな可能性を含んでいると思われるのである。
 私自身はそれを「救済宗教」の概念の問い直しという観点から進めている 。救済宗教という用語は、マックス・ウェーバによって学問的用語として流通するようになったもので、ウェーバー自身が「世界宗教」とよんだり、ロバート・ベラーの「宗教の進化」の議論で「歴史宗教」として特徴づけられ、現在も一定の確かさをもった用語として用いられている 。実は現代用いられている「宗教」という語は、キリスト教に代表される「救済宗教」にもっともよくあてはまるような内容をもっている。この観点に立つと、東アジアにおいて救済宗教とその他の宗教はどのような関係にあったかを問うことによって、「救済宗教」と「宗教」の両者の概念を問い直すとともに、東アジアの宗教史の理解を深めることができるのはないかという展望をもって研究を進めている 。
 日本の戦死者の追悼をめぐる問題は、難しい政治的問題を日本人に、そして東アジア諸地域の住民に課している。それらに真摯に取り組むことは人文社会系の学者の重要な課題の一つだろう。しかし、この問題に宗教学の観点から取り組むことは、同時に世界の現代の宗教学の課題への取り組みに、東アジアから貢献していくことにもつながるだろう。今後、豊かに発展していくことが期待される東アジアの宗教研究の交流が、そうした内容をふんだんに含むものとなることを願っている。

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  1. 真日本主義・政教分離原則

    「そのまんま東国原知事を出演させる「オーラの泉」の危うさ」について
     あるいは、まったく反対に、現在、あるいは近未来の日本は政治や行政や司法の根底となる部分に宗教的、民族文化的な価値観が求められているの…

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