放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(2) ――「リスク認識が劣った日本人」という言説

 政府側に立つ放射線の健康影響の専門家は、年 100mSv以下では健康被害はほぼ無視してよいという発言を繰り返したが、他方、100mSv以下でも健康被害はあり、そのためにできるだけ被曝線量を避けるべきだという科学的知見も多い。楽観論の言説と慎重論の言説が分裂し、両者が向き合って討議する場は設けられない。政府や福島県、あるいは大手メディアは楽観論の専門家に従うよう市民に強いるばかりで、異論に応じる気配はない。しかしまったく無視しきることもできないので、言うことが首尾一貫しない。そのために多くの市民の信頼を失った。結局、放射線の健康影響については何が真実か分からないで、混乱が続いているというのが現状だ。だが、政府側の専門家たちは、それは市民が放射線のリスクについてよく理解できないためだと、市民の側に非があるかのように見なすのを常とする。
 山下俊一氏が拠点リーダーを務めた長崎大学グローバルCOEプログラム「放射線健康リスク制御国際戦略拠点」が2012年3月に刊行した『福島原発事故――内部被ばくの真実』の山下氏による「序」については(1)で紹介したが、この書物の編者であり、放射線の健康影響の疫学的研究の専門家である柴田義貞氏の「福島第一原発事故一周年に寄せて――あとがき」を見てみようp203-4。
 柴田氏は「福島第一原子力発電所の事故は日本人の精神構造を改めて明らかにしたと言えないでしょうか」と述べる。「第一は、歴史に学ぶ姿勢に欠けるということです。政府による避難区域の設定は、政府の関係者がチェルノブイリ原発事故の教訓をほとんど学んでいなかったことを示しています。」情報が提示されなかったために、かえって線量の高い地域に移動してしまった人が多数出た。これは政府批判だが、専門が異なる分野については暗に政府寄りの専門家を批判している。専門家が批判されてはいるが、それは自分たちの領域ではない専門家のものであり、自分たちが批判されるのはとばっちりだとのニュアンスだ。だが、これについても柴田氏のような放射線の専門家も原発推進派の一翼を担ってきたのであって、責任を分有していないだろうか。
 続いて柴田氏のはリスク論にふれる。「第二は、確率の考え、したがってリスクの考えが、なかなか受け入れられないということです。黒か白か、安全か危険か、と二者択一を迫る傾向にあります。放射能あるいは放射線に対する異常なほどの恐怖心は科学的思考の欠如を示唆していますが、その遠因は確率の考えを受容しないことにあります」。日本人は確率の考え方が受容できない特性をもち、それは科学的志向の欠如を示すものだという。
 「第三は、第二と密接に関連しますが、数字には強いが、その出自に無頓着であるということです。換言すれば、統計リテラシーに欠けているということです」。同氏は食品安全委員会の食品健康影響評価書案へのパブコメ(パブリック・コメント)の評価がその証拠という。パブコメは8割が案を支持と述べていることを問題にしているが、パブコメは母数がないわけだから、8割は支持率でも何でもないのに、その数を重視してします。これが日本人が統計リテラシーに欠ける証拠だという。
 「第四は、論理的思考が欠如しているということです。福島第一原子力発電所の事故後に起こった健康事象の原因を事故による放射線被ばくに求める例が多々みられますが、現時点ではすべてアリストテレスによって論理的に誤りとされたポスト・ホック(前後即因果)な論法です。子どもの鼻血や紫斑を放射線被ばくによる急性症状と診断した医師がいることに唖然とします」。
 柴田氏はこうした事柄が「日本人の精神構造」の劣った点だとするのだが、納得する人はどのぐらいいるだろうか。きわめて説得力の乏しい論述が重ねられている、柴田氏を含む専門家仲間のリスク評価と一致しない考えをもつ人が多いのに、異なるリスク評価をつきあわせて検討する場は設けられなかった。しかも専門家の言うことがコロコロかわった。そのために専門家は市民の信頼を失った。だが、この失敗の原因は主に市民の側にあったというのが、柴田氏の主張である。
 次に、東大医学部の放射線科の准教授で福島原発事故後、放射線の健康影響についてやや極端な楽観論を活発に発信してきた中川恵一氏の『放射線のひみつ』(朝日出版社、2011年6月) を見よう。中川氏は言う。「日本は、「ゼロリスク社会」と言われてきました。この言葉は、「リスクがない社会」ではなく、「リスクが見えにくい社会」を意味します。そもそも生き物はすべて死にますから、私たちに「リスクがない」わけがありません。放射線でがんが増えますが、日本はもともと、「世界一のがん大国」。2人に1人が、がんになり、3人に1人が、がんで死にます。/放射線を含めて、リスクの存在を認め、それにどう向き合うかという課題は、「限りある時間を生きる」 私たちにとって、とても大切です。」
 日本人は「ゼロリスク」という幻想にはまっているが、それを克服しなくてはならない――こういう言説がある。これは安全保障や治安の分野で言われてきたことなのだろうか。食品や環境の安全の問題や科学技術のもたらすリスクにも適用されるようになったものだろうか。新自由主義の時代に乗り遅れ、リスクを冒して起業する精神が足りないという議論に由来するのだろうか。よく分からない。
 だが、国際関係や犯罪にしろ、食品・環境・科学技術にしろ、それぞれの分野で日本人が「ゼロリスク」の幻想にふけってきたという証拠はあるのだろうか。そうであったとして、そもそも日本人があらゆる側面で「リスク認識が甘い」などということが示せるだろうか。これは人文学や社会科学の領域の事柄だが、その分野の研究者の一人としてはありえないことだと思う。武道や格闘技の愛好という事実ひとつとってみても、リスクをかけて戦うことを好む態度の表れではないか。著名な冒険家も多く出ている国だし、日本人はギャンブルぎらいなどという説も聞いたことがない。
 中川氏の認識は異なるようだ。「ゼロリスク社会の中で、がん患者さんだけは、「自分の死」という最大のリスクを意識せざるを得ません。リスクなどないと「勘違い」している一般市民とがん患者の「死生観」を比較するための調査 研究をしたことがあります。その結果、がん患者さんは、「あの世がある」、「死んで生まれ 変わる」などと考えない反面、「生きる意義」を感じ、「使命感」を持っていることがわかりました。リスクを意識することが、「生きる意味を深める」ことに つながるのではないかと感じました。」p155
 この調査結果は私も見ているが、そうかんたんにこのような結論が引き出されるものではない。データの解釈の仕方に恣意性が伴うのは言うまでもないことだ。他国の調査研究も含めて、他の結果と比べてみなくてはならないし、ただひとつのこのような小さな調査から大きな結論を引き出すのは適切でない。
 また、死を意識することをリスクの意識と関連づけることはできようが、それをリスク認識の典型と見てよいものか。覚悟を決めて長期留学を試みる人も、株やギャンブルに大金を投ずる人もリスクを意識する傾向の人だろう。また、リスクを意識することが「生きる意味を深める」ことであるなら、放射線に侵されるリスクを意識しつつ原発事故の収束のために働いている作業員たちはもっとも「生きる意味を深め」ていることになるが、中川氏はそう考えるのだろうか。
 このように危うい議論を展開しながら、言いたいことをまとめるとどうなるか。――自分たちは熟したリスク認識をすることができるが、市民はリスク認識に大きな欠陥を抱えている、ゼロリスク社会の幻想にふけり、リスクがないのが当然で安全はタダだと勘違いしている。適切にリスクを認識すれば、この程度の放射線汚染は耐えることができる、と。実際にリスクを示すことによっては説得できないので、専門外の社会心理や精神文化の領域に踏み込んで、「あなたのリスク認識は誤っている」と印象づけようとするものだ。「日本人のリスク認識」について深く理解しようとすれば、人文学や社会科学の広い知識と洞察力が必要となるだろう。そういう領域にやすやすと踏み込む医学者や放射線影響学者の知的冒険のリスクを問うてよいかもしれない。
 以上は、3.11以後、すなわち福島原発事故後になされた発言だが、こうした発言は2011年に始まったものではない。以前からなされていたものだ。放射線に関するリスクコミュニケーションを味方にしようとする考えが原発推進勢力の間で強く意識され、実行に移されていた。長崎大医学部のグローバルCOE「放射線健康リスク制御国際戦略拠点」が『リスクコミュニケーションの思想と技術』(2009年)、『リスク認知とリスクコミュニケーション』(2010年)、両書を合冊した『放射線リスクコミュニケーション』(2012年)を刊行しているのは、そうした動向をよく表している。だが、長崎大以前にもそうした探求はさかんになされていた。それを振り返る前に、ここで「リスクコミュニケーション」とは何かについて、かんたんにまとめておこう。
 「リスクコミュニケーション」という言葉は、科学技術のもたらす害を懸念する市民が登場してくるなかで、1970年代にアメリカで提唱された(平川秀幸他『リスク・コミュニケーション論』大阪大学出版会、2011年、)。環境汚染、食品の安全、遺伝子組み換え植物の問題など問われる事柄は次々と出てくる。だが、「なかでも大きな問題となったのは、原子力発電でした」と同書で土屋智子氏は述べている(p168)。当初から原発が主要な論題であり、「説得」や「教育」が課題と理解されていた。だが、スリーマイルやチェルノブイリの事故等を経て、事情は変化してくる。「行政・企業・専門家の信頼を低下させる深刻な事故が起きた」ためだ(p169)。
 「1989年、アメリカの学術会議であるNational Research Council (NRC) は、多様な分野の専門家を集めてリスクコミュニケーションを再考した結果、これまで考えられてきた説得や教育といったリスクコミュニケーションは効果がないという結論を出しました。そして、NRCが出した新しいコミュニケーションの定義は、「個人、機関、集団間での譲歩や意見のやりとりの相互作用過程」です。プロセスですから、何らかの結果をめざすものではありません。NRCは、リスクコミュニケーションの成功を、「リスク問題にかかわってリスクコミュニケーションをした人たちが、どちらも自分の意見が十分言えた、自分の意見は十分聞いてもらったと満足する状態ができたら成功である」と定義しました。注意していただきたいのは、十分に意見交換をしたからといって相手の気もちが変わるわけではないかもしれないし、合意に至ることもないかもしれないという点です」(p169-170)。
 このような新しい段階でのリスクコミュニケーションは、日本の放射線健康影響の分野では積極的になされてこなかった。むしろ、「説得」、「教育」こそがリスクコミュニケーションの中心的な意義であると考える人たちが、政府寄りの専門家たちであり、そのような態度で原発の立地の、また原発事故等の際の住民の懸念に対処しようとしてきた。要するにリスクの認識と評価は全面的に専門家側に握られており、それをどう受け入れさせるかがリスクコミュニケーションの問題という古い理解である。
 放射線健康影響専門家や彼らに賛同する人たちが、福島原発事故前からそのような態度をとってきた例は多い。まず、菅原努『「安全」のためのリスク学入門』(昭和堂、2005年)を見よう。京都大学の医学部長をも務め、医学と生物学をまたぎながら放射線の健康影響を研究してきた菅原は、低線量被ばくにはしきい値がありそれは生涯370mSvだとする論文の共著者でもあるhttp://shimazono.spinavi.net/?p=302 。
 その菅原は、放射線健康影響の専門家としては早くからリスク問題に取り組んできたが、その著書でこう述べている。「「リスク」とは、本当は人々により心配の少ない、心豊かな生活を提供することを目的として使われるべき概念だと、私は考えています。しかし今や、その「リスク」という言葉があちこちで濫用されてしまい、かえって人々の恐怖の種となってしまっています。」「こうしたリスクの概念は、元々日本にはなかったものだけに、なかなか一般的な理解が広がっていきません。「危険のことを口にすると危険が本当になる」という日本独特の「コトダマ」的感覚も、将来の危険を先取りして考えるリスクの考え方とは相容れないものと言えるでしょう」p18-19。
 次のような論述もある。「リスクの考え方は、初めから人工の町を作ってきたアメリカでは受け入れられても、欧 米以外の、古い農村を中心とする長い歴 史のある地域では、何か異様な感じで受け取られても仕方がないのかもしれません。このあたりが日本の一般の人々がリスクの考え方を理解する上での障害とな るように思われます」p206。
 きわめて根拠の薄い推論だが、日本人はリスク認識が苦手だと印象づけることによって、自らが是とするリスク認知、リスク評価が優れていることを示すのには役立つ議論と思えたのだろう。

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