日本の放射線影響・防護専門家がICRP以上の安全論に傾いてきた経緯(5) ――ICRPの低線量被ばく基準を緩和しようという動きの担い手は誰か?――

1980年代から電中研や放医研の研究者たちは、ICRPの防護基準を緩和するために、放射線低線量被ばくは健康への悪影響は小さく、むしろ良い影響が大きいということを示そうとする研究を重ねてきた。電中研では石田健二氏から酒井一夫氏に引き継がれた研究動向に注目してきたが、放医研では佐渡敏彦氏から島田義也氏に引き継がれている研究動向に注目している。

島田義也氏は1957年生まれ、84年に東大理学部博士課程を修了、88年から放射線医学総合研究所(放医研)の研究員となり、現在は発達期被ばく影響研究グループリーダーである。専門は佐渡敏彦氏や渡辺正己氏と同様、放射線発がんの研究である。文科省の「平成21年度原子力基礎基盤戦略研究イニシアティブ」審査委員会の28人の委員のうち、酒井一夫氏とともに放医研から出ている2人の委員の内の1人であり、放医研の非医学畑の放射線健康影響研究者の中心的存在の1人である。

島田義也氏は佐渡敏彦氏の退任の4年ほど前から放医研に所属。同氏との共著が多い。事故後、「がんの罹患率など、将来的な影響についても、10万μSvの被ばく量では医学的に意味のある違いは見られないと説明」、 「がんの危険性は、10万μSvの被ばくより、たばこの方が高い」と指摘」(『公明新聞』2011年3月19日)などの発言で注目された。
では、島田義也氏は学術的な著述ではどのようなことを述べているか。佐渡氏他編『放射線および環境化学物質 による発がん――本当に微量でも危険なのか?』、第5章「放射線および化学物質の生物作用」では、同氏はW.L.ラッセルらによる動物の生殖細胞の突然変異についての大規模な実験を紹介している。そして、

①「雄マウスの精原細胞の突然変異率は、高線量率(72~90cGy/分)でも低線量率(0.8cGy/分~0.0007cGy/分)でも、線量とともに直線的に増加する」ことを確認しているp141(1cGyは10mGy/分)。また、

②「……この実験で……明らかになった最も重要なことは、低線量率(0.0001cGy/分~0.001cGy/分)の照射では放射線によって誘発される単位線量あたりの突然変異率が、高線量率(80~90cGy/分)の照射の場合の約4分の1に減少するという「線量率効果」の発見であった」と述べている。p141

ラッセルの研究の①の内容はLNTモデルを支持する過去の生物実験研究のもっとも有力なものとされているが、②の内容は、ラッセルらの研究のうち、LNTモデルを批判する立場から何とか拡充していきたい成果として叙述され、その意義が大いに強調されている。

一方、同書第7章「発がんと突然変異」では、論理の飛躍を覚悟の上だろうが、自説の楽観論を大胆に述べている。P185-6

「これ(自然発生[内因性]の DNA損傷の量)は…(自然環境)放射線によって生じるDNA損傷の量と比べて2億倍…も大きい値である。また、DNAの二重鎖切断だけに注目すると、1000倍の違いがあると計算されている」。

「第5章で、生殖細胞における自然発生 突然変異率を2倍にするのに必要な倍加線量は約1Gyであることを述べた。いま仮に、この数値をがんの原因となる体細胞での突然変異に適用すれば、生体内 では自然に1Gy被ばくに相当するほどの突然変異が発生しているということになる。1Gyは自然環境における年間被ばく線量あるいはICRP勧告にある一般公衆の年間被ばく線量の上限値の1000倍であることを考慮すると、自然突然変異の発生における複製エラーや活性酸素など内因性の原因の寄与がいかに大きいかが理解できるであろう」p186

そして、内因性の原因の寄与が多いので、放射線による突然変異は発がんの大きな影響要因ではないということを強調している。

「それらのDNA損傷の約99.9%は DNA修復機構によって修復されると考えられるが、それでもなお1mGy/年の20万倍 のDNA損傷が残るという計算になる。これらの数値を見ると、現在の放射線防護基準は、生物学の視点からはかなり低いレベルに設定されるように思われる」。

これはICRP基準緩和の意図を含んだ主張である。

「したがって、過剰の放射線や化学物質への曝露はできるだけ避けなければならないのは当然であるが、万一の事故により、年間許容量を何倍か凌駕する程度の放射線や化学物質への曝露があった場合でも、そのことによる発がんリスクの増加を過剰に心配する必要はまったくないといってよい」p188

これは、福島原発事故を予感していたかの如くだが、おそらく東海村JCO臨界事故(1999年)の経験を踏まえている。いずれにしろ、福島原発事故後の発言は強い信念に基づいたものである事が分かる。だがその推論は、ICRP基準緩和を志向したもので、自らの研究による根拠としては、DNA修復機構が働くからDNA損傷を恐れる必要はないという大雑把な議論にすぎない。

島田氏はまた、放射線の健康影響を論じる際にも、日常の生活慣習が発がんに及ぼす影響が大きいので、そちらの方から努力することに注意を向けるべきだと述べることが多い。2003年3月14日に原子力安全委員会の主催で行われた討論会「私たちの健康と放射線被ばく――低線量の放射線影響を考える」(於全国町村会館)の「講演要旨集」では次のように述べている。島田氏の研究関心や安全論発言の背景がうかがわれるので、少し長くなるが引用する。

「以上のように、ヒトの生活環境には、放射線以外のたくさんの発がん要因が存在して、それぞれがお互いに作用し合って、がんの発生を促進したり、抑制したりしています。ですから、低線量になればなるほど放射線の影響が隠れてしまい、放射線によってがんがどれくらい発生するかそのリスクを推定するのはむずかしくなります。そのため、母集団の大きなコホート調査(例えば、原爆被爆者:約8万人)や大規模な動物実験が必要になるわけですが、それでも、100mSv以下(日本人は通常の生活で自然界から年間1.5mSvの被ばく)の影響ははっきりしません。現在、がんの原因をがんの遺伝子の傷(爪痕)から推定できないかという研究が進んでいます。最も研究されているのは、ヒトのがんの半数に突然変異が見られるp53という癌抑制遺伝子です。」(中略)

「私たちの周りには、たばこ、食事、飲酒などの生活慣習が発がんと大きくかかわっています。放射線も発がん因子であるますが、その他の発がん要因やそれぞれの要因の相互作用にも目を向けて、広い視点から発がんリスクを考えていくことが大切です。生活慣習を個人的にそして社会的に改善していくことが放射線の発がんリスクを低減化する近道だと思います」。

この議論の分かりにくい点は、放射線の発がん作用がありうるのにそれをどう減らすかということには触れずに、ひたすら生活慣習を改善するよう促すことである。これが放射線防護を軽減したい電力会社や原子力関係者のような原発推進側に都合がよい議論であることは言うまでもない。

以上、酒井一夫、佐渡敏彦、島田義也の3人の放医研の放射線生物影響研究者(医学者)について述べてきたが、彼らが放射線の健康影響はさほど心配しなくてよい、またICRPのLNTモデルは厳しすぎるので緩和すべきではないかとの方向で、研究を進めようとしてきたのはいったいなぜだろうか。この問いに答えるための参考になる資料として、2004年7月付けの原子力安全委員会 「原子力の重点安全研究計画」という文書を見てみよう。東海村JCO臨界事故後、省庁再編後の新体制での「安全研究」に向けてまとめられた文書だ。「はじめに」に、

「近年、原子力安全の確保や安全規制に係る状況が変化し、また、平成13年度の放射線医学総合研究所の独立行政法人化、平成15年度の原子力安全基盤機構の設立、さらには、平成17年度の日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構の廃止・統合による日本原子力開発機構の設立等、安全研究の実施を担う期間の体制も変化している。このため、原子力安全委員会原子力安全研究専門部会は、原子力安全に関し解決すべき課題により確実に取り組めるよう、今後、重点的に実施すべき安全研究の内容や実施体制について明確な基本方針を打ち出すことを目的として……」

とあるとおりである。ここでは放医研の放射線影響研究に高い地位が与えられている。もちろん事故が起こらないようにするための研究が重要だ。だが、「さらに、原子力利用活動に伴う安全確保は、「人の安全」が基本であることから、科学的な根拠に裏付けられた放射線の生体影響・環境影響等の放射線影響分野の安全研究の充実を図る必要がある」p4。そしてその(「放射線影響に関する安全研究の推進」の) 第1目標は放射線の健康影響は小さいことを示すことにある。

「放射線影響に関する安全研究については、「人の安全」を守るという国の責任を果たす面でも非常に重要な分野であり、研究の着実な進展が求められている。

具体的には、国民の関心の高い、放射線の人体への健康影響に関するしきい値問題を含めた低線量 (率)放射線の生体影響に関する研究、放射性核種の体内取 込みによる内部被ばくに関する研究、被ばく線量の測定・評価に関する研究等、放射線の健康影響をより詳細に評価するための取組みや高線量被ばくを伴う事故等の際の緊急時被ばく医療への対応が求められる」p6。

4つの課題があげられているが、そのトップに位置づけられているのが低線量放射線の生体影響研究で、とくに「しきい値問題」が焦点として取りあげられている。また4つの課題のうち3つは放射線の被ばく影響の評価に関わるものである。なかに内部被ばくが取りあげられているが、その内容がどのようなものであるかについては、ここでは取りあげない。

別添資料2は「主要な研究機関に期待する重点安全研究の内容」だが、そこの「放射線医学総合研究所」の記述は「放射線影響分野」と「原子力防災分野」に分かれている。そして前者については、今後拡充される可能性がある領域についても述べられているが、まず最初に現在、重点的に取り組まれている研究があげられている。

「低線量(率)放射線の生体影響に関する研究を実施し、これらのデータを解析評価すること、さらに、その成果に基づき、より合理的な防護基準の設定や被ばく者の健康リスクの実態的な評価を可能とするとともに、国民の信頼の醸成に寄与することを期待する。

具体的には、以下のような研究の実施を期待する。

・各種の放射線(中性子線を含む)及び生物指標を用いての線量・線量率・反応関係の解析と生体防御因子との解明

・放射線障害と修復・防御に関わる分子・細胞・個体レベルの研究 等」

これらは、酒井一夫氏、荻生俊昭氏、島田義也氏らの研究分野を示唆するものだ。ここで「合理的な防護基準の設定」というのは、ICRPのLNTモデルに基づく防護基準を緩和するような方向性を示唆するものとも読める。

傍証として、『LRI Annual Report 2006』(日本化学工業協会研究支援自主活動 Annual Report 2006 Long-range Research Initiative長期自主研究)(社団法人日本化学工業協会、2007年3月)を見ておこう。そこでは、「放射線医学総合研究所低線量プロジェクト・島田義也研究グループ」の「研究概要と成果」次のように記されている。

「体内に入った化学物質はその量に応じて何らかの生体反応を引き起こします。これを用量相関性といいます。また、ある量以下では全く反応を示さなくなった場合、その量を「しきい値」と呼びます。動物実験では、発がん物質の量が多くなるに従って発がん率が上昇するので、用量相関性があることが分かっています。しかし、しきい値があるかどうかについては議論が分かれています。このテーマでは「発がん物質にしきい値が存在するか否か」を研究します。第6期はこれまでに続き、極低線量の放射線と極微量の発がん物質を複合的に動物に投与して、しきい値が観察されるか、またどのような発がんのメカニズムがしきい値に影響するかという研究を行いました」p11。

このような研究によって「国民の信頼の醸成に寄与する」とは何を意味するのか。事故が起こった場合にも、放射線の影響は小さいのでそれほど不安にならなくてもよいことを示すことなのだろうか。

他方、これはできるだけ原発のコストを下げたい電力会社や原子炉製造関連企業にとっては、大いに歓迎すべき研究プロジェクトだろう。

いずれにしろ、この「原子力の重点安全研究計画」という文書は、放医研が放射線健康影響に関する国の主要な研究機関として捉えられ、〈ICRP防護基準の緩和を陰に陽に目指しつつ原発推進のための「安全研究」を担う〉という位置付けを与えられていたことを明らかに示している。

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