日本の放射線影響・防護専門家がICRP以上の安全論に傾いてきた経緯(4) ――ICRPの低線量被ばく基準を緩和しようという動きの担い手は誰か?――

電力中央研究所(電中研)では1980年代から石田健二氏が中心になってホルミシス効果の研究が行われ、ICRPのLNTモデルに基づく防護基準は厳しすぎるとして、それを緩和するために国際的に働きかけることを目標とする研究が行われてきた。1999年からは酒井一夫氏が中心的な研究スタッフとなり、石田氏をひきついでこの研究を押し進めてきた。同氏が放射線医学総合研究所(放医研)に移るのは2006年だが、では、それ以前、放医研では低線量被ばくの健康影響に関する研究はどのように進められてきたのか。

実は放医研でも、低線量被ばくによる放射線の影響に注目し、LNTモデルを克服することを目指した研究を進めてきた人々がいる。そのあたりの事情は、佐渡敏彦・福島昭治・甲斐倫明編『放射線および環境化学物質による発がん――本当に微量でも危険なのか?』(医療科学社、2005年)を見ることで見えてくるものが多い。

編者3人の筆頭であり、巻末の「執筆者プロフィール」でも最初に名前が出ている佐渡敏彦氏は九州大大学院農学研究科を出て、アメリカのエネルギー省に所属し原子力研究の中心的施設の一つであるオークリッジ国立研究所で学び、放射線医学総合研究所、大分県立看護大学などで研究を進めてきた人物だ。放医研には1969年から93年まで在籍し、後、名誉研究員となっている。プロフィールには「最近は、放射線発がんのリスク評価の基礎となる線量反応の生物学的意味について考え続けている」とある。

このテーマに近い研究をしている研究者で、本書の中でも佐渡氏と共著の章が多いのは島田義也氏と大津山彰氏である。佐渡氏を引き継いで放医研でこの分野の研究を進めてきた島田義也氏については後で述べるとして、ここでは大津山彰氏のプロフィールを紹介する。1983年、酪農学園大学獣医学の大学院を終え、2005年現在、産業医科大学放射線衛生学講座の助教授。「国立がんセンター研究所放射線研究部で、放射線誘発カウス皮膚がんのしきい値線量存在の研究に従事。現在は、p53遺伝子の放射線発がん抑制作用や放射線誘発突然変異の機能細胞における経時的動態について調べている」。発がん、また発がんを抑える機構(メカニズム)の研究を通して低線量の放射線の健康影響にしきい値があるということを示すことをねらった研究だ。

発がん機構の研究を通してLNTモデルを見直すという研究を進めてきた研究者には、上記3者の他に『放射線および環境化学物質による発がん――本当に微量でも危険なのか?』の共著者では渡邉正己氏(京大原子炉実験所教授)、この本に「推薦のことば」を寄せている菅原努氏(京都大学名誉教授、2010年死亡、公益財団法人体質研究会元理事長)、田ノ岡宏氏(元国立がんセンター研究所放射線研究部長)らがいる。これらの研究者は医学畑ではない。放射線生物学の研究者で放射線の健康影響を「恐がりすぎない」ようにするための研究を進め社会的発現を続けてきた人々である。

佐渡敏彦氏について述べる前に、菅原氏、田ノ岡氏、渡邉氏の低線量放射線の生物影響への関与について瞥見しておきたい。まず、菅原努氏が理事長を務めた公益財団法人体質研究会のホームページhttp://www.taishitsu.or.jp/ を見ると、トップに「高自然放射線地域住民の疫学調査研究」が掲げられ、「放射線はどんな微量でも人体に 悪影響を与えるのでしょうか? 放射線の健康への影響については、従来、原爆被曝の例がその基礎にされていましたが、それが一回の急性照射であることから、日常的に放射線被曝を受けている人々に関する疫学調査が重視されるようになってきました。/本財団では、中国、インドなどの自然放射線の高い地域に何世代にもわたって住み続けている人々を対象に疫学調査を行なっています」とあり、これは電中研の放射線分野の2大研究プロジェクトの1つと一致する。続いて「放射線のリスク評価に関する調査」「放射線照射利用の促進」があげられている。

田ノ岡宏氏は「最近の放射線生物影響研究から」(『保健物理』32(1)1997)」という論文の中で、「ラジウム内部被ばくによる骨肉腫の発生率には集積線量10Gy 【注10Gy=約10000mSv!】でシャープなしきい値が存在することは旧知の事実である。要するに、低線量連続被ばくの場合は、人体はこの程度の線量まで耐えることができ」ると述べているという。美浜原発のJCO説明会(2000年4月9日)で、「自分は30mSvこれまで被曝している。あなたたちの中で最高でも21mSvでしょう。大したことはない。あなたたちへの体の影響は絶対ない。以上の説明で納得されない方は、今ここで血液を調べてあげます。それでも納得しないなら、墓石を削って分析してあげます」と伝えられている。http://www.jca.apc.org/mihama/News/news57_bougen.htm

渡邉正己氏は『電中研レビュー』53号(2006年)「低線量放射線生体影響の評価」に「巻頭言」「低線量放射線生体影響研究に懸ける夢」を寄せている権威者で、2011年秋に設けられた原子力安全委員会UNSCEAR原子力事故報告書国内対応検討WGの外部協力者でもある。その渡邉氏は財団法人電子科学研究所から出ている『ESI-NEWS』Vol.25 No.5 2007で次のように述べている。

「高線量放射線を受けバランスが大きく崩れると生命に危険が及ぶようになる。この状態になると救命的な様々な損傷修復機構……が活性化される。放射線ストレ スの場合、数100mSV程度の線量がその境目ではないだろうか?この予想が正しければ、100mSV以下の放射線量で誘導される酸化ラジカルは、内的ストレスによるラジカルと区別されることなく通常の生体生理活動で処理される。これを『生物学的閾値』と捉えることはできないだろうか?少なくとも低線量放射線の発がんのリスクをDNA標的説に基盤を置く『閾値なし直線仮説』で評価することはできないとするのが妥当ではないか?」

さて、では放医研での放射線発がん機構研究を先導してきた佐渡敏彦氏自身は、LNTモデルについて、またLNTモデルと深い関係があるとされる放射線発がん機構の解明についてどのようなことを述べているのだろうか。

『放射線および環境化学物質による発がん――本当に微量でも危険なのか?』の「はじめに」は3人の編者の連名によるものだが、内容的に見てこれは佐渡氏の筆になるものと見てよいと思う(本書で医学畑を代表する福島昭治氏の立場が異なることについてはこのブログの別の記事で述べる予定)。そこでは、LNT仮説と「しきい値」問題について長々と述べられている。

「UNSCEARやICRPは確率論的な影響に関しては、「しきい値」となるような線量は存在しないという立場をとっている。このような立場に立てば、放射線はどんなに微量であっても、集団全体として見れば被ばく線量に比例してがんの発生リスクが増大するということになる。この仮説が正しいかどうかについては、これまで数十年間にわたって専門家の間でさまざまな議論がまされてきたが、いまだに決着をみていない厄介な問題である。」

しかし、原爆被爆者の疫学調査からは「この仮説は排除できない」し、発がんと遺伝子の異常の関係、被ばく線量と遺伝子異常の直線的比例関係も生物実験で「繰り返し立証されている」。そこでLNT仮説が妥当ということになっている。

「そういう意味で、LNT仮説は、放射線の防護基準を決めるための理論的根拠を提供するうえで、最も「実用的な」仮説であるといえる。しかし、それは決してこの仮説が正しいことを意味するものではない。」

これは環境化学物質の発がんリスク評価についても言える。

「このような立場に立つかぎり、それらの作用原の人体への影響に関して、「安全量」は存在しないことになる。そして、そのことが一般の人々に放射線や環境化学物質はどんなに微量であっても危険であるという過剰の不安を抱かせる原因にもなっており、そのような不安が過剰になると、それ自体がストレスになって新たな健康障害をつくり出す原因にもなりかねない。そういう意味で、LNT仮説は単に放射線や環境化学物質に対する安全防護のためのガイドラインである以上のインパクトを社会に与えているゆに思われる。」p.4-5

最後にこの共同研究の経緯について述べられている。

「本書の共同執筆者の多くは……ごく低レベルの放射線被ばくによる人の発がんリスクをどのように考えるのがいいのかを独自の立場から検討するためのグループを、1994年に財団法人原子力安全研究協会の協力を得て発足させた。このグループには、環境化学物質による発がんリスクの専門家にも加わっていただき、年に2回程度の会合を持ちながら「放射線発がんに関するしきい値」問題を検討する作業を続けた。」

同書第10章は「〈総合討論〉発がんリスクをめぐる諸問題」が置かれ、執筆者一同による討議がなされている。そこで、佐渡氏は「現段階では、原爆被爆者の疫学データに基づくLNT仮説を採用する以外に現実的な方法はないだろう」と認めはするが、何とかそれを覆すのだという意欲を強く示して討議をしめくくっている。

「これまでの議論で、LNT仮説はあくまでも放射線あるいは環境化学物質に対する基準の策定に必要な防護の具体的数値を算出するための仮説として提出されたもので、メカニズムの面からは必ずしも支持されるわけではないことについては皆さんの合意が得られたと思います。」

とにかく防護基準を緩めたいという人々から支持されるような方向で研究を進めていこうという意欲がひしひしと感じ取れる。何とか「しきい値あり」説を強化し、原発推進のための「原子力安全研究」に貢献するためのプロジェクトに放医研の放射線発がん研究グループが取り組んできたことが明かだろう。研究内容がそれを達成できているとはとても思えないのだが、たくさんの生物発がん研究の専門家がこれに関わってきたことは確かであり、それは原発推進勢力をバックとしていることも疑えないところである。

佐渡氏の考え方を確認するために、「平成15年度緊急被ばく医療全国拡大フォーラム」(2003年8月23日、仙台市復興記念会館)での佐渡氏の「発がんメカニズム」と題する講演の内容も見ておこう。http://www.remnet.jp/kakudai/07/panel4.html

「突然変異の頻度が線量とともに直線的に増加することは確かで、これはどのような実験系でも確認されています。しかし放射線発がんの場合には突然変異だけでなく、細胞死とそれに続く組織再生の過程が深く関わっていると私は考えております。したがって、この部分の線量反応は決して直線にはならず、多分線形二次曲線、あるいはごく低レベルの線領域にしきい値があるのではないかというのが現在の私の考えであります」。

この佐渡敏彦氏を引き続いて放医研の放射線による生物発がんの研究を行い、同氏との共著論文が多く、しきい値問題に強い関心を示してきたのが、低線量被曝のリスク管理に関するワーキンググループの第3回会合(2011年11月18日)で「子どもや妊婦に対しての配慮」に関する報告を行った放射線医学総合研究所発達期被ばく影響研究グループグループリーダー、島田義也氏である。

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