放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(7) ――「不安をなくす」ために調べない知らせないという「医療倫理」?

 だが、重松委員長によるIAEAレポート(1991年)が出たこの時まで、長瀧氏はチェルノブイリでどれほどの診療経験、調査経験があったのだろうか。最初にチェルノブイリに赴いてから、どれほどの時間も経っていない。その間に現地に滞在した時間はほんのわずかである。したがって、調べる前知る前に「健康影響なし」の立場は決断されていた。そうとすれば、長瀧氏の著書『原子力災害に学ぶ―放射線の健康影響とその対策』に見える以下の反応は何の不思議もない。

 「チェルノブイリ原発事故に関する最初の系統的な報告書であり、現地のパニックを抑えるためにもっとも有効な情報を含む報告書であるにもかかわらず、当時の日本の報道機関は報告書に対して、「事故の影響を過小評価している」「ソ連政府の要請があったのではないか」といった批判を向けた。このような報告書が出ると支援する側の意欲をそいで支援が少なくなることを恐れるという風潮もあり、重松委員長を執拗に非難するテレビの報道、新聞の記事も少なくなかった。/支援する側の論理、感情、場合によっては自己満足と、被害者・被曝者の真に求める支援との関係、そして科学的な調査結果との関係は今も深刻な課題として残っており、本書の主題の一つである。」(p51-52)
 IAEAレポートは現地に入ったばかりの外国人科学者多数を含む調査団が、僅か1年程の間に、被災者+対照群計1,356人 を対象に調査したものだ。そのうち被災者は約700人である。(重松逸造『日本の疫学―放射線の健康影響研究の歴史と教訓』医療科学社、2006年)。ここで注意すべきこと。1)科学的な調査結果は一様ではないが長瀧氏は一様であるかのようにいいがち、2)支援する側の思惑と被災者の望むものを対置し激しい批判をよんだのは、わずかな調査で「放射線による健康障害はない」と断定したことから当然のことではなかったかということである。
 このIAEAレポートは甲状腺の被害もなしとした。この記述はその分野の専門家として重松氏を補佐した長瀧氏に大いに責任があるはずだ。長瀧氏は前掲著書51ページでIAEA系の科学者への信頼を落としたこの報告書を全面的に擁護する叙述を行っている。長瀧氏は自らが被災者の「真に求める支援」を捉えているという 口ぶりだが、これは5年間、当地に住みついて治療にあたった菅谷昭医師(現、松本市長)の記録(『チェルノブイリ診察記』晶文社、1998年、等)や当地の女性専門家らと長期にわたる連携しつつ調査を進めた綿貫礼子氏らの報告(『放射能汚染が未来世代に及ぼすもの』新評論、2012年)と照らし合わせて受け止めるべきものだろう。
 長瀧氏が「今も深刻な課題」というのは、チェルノブイリの「今」を指すのか、主に福島のことを指すのかよく分からない。たぶん後者だろうが、その意味するところは、「はじめに」に「被害者にとっては、たんに被害の事実を発表するだけでは、世の中での差別など不利益をもたらすだけであることを自覚し、調査結果の発表が被害者の救済につながるように最大に努力してきたつもりである」(iiページ)とあるのが参考になる。つまり被害が起 こってもそれは直ちに伝えない、公表しないこともありうる。それが差別等の原因となり、被害者の利益にならないからだという主張だ。これは真実を伝えない方 がよい場合は真実を隠すことをよしとする考え方を明示したものだ。
 「不安」や「差別」につながる情報は隠してもよい。少なくとも確定的になるまでは、できるだけ公表を控えるという立場だ。「差別」については確かに考慮すべき点がある。だが、本人の健康情報は本人には伝えるべきであるし、被災者の利益のために必要な情報が「差別」や「風評被害」につながるという場合、前者が軽んじられてならないことは言うまでもない。確定的ではなくとも強く相関が疑われるような場合は、そのとおりに伝えるべきだろう。だが、長瀧氏の論述にはそのような配慮は含まれていない。このように詳細にわたる情報を知ることができる医師や科学者が、患者や市民に重要な情報を伝えないとすれば不信を招くのは当然だろう。そうした姿勢のために、そして事実伝えなかったために増幅された専門家への不信に対して、専門家側の責任を認める姿勢は、チェルノブイリ医療協力についての長瀧氏の論述には見あたらない。
 重松逸造『日本の疫学』と長瀧重信『原子力災害に学ぶ放射能の健康影響とその対策』は、「不安をなくす」という第1義にそって書かれている。そして、事実を「知らせない」ことを正当化し、情報操作を是とする考え方が度々表明されている。また、それが生む専門家への信頼喪失に対して専門家自身がその責任を認めず、あくまで自らの正当性を主張する姿勢が見える。かつて原爆や核実験の被害についてアメリカ側がとっていた姿勢が、いつしか原発災害について日本の専門家がとる姿勢へと引き継がれていく。なお、重松氏が水俣病や他の公害訴訟で政府側に立つことで、被災者を軽んじる立場をとってきたことは広河隆一氏の『チェルノブイリから広島へ』(岩波書店、1995年)に的確に書き留められている。
 重松氏と長瀧氏のチェルノブイリへの関与は、放射線健康影響の分野で、加害者側に立つ日本の医学者の姿勢を決定的なものとする作用を及ぼした。チェルノブイリに関わる最初の段階で、診療や調査の結果の科学的吟味・判断がなされる前、最初のゴメリの病院訪問の際に選択はなされていた。長瀧重信『原子力災害に学ぶ放射能の健康影響とその対策』第3章「チェルノブイリ原発事故―内部被曝と精神的影響」はそのことを率直に認め るドキュメントとして読める。
 ここからは甲状腺がんの問題に限定して見ていこう。長瀧氏と山下氏はこの分野の専門家だから、甲状腺への内部被曝のリスク評価やリスクコミュニケーションについての彼らの考えを調べることで、専門家としての責任についての彼らの考え方がよく分かるだろう。チェルノブイリにおいて長瀧氏は「不安をなくす」ことを至 上命題として調査を行い健康被害が放射線によるものと疫学的に証明出来ない限り、できるだけ「認めない」という方針を立てた。甲状腺癌についても放射線との因果関係をなかなか認めなかった。
 長瀧著『原子力災害に学ぶ放射能の健康影響とその対策』にそって見ていく。1987年の日本核医学会シンポジウムで原爆の外部被爆で甲状腺癌が増加していること、原爆後に黒い雨が降った地域で甲状腺結節が増加していたことが示された。前者は外部被曝だが、後者は内部被曝か外部被曝か分からない。チェルノブイリでも数年後には出ないだろうと考えられていた。そこですでに報告が出ていたにもかかわらず、1991年の重松報告書には記載されずNature92年9月号で世界に知れ渡った。EUの調査団に加わり長瀧氏もミンスクに行き、「肺に転移があるなど、まさに驚くべき症例提示が」あり、「信じられないくらい多数の小児甲状腺癌患者」を確認する。乳頭癌でありながら肺に転移するというのは成人では稀だので衝撃は大きかった。
 しかし、それでも以下の理由で放射線が原因であるかどうかは分からないという立場が固守された。(1)ベラルーシ以外の報告がない、(2)比率を定めるための集団の母数がない、(3)原因は放射線が?ヨウ素のデータはない、(4)ゴメリ市には第2次大戦中に化学工場があったので他の原因も考えなくてはならない等の解決すべき問題がある。――そこで、ミンスクの会議では、調査団の報告にチェルノブイリ事故の後、小児甲状腺癌が増加し、その原因は事故による放射性物質である可能性が高い、また予後がいい乳頭癌だが肺に転移すると書くかどうかで意見が割れた。EUの委員は全員賛成、米委員は全員反対、長瀧氏も反対となった。これは1992年10月のことである。
 長瀧氏が「科学的に認められていない」「エビデンスがない」というのはこういう立場によるものだ。可能性が高くても、確実にこの原因と確定できなければ、放射線の影響だとする科学的証拠はないとする。このような病因特定の正確さにこだわるのは、科学の方法論の上では科学的な厳格さを尊ぶ美徳であるかもしれない。だが、科学が市民生活と直結しているという側面を考慮に入れると、科学的慎重さにこだわるために対応がひどく遅れるという問題が生じうる。早期発見・早期治療に反しないのだろうか。その問題に長瀧氏はふれていない。「可能性が高い」となれば関連する地域の診療や調査を行うことになるわけだが、「不安をなくす」ことを重視するのが長瀧氏の立場だから、病因特定は遅くてもよいことになってしまう。
 こうしたチェルノブイリでの経験の叙述のまとめに、長瀧氏が導き出しているリスコミ論的な結論めいた言葉を引く。「影響が認められない」は「影響がない」ではなく「「わからない」ということだと説明する。すると「わからないのに、なぜ安全だといえるのか」。「わからなければ、何が起こるかわからないからなお心配であるという反応が返ってくることもある」。「この「認められない」の説明しだいで混乱を誘発も鎮静もできる」(p74)。そして、長瀧氏は「第1に「認められない影響は、「認められる影響」より少ないこと」を強調することが重要であろう」と述べる。これは意味がよく分からない。甲状腺の場合、認められていなかった小児がんが「信じられないくらい」多かったのだ。
 長瀧氏は甲状腺のことではなく、100mSv以下の低線量被曝によるがん死の数値のことを100mSv以上の数値と比べて少ないと述べているのかもしれない。だが、子どもの被害は大きく、死に至らないがんもあり、がん以外の疾患の可能性についてもよく分からないのだから、100mSv以上よりも少ないからと「鎮静できる」というのは自信過剰ではないだろうか。また、長瀧氏はここでは「科学的な論争がある」(p74)ことを認めている。だが、それを社会に発表すれば混乱すると述べている。
 ここで「不安をなくす」という大義名分と並んで、もう一つ「社会を混乱させない」という大義名分が持ち出される。「科学的な論争が続いている場合は、社会に対しては科学的に不確実という言葉で統一して発信し、社会を混乱させない」。ここでは異論を公表させないことが混乱を避ける方法とされている。通常の科学のモラルとしてありえないことであり、これこそ混乱を招く原因ではないだろうか。
 科学は「統一」できないし、また科学は社会を統御すべきものではない。これについては、私のブログ記事「低線量被ばくリスクWG主査長瀧重信氏の科学論を批判する」でも述べた。長瀧氏の科学論への同趣旨の批判は、影浦峡氏「「専門家」と「科学者」:科学的知見の限界を前に」『科学』2012年1月号にも見られる。市民生活に関わることで科学的な見解が多様であれば、それを明らかにして公共の討議に付すべきだ。それを無理矢理抑えようとすることによってこそ混乱が増幅する。
 もう一つ。110ページではこう述べている。「初期には健康調査のための被曝線量の測定に重点をおくべきである。健康調査のために被曝線量の測定が遅れてはならない。」「過度の恐怖に対しては、対話(リスクコミュニケーショ ン)により可能な限り冷静に論理的に対応しながら調査を行う。決して恐怖ばかりを強調して調査を行 わない」。要するに「不安をなくす」「恐怖をなくす」ことと線量を「調査」することを優先。診療・健康調査は後回しというのが長瀧氏の考え方だ。当事者の悩みに向き合う姿勢は見えない。これで当事者は安心するだろうか。福島でも長瀧氏・山下氏の系譜の医学者の主導の下、この方針が採用されている。
 長瀧氏はチェルノブイリでの第1印象、「不安こそが問題」という信念にそって健康影響の可能性の公表は抑えるとの方針を立てた。また健康影響が出たらどう対処するかではなく、後年に健康影響があったどうか(なかったとしたい)を証明するための調査を最優先すべしという。要するに長瀧氏のリスコミ方法論は、「当事者が今抱いて いる関心から遠い調査は行うが、診療はせず、説得により不安をとる」というものだ。当事者の健康への配慮は後回し、あるいはよそ任せ。そしてこれが2012年9月現在の福島県民健康調査の方法論でもある。多くの県民は安心も信用もしていない。
 1991年以来の笹川チェルノブイリ医療協力事業を振り返る座談会が2004年12月に行われている http://t.co/vAtjH8gn が、そこで長瀧氏は甲状腺の検査をするかしないかにつき重要な発言をしている。治療できないなら検査をしても心配が増えるだけと言うのだ。
 「チェルノブイリも含めまして超音波で発見された被曝による甲状腺の結節をすぐに手術するのか経過を見るのかは大きな問題です。結節nodulesが見つかった人をどうすればいいのかということです」
 「話が飛びますが、ネヴァダの原爆実験によって放射性ヨードが米国全体に広がっていることがわかりました。それを議会で取り上げてNAS(全米科学アカデミー)が隠していたとか、いろいろな経緯がありまして、出版物としてすべての調査結果を発表しています。ネヴァダの原爆実験で甲状腺がんが増えているという発表はあるのですが、スクリーニングをやって見つかったときに臨床的にどうするかという結論が出ていない段階ではスクリーニングはやるべきではないと述べられています。米国的に考えると、スクリーニングでnoduleがありますというだけで何も治療ができないのでは心配が増えるだけなので、スクリー ニングはやらないほうがよいというものです」
 「このような被曝と甲状腺でもっとも重要な問題に挑戦しまして、今、長崎では10年前に長崎でやったスクリーニングを同じ規模でやっています。そうするとnoduleのある人からがんが出た割合はコントロールに比べ20倍も多いことがわかりました」
 「原爆でもチェルノブイリでも大切なことで話題になっていますのが精神的影響です。実際にチェルノブイリの発表でも精神的影響が増えています」
 「先ほどお話した中国が原発をつくるときのシンポジウムでは、日本のデータがヒステリーと表現されました。精神的な問題は被害にはならなかったのです。日本でもそのとおりでしたが、阪神・淡路大震災のときから始まって、バスのハイジャックなどがあって、精神的影響という言葉が新聞にも出るようになりました。そして去年ですけれども、精神的影響が長崎の被曝者に関しては正式に被曝地域の議論の中で認められたのです。精神的な被害を国は保障するというので米国大使館の精神科の医者からいろいろと質問されました」(p13)。
 甲状腺の結節(nodule)はがんに発展する可能性がある。だがアメリカのネヴァダの甲状腺被害の例にならうなら、治療措置は何もできないのであれば調べることさえしない方がよいと長瀧氏は示唆する。そしてそのことと「精神的影響」の方に注意を払うべきだという持論を結びつける。治療法がない場合には、病気であっても本人に知らせない方がよいという。これはたぶんヒポクラテスまで遡って、医療倫理の基本からはずれている。長瀧氏はたいへん狭い範囲で独自に特殊な倫理論を作っているが我流であり、これは普通の大学の機関内生命倫理委員会でも通らないだろう。少なくともごく限定された条件の下でのみ認められる議論だろう。政治家や政府機関となれ合って権力をもっているから通用しているにすぎない。
 以下、私の感想を述べる。がんになったら早く取らなくてはいけないし、肺に転移する恐 れもある。それなら早期発見が必要だろう。しかし、長瀧氏はここで「精神的影響」に固執する。つまり、心配を招くような検査はしない方がよいと示唆。また、検査をしても真実は伝えない方がよいということになろう。長瀧氏はそう明言していないが、その考えがうかがえる語り口だ。
 「精神的影響」を重んじる、つまり「不安をなくす」ことに高い優先権 を与えると情報の隠蔽は正当化される。だがいつまでも隠せないので当事者はいつか隠されたものを知る。そして専門家への怒りと不信感を募らせる。それが繰り返されてきた。そう考えないと、現在、ICRPで力を振るっている日本や核保有国の放射線影響専門家に対する世界的な不信は説明がつかない。だが、長瀧氏や山下氏がそのことを認める時がくるだろうか。

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