放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(4) ――安全・安心をめぐる混迷

 放射線健康影響のリスクについて、その方面の専門家が市民の「不安をなくし」「安心させる」企てに意図的に取り組んできたさまを見てきた。市民がリスクを適切に認識することができず、「安全なのに安心できない」ので、さまざまな手段を用いてリスクコミュニケーションを行い、市民のリスク認識を変えて、専門家のそれを受け入れるようにしようというものだ。
 政府・行政や企業が専門家とともに、市民の「安心」獲得を目指す、それこそがリスク評価の相違を、また「不安」をもつ市民と専門家の対立を克服していく主要な道だという考えだ。原子力の場合、それは「安全神話」の一部をなしていた。ある種の宗教の巧妙な布教のようであり、政府や公的機関が思想信条とは言わないまでも、評価が分かれる事柄の判断を一方的に押しつけてくるのは市民の自由の侵害だ。だが、たくさんの専門家をくみこんで、それが堂々と行われて来た。
 これはリスク認知、リスク評価の違いを論じ合い、相違を認めた上で、公共的に討議し、合意を求めていくというやり方とはまったく異なっている。特定専門家集団の側に正しいリスク評価があり、それと異なるリスク認知、リスク評価は客観性や合理性を欠くもので、正当性をもたないとする。討議する前にそのような判断と政治的配置を決めてしまい、特定専門家側の意志を市民に押しつけられるのを当然視するものだ。だが、特定専門家に一方的に優位を与え、政府と特定専門家に都合のよいリスク評価だけを「科学的」「客観的」とするような排除の姿勢は必ずや不信を招くだろう。
 「安全・安心」をセットで用いることは、そもそもそのような政府=特定専門家の権威づけを含んでいる。放射線の健康影響においては、このようなリスク観、リスクコミュニケーション観が跋扈してきた。しかもそれは、人文社会系の研究者の論によっても支えられてきた。人文社会系の研究者が原子力に限定せずに、広い範囲の問題を視野に収めて、危ういリスクコミュニケーション論を展開してきた。そこで用いられる「安全・安心」論が原発・放射線関係の専門家を側面から支えてきた。
 この問題は人文・社会系の諸分野にとって重い問題である。各分野からそれぞれの流儀にのっとって追究するとともに、科学技術をめぐる公共哲学の学際的な問いとして取り組む必要があるだろう。とりあえず私の目にとまった論考をいくつか紹介し、見通しをつけてみたい。
 社会心理学者の中谷内一也氏(同志社大学教授)は『リスクのモノサシ――安全・安心生活はありうるか』(NHKブックス、2006年)で、「本書はリスク情報に過剰に反応し、個人や社会がひどく混乱することを問題視するものである」という。なぜこういう問題を立てるかというと「場当たり的に過剰な対策を立て、その対策を拙速に実施することが必ずしも社会全体にとって得策とはいえないからである」。「たまたま、光を当てられたからといって小さなリスクに過大な資源を投入することは税金の無駄遣いであり、その結果、 光を当てられにくいが、しかし多くの被害者が想定されるリスクに対して十分な対応ができなくなるおそれが ある」という。pp33-35
 これは具体的にどのような事態を指していっているのかよく分からない。遺伝子組み換え作物を受け入れるか、食糧危機に直面するかといった類のトレードオフの問題についてなのか。BSE被害を防ぐために牛を全頭検査するかどうかというようなリスク対策のコストの話なのか、論題によって相当に異なってくる。仮に、これが原発の問題にあてはめられるとすれば、福島原発事故後の今、以上の中谷内氏の言明に対し、大いに疑問が起こるのは避けられない。
 中谷内氏はまた、「政府や企業の立場では、安心という心の状態にアプローチできなければ政策や商品への支持につながらず、安全を高めるだけで満足しているわけにはいかないのである」と述べているp238。これもリスクコミュニケーションを「安心」を得るための技術と見ていると受け取られかねない言い方だ。リスク評価が分かれる場合に、どうして政府や企業の立場からだけ論じなくてはならないのか。どうして「安心」の方ばかり追究されなくてはならないのか、疑問が残る。
 このように中谷内氏の叙述は、リスク軽減のためのコストをかけたくない側に寄り添っている箇所が多く、潜在的に被害をこうむる可能性がある側や未来世代への責任を重んじる側の立場への配慮が乏しい感が否めない。「安全・安心」と並べる表現は、「不安をなくす」という、ある方向性をもったリスクコミュニケーションを目指す立場に与するものであり、そのような立場性と結びついたものとなる。
 次に科学史・科学哲学の専門家である村上陽一郎氏(東京大学名誉教授)が『安全と安心の科学』(集英社新社、2005年)で展開している議論を見よう。「昔中国の杞の国の人で、天が落ちてきはしないかと気に病んだ人がいて、「杞憂」という根拠のない心配をすることの喩えになりましたが、この文明のなかでは、何が何時どう起こるか判らない、という不安に耐えて、私たちは生きていかなければならないように思われます。」p20
 なぜ、科学技術が発達した社会の問題を理解するために「杞憂」を持ち出すのか。リスクの制御には限界があるので、ゼロにはならない。だが、それをあくまでゼロにせよとする人たちがいるために科学技術の活用が制限されてしまう。村上氏は原子力がその典型だと言いたいようだ。実際はリスクがどれほどのものかの評価が問題だったのであり、リスクの過小評価のために対策を怠った結果が福島原発事故だった。
 「例えば、先ほど触れた「杞憂」という概念は、まさしくこの点を衝いていますでしょう。誰も天が崩れ落ちるという「危険」に可能性をまともに考えません。それでも、問題の杞の人の「不安」を取り除くことはできないのでしょう。/日本の現場で、このことが最も顕著に表れているのが原子力の 世界ではないでしょうか。原子力発電の世界では、日本の現場のサイトで死者は一人も出していません。(中略)つまり、原子力発電の現場は、他のさまざまな現場に比べても、客観的な安全性においては優れていることはあっても、決して「より危険な」ものではありません。しかし、人々が原子力発電に抱く漠然たる不安は、どうしても払拭されません」。P33-34
 村上氏が何を根拠に原子力発電の現場は「より危険な」ものではないと判断したのか、3.11以後の今もそう考えるのか、聞いてみないと分からない。だが、もう1つ聞いてみたいことは、原発への不安が「杞憂」でなかったとすれば、なぜ「不安」をなくしたり、減らしたりすることを目標にしたのか、その目標は正当なものだったかということだ。
 リスクを減らす行動のモチベーションとして「不安」は重要だ。リスク評価が分かれる問題に「不安」や「安心」をもつことは、それぞれの人の自由である。企業や政府が「リスク」そのものよりも「不安」を減らしたいと考えるのこと自体も問題だが、なぜ専門家(科学者、研究者)はもっぱら企業や政府の側に立って市民の「不安」をなくし「安心」を獲得したいと考えたのだろうか。科学技術のリスクを考える際、「安全・安心」という枠組みに依拠することによって、そのような枠組みにたやすく陥ってしまう。そこには特定専門家こそがリスクを正しく認識・評価しており、異なる認識・評価は単なる錯誤だという錯覚があったのではないだろうか。
  「安全・安心」論のこのような危うさは、3.11以前から見破られていた。たとえば科学技術社会論の研究者である平川秀幸氏(大阪大学准教授)は、『現代思想』2004年11月号に掲載された「科学技術ガバナンスの再構築――〈安全・安心〉ブームの落とし穴」で、まずは「安全・安心ブーム」の歴史的背景を明らかにしている。このセットの使用例は90年代にもあるが、格段に増加するのは2000年代に入ってからだ。BSEなどの食品汚染、個人情報流出、遺伝子組換え作物など、また犯罪の増加なども含めて、リスク評価、リスク管理が重要な課題として浮上してきたという背景がある。
 政府の文書では、すでに1992年の「第13次国民生活審議会答申『ゆとり、安心、多様性のある国民生活を実現するための基本的な方策について』に「安全・安心」のセットが出てくるが、96年の『国民生活白書――安全で安心な生活の再設計』では中心的な主題とされる。これが科学技術に関わる政策と密接に結びつくのは、2004年の『安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会報告書』だという。
 平川氏は「安全・安心」を旗印とする政策は、「民主的な社会の基礎を脅かす怖れのある危険な政治的イデオロギー効果をはらんでいるのも事実である」と述べている。この危うさは科学技術政策に関わる2004年の報告書に顕著に表れているという。そこでは、「安全」と「安心」の定義がなされている。 
 「その中で「安全」は「人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである」とされる一方で、「安心」については「個人の主観的な判断に大きく依存するものである」とされている。」平川氏はこのような専門家=客観的評価対素人=主観的判断という区分は、専門家に権限を集中し、市民を専門家が下した客観的評価を受動的に受け入れるべき存在として位置づけることになるという。「「安全」は専門家や事業者、行政が科学的・客観的に定義、評価、確保するものであり、素人であるその他の人々は、それらの専門家や組織との信頼関係を通じて安全についての説明を受け入れることによって安心するという構図がそこにある。」
 平川氏がさらに問題だと考えるのは、「安全/安心」が「客観/主観」の二分法だけでなく、「科学/感情」の二分法にも結び付けられることだ。『平成12年度リスクコミュニケーション事例等調査報告書』ではこの二分法に基づき。専門家が「科学」で判断するのに住民は「感情」で判断すると述べる。そして「感情」を左右する因子として、「破滅性」(そのリスクは破滅的な結果をもたらすか)、「未知性」(そのリスクについて知ることができるか、観察可能か)、「制御可能性・自発性」(そのリスクについて自分たちで制御することが可能か)、「公平性」(そのリスクが自分たちだけに発生するリスクか)をあげている。
 しかし、「破滅性」「未知性」「制御可能性・自発性」「公平性」は、いずれもリスク評価に深く関わることであり、専門家だけの「科学」的「客観」的評価ではできないことである。住民の側の反応は住民のパースペクティブからのリスク評価に基づくものであって、けっして主観や感情の表現としてだけ受け止めるべきものではない。専門家・行政側と住民・市民側のリスク評価は、それぞれに客観的認知を基盤としながらも利害関心や価値評価を含んでおり、それぞれの主観や感情や価値観も関わっている。専門家こそが客観的と言えない場合も多い。企業活動やある種の「国益」(とされるもの)と結びつくこと、つまり科学が特定利益に追求の手段に用いられることも少なくないのであって、そのことを踏まえて公共的な討議に付されるべきものである。
 結局、この二分法は「公平性や権利、責任といった人間社会の基礎的な倫理的・法的・政治的理念や、それらについての人々の判断の問題を、感情や心理の問題に還元し、コミュニケーションを、科学的に定義されて定量化されたリスクや、そのようなリスクの科学的理解の仕方を、専門家や行政、事業者の側から素人の側へと一方的に伝達(強制)するだけの営みにしてしまう。」pp171-2こう平川氏は論じている。
 「安全・安心」という概念枠組みを使うことで、リスクについての市民・住民の判断は取るに足らないものであり、専門家の「正しい」リスク評価をどう受け入れさせるかが課題だとの考えを人々に押しつけようとしている。そこには政治的、社会的、倫理的な関心も含まれている。だが、それを無視し「科学」こそがリスク評価の全面的な主体であるかのごとく見せかける詐術がある。平川氏のこの批判は核心をついたものだろう。
 「安全・安心」という概念枠組みの欺瞞性に気が付いたのは平川氏だけではない。原子力安全問題のエキスパートであり、「市民科学者」という立ち位置をとろうとした故高木仁三郎は、2000年に刊行された遺著、『原発事故はなぜくりかえすのか』で原発推進側が「安全」に並べて「安心」を多用するようになった経緯に注目している。高木によると、そのきっかけは1995年の「もんじゅ」の事故だった。この事故以前に書かれた1995年版の『原子力白書』には「安心」はまったく出てこない。ところが事故の衝撃に対応してから出されたので、半年後の公表になる『原子力安全白書』では、「安心」が重大な関心になり、以後、それが踏襲されていく。つまり、政府・事業者や専門家の側(推進側)のリスク評価と市民・住民の側のリスク評価が厳しく対立するようになって以後、推進側は市民・住民の「安心」を獲得するということをきわめて重要な課題と自覚し、それに取り組むようになるのだ。
 高木はこう述べている。「彼らの定義によれば、安全というのは技術的な安全です。工学的な安全と言ってもよいかもしれません」。つまり「もんじゅ」事故が起きても人が死んだわけではないから安全は保たれた。しかし、人々を不安に陥れてしまった。「彼らが言うところの技術的安全と、国民が考える安心との間のクレディビリティ・ギャップ」を問題にし、それを「広報において埋める」という問題意識だった。そこでは「説明」によって切り抜けることが問題であり、事故に対する責任を自覚して安全性を問い直すという発想は抜け落ちていた。
 科学記述のリスクにつきさかんに「安全・安心」が言われ出すのは、平川氏がいうように2000年代に入ってからだが、原発のリスクの領域では、すでに1995年の段階で「安心」の獲得が課題とされていた。それは政府・事業者・専門家の側の責任を自覚し改善の道を求めるのではなく、住民・市民の側のリスク理解の不足へと問題を押しやり、「説得」や「広報」(悪く言えば、マインドコントロール)に解決策を求めようとする態度と関連しあっていた。

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