池田大作「二十一世紀の平和路線」を読む(2)

『創大平和研究』の創刊号(1979年2月)(『池田大作全集』第1巻、収録)の論文の読解。(1)の続きです。

 この論文で池田大作氏は6つの「提言」を示している。その第1は「平和憲法の遵守」である。プロローグに続いて、「一」から「六」へとその「提言」が述べられていく。以下、「一、平和憲法の遵守」を紹介しつつ、私なりに捉えたその現代的な意義を述べて行く。まず、この節の冒頭を紹介する。

我が国の平和路線として、第1に挙げなければならないことは、平和憲法を徹底して遵守するということ、それと同時に、平和憲法の精神を共有財産にまで高めていくことであろう。憲法を守ることは、国として当然のことであるが、戦後の保守政権の在り方をみると、随所に憲法の精神からの逸脱がみられる。特に最近の「有事立法」問題をめぐっての論議などは、平和憲法そのものを形骸化させかねない危険な動向が察知され、厳重な警戒を怠ってはならないと思う。

 この書き出し部分は、2014年から2015年にかけての文章と見まがうばかりだ。「有事立法」とあるのを「集団的自衛権」と書き換えれば、今もそのまま通用する。「戦後の保守政権」とあるが、2014-2015年段階では、自公政権ということになる。
 創価学会員が支持する公明党が、大多数の憲法学者が憲法第9条に反する違憲立法とする安全保障関連法案を支持している。これは「平和憲法を徹底して遵守する」という池田大作名誉会長の言葉に反するものではないだろうか。また、この法案を圧倒的な世論の反対にもかかわらず国会で成立されることは、「平和憲法そのものを形骸化させかねない危険な動向」ではないだろうか、
 公明党のある国会議員は以下のように述べている。
  

外国の武力攻撃が発生し、日本国民が犠牲になってしまった、とする。政府は、国民の生命を守れなかった点で、憲法13条違反に問われる。この時に、政府が採用した学説を唱えた憲法学者は、責任を取るか?誰も取らない。責任は、すべて政府にあることになる。結局、国民の生命を守ることに責任を持つ政府と国会が、安全保障に関する憲法解釈を作るしかないのだ。(遠山清彦衆議院議員FB2015年7月9日 

https://www.facebook.com/toyama.kiyohiko1/posts/872241566185722 )

 これでは、これまでの憲法解釈からは憲法違反であっても、時の政府が国民を守るために「絶対必要」と考えれば、その通りに実行してよいということになる。立憲主義の否定である。「憲法の遵守」や「法の安定性」を重視しない発言と言わなくてはならない。しかも、ここでこの公明党国会議員があげている例は、個別的自衛権の範囲の事柄であり、憲法学者が違憲と述べている事柄ではない。このように論点をずらす例を持ち出して、国民多数が抱いている憲法違反の疑いを頭から否定しようとする態度は、「平和憲法そのものを形骸化」するものではないだろうか。
 書き出しにおいて、憲法第9条を守ることが、「二十一世紀の平和路線」の核心に関わるとの考えが示されていることを見た。論述は、次のように続く。

言うまでもなく日本国憲法は「前文」と「第九条」において、恒久平和を貫くことを強く誓っている。そのためには「前文」が「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べているように、国際信義にのっとることを、第一義としている。この点は、作成時の経緯はどうであれ、核時代における平和の在り方を、鋭く先取りしたものである。
前に触れたように、近代戦争の主導権を握っていたのは、あくまで国家であった。若干の例外はあるとはいえ、主権国家と主権国家とが、国益や威信をかけて争うのが、近代の戦争の主たる形態をなしていた。我が国の平和路線として、第1に挙げなければならないことは、平和憲法を徹底して遵守するということ、それと同時に、平和憲法の精神を共有財産にまで高めていくことであろう。憲法を守ることは、国として当然のことであるが、戦後の保守政権の在り方をみると、随所に憲法の精神からの逸脱がみられる。特に最近の「有事立法」問題をめぐっての論議などは、平和憲法そのものを形骸化させかねない危険な動向が察知され、厳重な警戒を怠ってはならないと思う。

 ここで池田氏は日本国憲法は平和を尊ぶ基盤として、「国際信義にのっとることを、第一義としている」ことに注目している。そして、それは近代戦争のあり方への強い反省に関わるものだと見ている。「主権国家と主権国家とが、国益や威信をかけて争う」ことは「国際信義」を尊ぶことに反するのだが、国家主義的な政治はそれを好んで行ってきたのだった。

しかし、核兵器の出現は、こうした近代戦争の概念を、根底から覆すものであった。それは、破壊力、殺傷力のあまりの巨大さゆえに、“使えない兵器”としての性格をもっていたからである。核兵器の使用による被害は、敵国のみならず自国にも及ぶ。それどころか、核拡散が進むにつれて、それは、人類絶滅にも通じかねない。国家観の戦争に使用するには、あまりに“高価”な代償をともなうことは、だれの目にも明らかである。

 ところが、核兵器の開発は、国家間の戦争を選択肢から排除せざるをえないものにしている。国家観の戦争が始まれば、核兵器の使用を視野に入れざるをえなくなるからである。ならば、なぜ世界の大国、あるいは大国たらんとする国々は核兵器の開発に力を注ぐのか。

そこで案出されたのが、核抑止力という“神話”である。核兵器の脅威をもって相手に恐怖感を与え、戦争抑止に役立てようとするこの考え方は、徹頭徹尾相手への不信感に根差すものであった。不信は必ず不信を呼び、相互不信の悪循環はとどまるところをしらない。その後の核拡散の進行、あるいはSALTなどの米ソ間の核軍縮交渉が、一向に進まない現実をみても、抑止力信仰の破綻は明らかである。「諸国民の公正と信義に信頼」することを謳った日本国憲法は、そうした不信を信頼に変えることを宣言している点で、まさに画期的なものであった。

 国家観の不信を国際的な信頼に変えることを目指すのが、第9条をもつ日本国憲法の理念であり、池田氏はそれは世界史的な先進性をもつものと見なしている。

しかもそれは、国家主義よりも国際主義を重視している点で、経済、文化等の面でも その後の動向を先取りしているといってよい。通信、交通機関の発達は、世界的な情報量の増大をもたらし、国家や国益に縛られない各種民間団体や民間人の国際交流は、想像以上に活発化している。
また経済の面でも、多くの留保を必要としながらも、国際化、国際協力が進んでいくのは、必然といえよう。悪名高い多国籍企業などにしても、一方的に非難するだけでなく、こうした流れのうえからとらえていく必要もあるのではなかろうか。

 「悪名高い多国籍企業」というのは36年後の今日の言い方に直せば、「悪名高い資本主義クローバリズム」といったところだろう。グローバルな資本主義経済の下で、格差の拡大が世界中に及び、先進国でも貧困に苦しむ人びとが増大している。しかし、国家は世界市場をまたにかける大企業の利益を守る方向に向かいがちである。1970年代の末の段階でも、先見性ある経済学者はそれを見通していた。

私は昨秋、アメリカの経済学者であるガルブレイス教授と対談する機会を持ったが、氏もそのことを重視しているようであった。ただし、現在の多国籍企業の在り方には、強い批判を持っており、何らかの規制――それが一国のものであれ多国籍的なものであれ、「公共の目的に企業権力の行使を合致させるような強固な規制の枠組み」の必要性を主張していた。そのうえで、企業の在り方が国際性を強めてくることは、時代の趨勢とみているようであった。私は一つの見識であると思っている。
このように、経済、社会、文化のあらゆる方面での国際化の波は、今後強まりこそすれ、決して弱まることはなかろう。また、そうさせてはならない。従来の国際関係といえば、どうしても政治や軍事が先行し、そこで表面に立つのは国家であり、人間は脇役に甘んじていた。そのような流れは、徐々に崩れつつある。

 ここで池田氏は「国家」と「人間」を対置させている。「国家の威信や尊厳」を重視する立場と、「人間」や「生命(いのち)」の現実に即した立場からでは異なった指針が引き出される。後者こそが平和憲法を遵守する立場だというのが池田氏の主張である。
  

こうした時流を、調和ある方向へ向け、人間を主役とする場を創造することこそ、二十一世紀へ向けての平和路線の、最も重要な課題である。それには、それぞれの民族が互いの自主性を尊重しつつ協力し合っていく、国際信義の回復がなされなければならない。日本国憲法を順守し、内実化していくことが要請されるゆえんもここにある。

 ここには、日本が積極的に支持してきた「人間の安全保障」に通じるような考え方がある。それはまた、ヨハン・ガルトゥンクが説く「構造的暴力」や「積極的平和」にも通じる考え方とも適合する。池田氏がこうした考え方を1979年の時点ですでに提示していたことは、注目すべきところだ。
 実際、池田氏はヨハン・ガルトゥンクとの共著、『対談 平和への選択』を1995年に刊行している。そのガルトゥンクは、安倍首相が貧要する「積極的平和主義」の語について、「私が1958年に考えだした「積極的平和(ポジティブピース)」の盗用で、本来の意味とは真逆だ」と述べたと伝えられている。(The Huffington Post 2015年6月25日投稿記事 http://www.huffingtonpost.jp/kenji-sekine/japan-positive-peace_b_7651094.html )
 池田氏は1979年の時点で、平和を掲げる日本国憲法の考え方は、「人間の安全保障」やガルトゥンクが言う意味での「積極的平和」に通じるものであると捉えていた。こうした平和観・戦争観は2015年の現在に示唆するところが大きい。
 平和憲法をもっているからこそ、「人間の安全保障」や「積極的平和」の側面で大きな役割を果たしてきたのが、これまでの日本であった。戦争を通して世界秩序に貢献しようとし、むしろ憎しみの種をまいてきたのではないかと疑われることが多いアメリカ合衆国とは大きく異なる位置に日本はある。この論文は、日本国憲法の下でそうした位置取りをしてきた日本の宗教者からの発信としてよく理解できるものである、今も意義をもつものだろう。

((3)へ続く)

 
 

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