原発被害不安地域の残留者に支援を

21日夜半、民報のテレビニュースで福島県いわき市等で多くの人が町から脱出を始めており、残された高齢者や移動しにくい人が困っていることを知った。「ぽつぽつ疎開を進めてもよいのでは……」とブログに書いた者として心穏やかでない。だが、他の場所に移動しようとした人たちを誰が非難できるだろうか。そんな気持ちでツイッターに書き込んでいたら、福島県の当該地域の方々からの返信があり、やりとりをするうちに当地関係者の方々の気持ちを伝える言葉に出会い、急にその地域の方々のことが身近になってきた。

すでに福島県の方々はかなりの数で移動を始めておられるのではないかと思ってはいた。だが、具体的に人が減った都市や地域を想像することができなかった。21日夜のテレビニュースを見て、年寄りや「交通弱者」が残されておりかろうじてボランティアの若者が助けて生活が成り立っていることを知った。「疎開」を説く者がしてその可能性が浮かんだから移動したというほど、「疎開のすすめ」に責任があったかどうかは分からない。だが、「避難受け入れ」を表明する他地域があったのには、「疎開のすすめ」の効果が関わっていたかもしれない。

私の想像力に欠けていたのは、大量に「疎開」、あるいは脱出・避難が進んだ場合、新たに生じる残された人々の生活、人口過少地域の生活はどうなるのかということだった。私は自分が首都圏にいるものだから、どうせここに残っていてもたいしたことはないだろうというような気持ちで、中高年は地域生活の維持のために残ることを是とすると述べていた。だが中年は子供がいることが多いから、子供といっしょに脱出してしまう。そうなると高齢者や他の脱出しにくい孤立した人たちが残ることになるのは、考えてみれば当然だったかもしれない。

しかし、これは「風評被害」だろうか。安全地域なのに危険だという「風評」にだまされて逃げてきたのだろうか。自分だけの安全を守り便利を得ようとする利己主義者なのだろうか。どうも私にはそうは思えない。住民は諸情報を勘案して放射能の危険を察知して、やむをえず退避したのだ。その判断が誤りだ、正しくないと言える人はいるだろうか。少ないのではないかと私は考える。放射能の危険は確かによく分からない、が、またリアルなものなのだから、家族やわが身の安全を守るための退避行動は不当なものではない。

とはいえ、そのために高齢者や孤立した人などが残されて困っているとしたらどうか。これは何とか改善しなくてはならない問題だ。取り残される人たちもともに外部に出ていくべきだろうか。だが、避難命令も屋内退避も出ていない地域の住民、また共同避難地が指定されていない地域の住民にとっては難題だ。高齢者等、残された人たちの避難を支援することを考えていい。しかし、これは行政にはしにくい。住民が自発的に行うべき事柄だからだ。そこで、民間の支援が必要になる。私はたとえば宗教団体が大きな役割を果たせる領域ではないかと考える。

だが、それ以上に必要なのは残された人々の現地での生活を支援することだ。これは報道され一つの例にすぎないが、いわきでは地元のボランティアによる支援がなされているようだ。しかし、彼らも避難したいところかもしれない。とすれば、外部からの支援が必要になってこよう。長期的に住むのではない外部の人たちが入れ替わりながら一時的に現地での支援に携わるのが健康被害の対策という点からもよい。さらに、それはどちらかといえば、中高年者が携わる方がよい。青年海外協力隊の中高年者版がシニア海外ボランティアである。それに近いようなどちらかといえば若くない人たちの支援が望ましい。

というのは、原発周辺地域での健康への不安はその影響が子供や妊婦についてまず考えるべきことだからだ。体内に放射性物質が入った場合、遺伝子に影響を及ぼす。そしてだんだんと白血病や他のがんなどの病気を起こす可能性がある。これは影響がすぐには現れないが長期的な未来に現れうるものだ。要するに中高年者はそれほど恐れてなくてもよいものだ。というより、やはり若者は避けた方がよいのだ。

この問題は長期化する可能性がある。とにかく原発の危険が去ってほしい。心からそれを願っている。だが、早期に原発の放射性物質拡散が収まったとしても、すぐに現地に帰ることができるかどうか、不安が取り除けないかもしれない。なかなか帰れなくなる可能性を排除できないのだ。そえだけ不安は募る。焦りも生ずる。そうした気持ちをやわらげるためにも、長期的な展望をもっての支援を考える必要があるだろう。

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