中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(1)

一、前置き

東日本大地震が引き金となって起こった福島第1原子力発電所の事故により、大量の放射性物質が放出された。この事故により多数の周辺地域住民が移住や長期の避難生活を強いられている。また、避難を指定されていない人たちの多くも、放射性物質による汚染から生ずる健康被害のリスクを見越して、さまざまな対応を迫られている。小さな子供をもつ親や妊婦、また学校・保育所等の関係者の悩みは深い。農水畜産業に携わる生産者を初め、多くの職業人が甚大な損害をこうむっている。節電による困難も小さくない。広い地域の多様な人びとに影響は及んでいる。

この問題に関わり、放射線の専門家たちが低線量の放射線では被害がないと断言したり、強く示唆したりしている。他方、低線量の被曝も人体に深刻な影 響を及ぼす可能性があるとし、政府や自治体の対策が不十分だと批判する学者もいる。多くの市民はどちらが正しいのか分からず、とまどい途方に暮れている。

放射線の人体への影響によるがんで死に至ったり他の障害で苦しんだりする可能性がどのぐらいかについては諸説あって学者の意見も分岐している。「安全」派と「万全対策」派が対立して歩み寄る気配がないのだ。では、どうしてこのような分岐が生じたのか。

こ れについては、放射線被曝とその健康被害がどのように評価されてきたか、また、それを防ぐための防護措置がどのように定められてきたかの知識が鍵となる。 私は3月以来、そうした過去の経緯についての確かな著述を探し求めてきたが、勉強不足でなかなか思うようにいかなかった。ようやく最近になって、中川保雄 『放射線被曝の歴史』(技術と人間、1991年)がまさに私の望む知識を提供してくれる書物であることが分かった。

この書物は絶版となっ ており、古本屋で高額の商品となっている。読みたいと思う読者が手に取るのは容易でない状況だ(今秋復刊とのことです)。何とかその記述の価値を示したいと思い、私はその一部をツ イッターで抜粋紹介してきているが、それもだいぶ時間がかかりそうなである(8月6日でしめくくりました)。そこで、この本の全体の概要を示すために、ここに結論部といってもよい第11 章をまず前半だけでも要約して紹介したい。(以上、( )内は8月7日午前の書き足しです。)

著者は1943年生、阪大工学部出身で神戸大学教授として科学史を教えたが91 年に病没した。この遺著は、豊富な参考文献があげられており、時間をかければ典拠に遡って確認できるはずの歴史学的な立証の手順がとられている。だが、死 が迫った病牀で口述しながらまとめたために学術書の形はとっていない。論拠がすぐには確かめにくいと思われるが、それはやむをえない。他方、分かりやすい 一般書の形態をとっているため、理解しにくい内容ではないという利点もある。刊行後20年を経ているとはいえ、商業的にも十分に成り立つ書物であり、一日 も早く復刊されることを願いつつ、要約の作業にとりかかることにする。

二、被曝の歴史の概要p.196-200

第11章は「被曝の被害の歴史から学ぶべき教訓は何か」と題され、37ページほどの長さである。最初の8ページほどで19世紀末から1970年代までの歴史の要約がある。ここを中心に紹介したい。

1895年のレントゲンによるX線の発見以来、核分裂や放射線の利用と健康被害は切り離せないものだった。レントゲンの助手の指は原型を留めぬまでに変形した。1898年にラジウムを発見したキュリー夫人は白血病で死亡した。「第1次世界大戦から第2次世界大戦までは、X線装置や放射性同位元素の利用が急速に拡大したが、その過程で放射線作業従事者の間で放射線による犠牲者が多く産み出された」。また、診断や治療を受けた人たちにも被害者が生まれた。

以上が第1の範疇とすれば、放射線被害の第2の範疇は第2次世界大戦による核兵器開発とともに始まる。核兵器製造に従事した労働者の被曝だ。

「マンハッタン計画についてアメリカ原子力委員会は、重大な放射線事故は一度も起こらなかったし、犠牲者も出なかったと主張し続けたが、ハンフォードの原子力施設の労働者を対象に多数の労働者がガン、白血病で死亡していることを明らかにしたマンキューソの調査が、1970年代に発表されるにおよび、ようやくマンハッタン計画とその後の核兵器製造に従事した労働者たちの被害が明らかになりだしたのである」。

放射線被害の第3の範疇は、原爆の被害者。広島・長崎25万人以上の死者、40万人を超える被爆者。「これにはマーシャル群島の核実験被害者、アメリカ、ネバダ周辺の核実験被害者が含まれる。マーシャル諸島の被害者およびネバダ周辺の核実験被害者が含まれる。マーシャル諸島の被害者およびネバダ周辺地の被害者の大きな特徴は、少数民族が多大の被害を受けたということである」。

第4の範疇はウラン採掘、精錬過程における被曝の被害者。アメリカのニューメキシコなど、ウラン採掘地域に住むアメリカ先住民、同じくカナダのウラン採掘地帯に住むカナダ先住民、オーストラリアのアボリジニー、ナミビアや南アの黒人達。彼らの被害は最近ようやく知られるようになった。ナバホの例では、「ウラン坑夫として働いてきた男たちの間で高い割合で肺ガンが発生していること、また、その家族の間では出産異常が非常に高い割合で見られること、低体重児や成長を阻害された赤ん坊、あるいは心臓や肺などに欠陥を有していたり、知能停滞児の割合が高いことが知られるようになってきた」。

1967年まではなんらの安全対策もとられてこなかった。「同年の9月に連邦放射線審議会は初めて鉱山内の換気を行い、坑夫のあびる被曝量のモニタリングを実施して、その記録を取ることを勧告したのである」。

第4の範疇は原発労働者。その被害は上昇中。「そして原発労働者があびる放射線の最近の特徴は、電力会社の社員などの正社員のあびる年間の被曝線量と、下請け労働者があびる被曝線量との格差が年々増大していることである。1989年に正社員1人あたりの被曝線量は50ミリレム(0.5mSv)であったが、下請け労働者のそれは、170ミリレムで、正社員の3.4倍もの被曝をさせられていたのである。」「その結果、原発労働者があびる総被曝線量の95%以上が下請け労働者に集中させられているのである。商業用原発が今日100基を数える規模に達したアメリカでは、原発労働者の数はおよそ数十万人に達しており、その総被曝量も45万人・レムの規模に上っている」。下請け労働者の健康の実態は当然のことながら調査されていない。

三、防護基準による被害への対応の歴史p200-202

(1)職業病としての放射線障害防止を目的とした時期(1928-1950年)

「放射線関連学会、協会が中心になって国際X線ラジウム防護委員会を設立し、放射線医師・技師などを対象に、職業病としての放射線障害を防ぐために、主として放射線の急性障害を考慮した「耐用線量基準」を生みだした」。

(2)核兵器開発・核軍拡政策にそう被曝管理を最大の目的とした時期(1950-58年)

「アメリカ原子力委員会の主導の下に国際放射線防護委員会(ICRP)が作られ、戦後の国際的被曝防護体制が再編成された。核兵器の放射線による遺伝的影響の問題が、社会的かつ科学的に大問題となり、「安全線量」の存在を認める耐用線量の考えは放棄せざるを得なかった。しかし、新たに導入された「許容線量」の考え方でごまかしがはかられ、「安全線量」が実際には存在するかのように宣伝された。」

(3)核開発に加えて原子力開発が被曝管理の大きな目的になった時期(1958-77年)

「核実験による死の灰の降下に対する国際的な不安と反対の高まりによって、ICRPは被曝線量限度の引き下げを余儀なくされた。しかし原発推進策に添うように被曝防護の考え方を手直しするため、リスク-ベネフィット論を導入し、リスクの「科学的」過小評価と社会的利益(ベネフィット)の強調で、許容線量被曝の受忍を被曝労働者のみならず一般人にも迫った」。

(4)反原発運動が発展して原発の経済的行き詰まりが現れはじめ、原発推進策を経済的・政治的に補強する被曝防護策が必要になった時期(1977- )

「原発・核燃料サイクルの経済的行き詰まりが、アメリカを筆頭に顕在化し始めた。加えて、アメリカのスリーマイル島およびソ連のチェルノブイリで原発重大事故が発生し、反原発運動の世界的高まりによって、原発・核燃料サイクルの経済的・政治的困難性が一層明瞭となった。ICRPなどは、被曝の防護という建て前を明らかに犠牲にしてまで、原子力産業を防護するという本年を主張するまでになった。社会的・経済的要因を重視するコスト-ベネフィット論を導入して、経済的観点から被曝の防護を行うこと、生命の金勘定を行うことを公然と始めた」。

四、被曝を人々に強いる側がその都合に合わせて基準を定めてきた歴史p202-3

「ヒバクとその防護の歴史においておさえられるべきことは、まず第一に核兵器の開発と核軍拡、および原子力開発とその推進策が、世界の各地でいろいろな種類の、膨大な数にのぼるヒバクシャを生みだしてきたことである。第二に、その犠牲の上に核・原子力を進めてきた当の国家や原子力産業が、その推進策に添う放射線防護策をも作り上げてきたことである。第三に、その被曝防護策の基礎にあるのは、放射線被曝による生物・医学的影響に関する科学的評価であるが、それもまた、ヒバクの犠牲を強いる人たちによって、自らの利益にかなうようなやり方で評価されてきたということである。

今日の放射線防護の基準とは、核・原子力開発のためにヒバクを強制する側が、それを強制される側に、ひばくがやむをえないもので、我慢して受忍すべきものと思わせるために、科学的装いを凝らして作った社会的基準であり、原子力開発の推進策を政治的・経済的に支える行政的手段なのである。

しかし、この歴史の実態と真実は、これまで明らかにされることはほとんどなかった。なぜなら、「放射線防護」に関するほとんどすべての解説や説明が、ヒバクを強制する側の人々によってもっぱら書かれてきたからである。ヒバクを押しつけられ、犠牲を強いられる人々の側から、ヒバク防護の歴史が語られることはこれまでなかったのである。

その結果、上のような基本的性格を持つ放射線防護基準が、「国際的権威」とされるICRPによって「科学の進歩によりなされた権威ある」国際勧告として示され、それを受けた形で原子力推進派がそれぞれの国々の法体系の中にその国際勧告を採り入れるという仕組みが築き上げられてきたのである。」

五、現在の被爆問題の特徴p204-

以下も重要な論述が続きますが、別に紹介します。

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1 Response to 中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(1)

  1. 小山広明 のコメント:

    大変興味ある内容でした、有り難うございました。

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