チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ――イリーンと重松の連携が3.11後の放射線対策にもたらしたもの―― (1)レオニード・イリーン、重松逸造、山下俊一

 中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年、増補版、2011年)は放射線健康影響についてのICRPなど国際機関の「科学的」見解が、どのような政治的背景を反映して変遷してきたかを示した名著である。だが、この書物が対象としているのは1990年頃までであり、チェルノブイリ事故をめぐる事態の展開が、その後の放射線健康影響・防護の動向にどのように関わっているかについては述べられていない。
 では、チェルノブイリ事故をめぐる放射線健康影響・防護の展開について、またそれが3.11後の放射線対策に及ぼした影響についてはどのようにして知ることができるだろうか。中川が行ったような本格的な調査研究はとてもまねができないが、それでも大いに参考になる手頃な書物がいくつかある。
 いずれも、チェルノブイリと福島原発の事故後に政府側から強力な指導力を行使し、また論陣を張った3者の著書、すなわち、重松逸造『日本の疫学――放射線の健康影響研究の歴史と教訓』(医療科学社、2006年)、長瀧重信『原子力災害に学ぶ放射線の健康影響とその対策』(丸善出版、2012年)、そしてレオニード・イリーン『チェルノブイリ:虚偽と真実』(長崎・ヒバクシャ医療国際協力会、1998年)である。
 ここで日本人の著作2点をあげたのは、外国語文献をよく調べていないという私の力の限界にもよるが、それだけによるのではない。チェルノブイリ事故後の放射線対策については旧ソ連地域で主にロシア語で著された文献が重要であるはずだが、それらが世界に知られるようになるまでに時間がかかる。他方、日本からチェルノブイリ支援に入った医学者はたいへん珍重され、大きな仕事を託された。とりわけ、重松逸造、長滝重信、山下俊一らの諸氏がそうである。
 広島・長崎の原爆による放射線健康影響について多くの知識をもち経験をもっているはずの科学者として、彼らはチェルノブイリ事故による放射線健康影響の調査研究で重要な役割を果たす任務を託された。その経過や調査結果について、分かりやすく述べたのが、『日本の疫学』や『原子力災害に学ぶ放射線の健康影響とその対策』である。
 他方、旧ソ連側の医学者はどのようにこの問題に取り組んだのか。その点で、イリーンの『チェルノブイリ:虚偽と真実』(1994年刊のロシア語原本の英訳版を日本語に訳したもの)は格好の書物である。1923年生まれのL.A.イリーンはチェルノブイリ後のソ連の放射能対策で指導的な役割を果たした医学者だ。
 このイリーンの書物は、現在、ウェブ上http://www.nashim.org/jp/pdf/index.html で見ることができるものの、書物として入手するのは困難である。しかし、2011年3月11日以後の日本で、放射線健康影響・防護の専門家が、なぜ市民にとって、とりわけ被災地住民にとって分かりにくい施策をとってきたか、その際、チェルノブイリ事故後の旧ソ連の放射能対策がこの問題にどのような影響を及ぼしたかを知る上できわめて重要な資料である。そこで、この大著の内容をその側面にしぼって紹介していきたい。
 まず要点を述べておくと、『チェルノブイリ:虚偽と真実』(日本語訳1998年刊)を見ることで、長瀧重信氏や山下俊一氏らが主導して「不安をなくす」ことを最優先する考え方の背景が見えてくる。チェルノブイリで旧ソ連政府側医学者がとった姿勢が、そのまま長瀧氏や山下氏に引き継がれている。その考え方がどの程度科学的な根拠があるものなのか、政治的な都合に基づくものなのか。どのような政治的意志と対立があったのか。これらを理解する材料として大いに参考になる書物なのだ。
 訳書監修は重松逸造・長瀧重信の両氏、山下俊一氏他7名が訳者、そして長崎・ヒバクシャ医療国際協力会が発行所となっている。長崎・ヒバクシャ医療国際協力会(NASHIM)については以下のウェブサイトでおおよそが分かるがhttp://t.co/WEXcwc6M 、長崎大医学部が全面的に関与して設立されたものだ。また、重松、長瀧、山下の3氏は笹川チェルノブイリ医療協力(1991~96)でチームを組んだ科学者集団のリーダーたちだ。
 「監修後記」(正誤表では「監訳後記」)は山下氏が執筆していることからも分かるように、山下氏が訳者の筆頭格だ。その山下俊一氏の「監修後記」では、まず1992年にNASHIMが設立された主旨が説明されている。出版もその主要な活動の1つだという。そして山下氏は次のように述べる。 

「「チェルノブイリ:虚偽と真実」は従来のチェルノブイリ関係の翻訳からすれば、かなり異色のものとなりました。それは旧ソ連のまさに体制の中にいた、いや今でもモスクワ放射線物理学研究所の最高権威であり、国の代表として長年放射線関連プロジェクトの中枢にいるイリーン博士そのものの作によるものだからでしょう。厳しさの中にも、誠実で温厚なお人柄ですが、激しいマスメディア関連の非難の矢面にたたされても決 して臆することなく、堂々と論陣を張られた姿勢が、本書の中にもたびたびでてきます。また旧ソ連邦の放射線科学の歴史と世界の放射線関連の科学界との関わりを知るにも格好の書となっています。立場上、発言の制限や自己中心的な表現が散見されますが、ご理解いただきたいと存じます。その為、 ジャーナリストの作とは異なり、いわゆる体制側と言われている代表者の代弁のきらいも否定できません。しかし、真実を見極めるためにはこれらの発言に耳を 傾ける謙虚さも必要でしょう。」464-5ページ

 山下氏が「自己中心的な表現」とか「いわゆる体制側と言われている代表者の代弁のきらいも否定できません」と述べているのは、日本語訳が刊行された1998年の時点では、山下氏がイリーンの立場にすっかり同調するつもりはなかったことを示している。福島原発以後は、山下氏が「いわゆる体制側と言われている代表者の代弁」者(なお、「代表者の代弁」は文意が取りにくい)と見なされているのは、まことに皮肉なことである。 
 山下氏「監修後記」は、また「そこで、正しくチェルノブイリを理解する一助となると考え、あえてNASHIMの放射線ヒバクシャ医療出版事業に取り上げさせていただきました」とも述べている。「あえて」翻訳出版したということは、イリーンの立場に山下氏は全面的には賛同できないということが匂わされている。どう賛同できないのか、福島原発事故後の発言と照らしあわせて説明していただきたいものだ。現在はイリーンの考え方をそのまま貫き通そうとしているように見える山下氏だが、この記述は、訳書刊行当時、イリーンの立場に批判的である長崎や広島の医学者の視線を意識した形跡と見ることもできるかもしれない。
 同書には監修者の一人、重松逸造(1917~2012)の「巻頭言」も付されている。放射性影響研究所(放影研)の理事長を16年にわたって務め、チェルノブイリでは被害を小さく見積もろうとするソ連政府側のイリーンに全面的に協力し、1991年にIAEAの国際チェルノブイリ・プロジェクト報告書を国際科学者集団の長として作成した重松こそが、日本語版刊行の立役者であることをうかがわせる文章である。
 そこには重松のイリーンへの敬意 と同盟者意識が強く出ている。チェルノブイリ事故当時のソ連のペレストロイカ(経済改革)、グラスノスチ(情報公明)にふれて、こう述べている。

「このような政治的、社会的混乱は、事故による健康影響を心配している周辺住民に非常な不安をもたらしたことは事実のようで、当初は情報不足によるいろいろなデマが横行し、グラスノスチの進行とともに、今度は情報過多の現象が現れたと伝えられた。要するに、専門家だけでなく、政治家やマスコミ関係者などが過小から過大にいたる両極端の間で、各自の評価や推測をばらばらに住民に伝えたためで、住民の間に大きな戸惑いが生じたのも無理からぬことであった。これらの情報はマスコミやルポライ ターと称する人達の報告などを通してわが国にも伝えられ、真偽が確かめられないままにチェルノブイリ事故の真相として国民の間に定着する傾向がみられた。」

 「イリーン[生物物理学研究所]所長とは、私がソ連政府の招聘でチェルノブイリ調査に訪れた1988年秋にモスコーで面談したのが初対面であった。(中略)私も、彼とはかなり頻繁に学友として交流を続けながら今日に至っている。
 本書はチェルノブイリ事故後7年目ぐらいまでの状況をカバーしているが、もちろんこの時点では事故の全貌はまだ明らかとなっていない。だからといって、事実でない虚偽の横行を許すべきでないのはもちろんで、この点を本書は厳しく指摘している。」

 「事実でない虚偽の横行」という強い断言的な表現は、重松氏の原発推進側強硬派らしい姿勢をよく表している。断固としてソ連政府側、イリーン側に立つという強い決意を示すものだ。「事実でない虚偽の横行を許すべきでない」とあるが、子どもの甲状腺がんについてはイリーンや重松の「科学的知見」が楽観的すぎたことは、イリーンの書物の刊行時から次第にはっきりしてきたことだ。そんなことは無視するかのように、重松氏はつねに自分の側に真実があったかのように書いている。
 だが、そこまでイリーンを称揚する背後には、イリーンと重松の個人的な親交があることも匂わせている。重松はイリーンの盟友として、放射線健康影響軽視の旧ソ連の立場を支える役割を果たしたのだが、個人的な友情を裏付ける「告白」とも受け取れる叙述がある。
 「なお、私事に関連して恐縮だが」と重松はイリーンが本書でしばしば名をあげている放射線生物学・遺伝学のティモフェイエフ・レソフスキー博士にふれ、1990年に創設され、放射線影響等の生命科学分野で功績のあった科学者に贈られるティモフェイエフ・メダルを1994年に重松が受賞したことを述べる。「このメダルの裏面にはティモソフィエフ博士の言葉“生命科学で重要なことは、本質的なものを非本質的なものから区別することである”が刻まれている。」このようにイリーンと重松は親密な関係にあり、ともに自分たちこそが「本質的なもの」を捉えていたと言うのだが、それには多くの異論があるだろう。イリーンも重松もそれをよく自覚していたはずである。
 以上のように、重松「巻頭言」と山下氏「監修後記」にはだいぶ距離がある。重松はイリーンを全面的に支持し、自分こそ「科学者」代表で批判的な言説を「許さない」という強い姿勢をとる。他方、1998年当時の山下氏は、それは「自己中心的な表現」であるとか「いわゆる体制側と言われている代表者の代弁のきらいも否定できません」と感じ、それでも当時の旧ソ連の状況を知るために「あえて」翻訳するのだとの立場を取っていた。
 イリーンと重松逸造が共同戦線を張って放射線の健康影響は小さいとしていたことは、本文中に何度か記されている。それにふれる前に重要な前提について述べておこう。この書物はチェルノブイリ事故では放射線の影響による甲状腺癌も生じなかったという立場をとって来た著者が書いたものだ。ロシア語原著は1995年刊だが「1995年まではロシア共和国では「甲状腺癌の増加は認められない、増加の原因はスクリーニングなど診断の機会が増加したからである」と発表していた」(長瀧著『原子力災害に学ぶ 放射線の健康影響とその対策』p59)。
 もっとも甲状腺障害についての記述は所々にある。まったくふれてないわけではなく、1996年の第2版で書き加えられたのではないかと思われる記述もある(第2部第5章、第6部第1章)。第6部では放射線の影響による甲状腺がんを認め ている。また、ヨード剤の予防的投与の問題も論じられている。だが、低線量被曝では被害がない、避難は必要ではなかったとの主張は翻していない。甲状腺がんの著しい増大の判明後もイリーンは自説を変えなかったのかもしれない。しかし、この書物執筆の段階ではそれはまだ見えていなかったということは念頭に置いておきたい。
 イリーンは甲状腺がんが放射線影響ではないという論の責任者、またはそれに近い立場の人だった。甲状腺がんの被害はなかったという立場をとっていたこともあって、チェルノブイリ事故後にイリーンらが立案した避難等の放射線防護策が適切だったという主張が一貫して強く押し出されている。その主張の強力な支えとして重松逸造の議論が引き合いに出されている。これについては、後に詳しく述べたい。

カテゴリー: 放射線の健康影響問題 パーマリンク