イリーン『チェルノブイリ:虚偽と真実』の第1部は「チェルノブイリ事故直前のソビエトにおける放射線医学の科学的レベルとその状況」と題されている。ここでは、イリーンがこの分野の権威者として大きな力をもつ立場に至る過程が述べられるとともに、その立場でチェルノブイリ事故後の事態に対応する際、どんな困難を抱えていたかの説明がなされている。一方でソビエト連邦のこの分野の科学は高い水準にあったという主張と、しかし、チェルノブイリに十分対応できないような多くの限界があったという弁明が述べられており、その意味で分かりやすい叙述とはいいがたい。
ソビエトの放射線医学の限界ということだが、一つには秘密の分厚い蔽いがかぶされていた。そして放射線防護についての研究は少なかった。
「若い研究者や興味を抱いている読者に科学研究の主な結果を知らせるために、科学者たちは厳しい検閲とその他の科学論文の発行に伴うわずらわしい問題点をうまく切り抜けなければならなかった。原則として、公開された研究成果は一部であり、多くは未公開で発行を禁止されていた。」(5ページ)
「……人体に及ぼすイオン化放射物からの防護方法について基礎的な情報や有用な放射線学に関する科学論文は少なかった。特に放射線事故に関するものは稀少であった。実際多くの科学者は、事故の対策や対応に取り組む余裕がなかった。また同時に、原則として防護をとりあげた論文の中で、放射線防護だけを取り上げた論文は全く見あたらず、事故の時にどうすればいいかを人々に知らせる記事は、原則として限られた部数しか印刷されなかった。」(5ページ)
これらの記述をとおして、イリーンは旧ソビエトでは事故時の放射線防護について適切な知識をもっている人はほとんどいなかったことをほのめかしている。また、こうした事情があったために、チェルノブイリ事故に際しての対応もうまくいかなかったという主旨の弁明と見なすことができる。たとえば、安定ヨウ素剤が使えなかったことへの弁明らしきものも見られる。しかし、ヨウ化カリウム製剤は工場で大量生産されていた。そして
「子供の使用時の注意も含めた薬の説明書を添えて緊急時につかえるように適当な条件で貯蔵された。チェルノブイリ事故が示したように、無責任な態度とこの薬を住民に迅速に供給するシステムの欠如により大きな問題が巻き起こった。住民防御の権威者も医療スタッフもこの錠剤の説明書のストックがあることを全く知らなかったのだ。」(68ページ)
安定ヨウ素剤を使わない決定にイリーンが関わっていたことは、ここでは触れられていない。こうした叙述と、「殆どの研究分野の科学者の知識とその成果は国際的な基準に一致していて、ソビエトの科学者は海外の科学者に決して遅れてはいなかった」(67ページ)という叙述との間には矛盾があるが、これはイリーンが自分が指導して立案された旧ソ連の事故対策方針は適切だったという主張と、うまくいかなかったのは旧ソ連内でこの分野が立ち後れていただめだという主張の双方を成り立たせようとするところから来ている。
イリーンは自らが、国際放射線防護委員会(ICRP)や国連放射線影響委員会(UNSCEAR)(とりわけ後者)の他国の関係者たちとの交流を通して多くを得たことを誇る叙述も行っている。フランスのビエール・ペレリン、アメリカのフレッド・メットラーらとの交流がチェルノブイリ事故対策を立案する際に大いに力になったことが示唆されている(18~24ページ)。だが、他方、これも容易でなかったことが述べられている。イリーン自身、KGBにより5年間、国際会議への参加を禁止されていたとも述べている(19ページ)。
イリーンは叙述の背後に、自らが外国の専門家と組んで世界的な防護基準にのっとった対策を示したにもかかわらず、旧ソ連内の科学者たちにそれが受け入れられなかったことは残念だったという主張を込めている。
「もしチェルノブイリの事故の前にロシアの科学者の中にこういう基本的な仕事について少しでも知っている人がいれば状況はかわっていたかも知れない。すなわち世界の科学者たちによって何十年かけてつくられてきたこのような放射線防護の哲学についてや、国連放射線影響委員会によって詳細にわたって示されている疫学的データの研究と解釈の方法論について何が最も重要であるのかを知っている科学者がいたとしたら、チェルノブイリ事故の結果として起こった医学的な出来事に対するバイアスのかかった評価は存在しなかったであろう。その誤ちが、世間の人々の考えに悪影響を及ぼすことになってしまった。」(22ページ)
日本の福島原発事故の場合は、当初からICRPなど国際的な放射線健康影響・防護研究者組織と組んで対応がなされた。旧ソ連と比べると、日本では世界の原発推進勢力が形作ってきた国際的な放射線専門家集団と連携関係にある度合いが強かったと言えそうだ。ウクライナやベラルーシにはそうした国際的専門家集団とは異なる立場の科学者がおり、イリーンのような旧ソ連の指導的科学者と対立しつつ住民の健康のために早くから立ち上がったが、日本ではその動きがだいぶ弱い。政府と連携した専門家集団に押さえ付けられているかっこうだ。
旧ソ連内で自分の立場が通りにくいことを察知したイリーンは、チェルノブイリ事故後、ソ連放射線防護委員会のリーダーとして、外国の専門家と話し合って、適切な防護基準について立案することを思い立った。そして、1989年5月の国連放射線影響委員会にこれを議題として取り上げるよう提案した。その討議の結果、国連放射線影響委員会は5月12日「放射性物質による長期汚染」と題する文書を「記者発表」した。
「チェルノブイリ核事故に対する放射線防護に関する旧ソ連邦の決定は、現在の国際的な放射線防護政策と一致していると考えられる。これは、IAEAによって開催された放射線防護の非公式の会議で認められた。(中略)旧ソ連邦の国家委員会の議長であり、国連放射線委員会のソ連代表であるイリーンが、チェルノブイリ事故後の汚染状況と現在までにとられた対応策を参加科学者に報告した。また、世界的に採用されている改革と一致した対応策が行われた最初の数年後に残っていると思われる問題について、特別な注意が払われた。しかしながら、この様な汚染を引き起こした核事故の健康への長期影響については前例がない。ソ連邦の放射能汚染地区ら(ママ)居住する人々の生涯最大被曝線量を350ミリシーベルトとすることは正しい方法と考えられ、参加者の同意を得られた。許容線量はソ連邦政府によって決定されることが同意された。なぜならICRP勧告に従い、許容線量がその地区の状況や事故の規模に基づくからだ。」(23~24ページ)
ここで示されている「生涯最大被曝線量350ミリシーベルト」はイリーンが提起し、これによって住民の移住をできるだけ抑えるための政策として採用されかかったものだ。しかし、その後、多くの反論によってイリーン提起の基準は退けられ、もっと厳しい基準が設けられることになった。第2部以降のこの書物の叙述の主要な論脈は、その経緯を述べようとするものだ。
このことから分かることは、イリーンは自らが関わって来た国連放射線影響委員会(UNSCEAR)、そしてそれと密接な関係にあるICRP,IAEAのお墨付きを得て、放射線防護のための移住をできるだけ少なくする対策を主張したということだ。だが、それも科学的根拠とはあまり関わりがないものであり、引用した国連放射線影響委員会の「記者発表」も「国際基準に一致しないけれども許容する」という主旨だった。
社会的コストを考えれば移住は減らした方がよいと考えたイリーンは、その立場をUNSCEAR、ICRPで通して、それを支えに何とか正当化しようとした。他方、原発事故の影響をできるだけ小さく抑えたいという動機を強くもつ国際専門家集団もイリーンのその立場を後押ししたのだろう。
以上、第1部の要点を述べてきたが、このように、本書では科学的な評価よりも政治的な駆け引きについての叙述が大半をなしている。第2部「チェルノブイリでの日々」では、イリーンが1986年4月のチェルノブイリ事故の直後に、住民避難に強く反対した経緯について詳しく述べている。「私は、人々の基本的な生活の活動を妨げる方法にはどれも反対した。必要なのは、都市の放射線のデータについての情報を毎日発行することや、専門家が一般状態を都市住民に説明する必要も含んだ、よく考え抜かれた高度に専門的な説明であると述べた」(124ページ)大都市で避難を行えばたいへんなコストを産む。一方、何とか線量は限度に達していない。放射性ヨウ素もそうだ、と。
この決定は後に厳しく批判さ れた。90年2月、ウクライナ最高会議でイリーンの論敵シェルパックは、86年5月に「キエフの住民の避難をする(子供を含めて)理由がないとする意見を支持した専門家たちの責任を問うことを要求」(188ページ)した。イリーンらソ連の権威者たちはキエフから出て行けとの運動もあった。イリーンはウクライナの疑似「専門家」達と戦ったと述べている(137ページ)。89 年5月の声明でUNSCEARは、ソ連は独自の政治的な判断を許容されるということを言っているにすぎないのだが、イリーンは生涯最大被曝線量350mSVは「正しい方法」であることを強く主張した。
この経緯のイリーン自身による叙述を読めば、イリーンらがこの基準を政治的に押し通したことが明白である。イ リーン自身は国の代表として国際機関に出ている自分とその仲間こそが正統な専門家であり、他の専門家のいうことは取るに足りないという理解で、唯一の「科学的真理」宣布者としての権威を行使するとの考えを示している。
以上のようなイリーンの叙述は、七沢潔『原発事故を問う―チェ ルノブイリからもんじゅへ』(岩波新書、1996年を参照すると一段と見通しがよくなる。七沢著の第1章、第4章にイリーンの名が出てくる。イリーンはキエフの住民、とりわけ子どもたちを避難させない政策を 支える科学者の主軸だったことが分かる。
また、86年5月3日の段階で住民に安定ヨウ素剤を渡さない決定もイリーンの判断に基づくもののようだ(七沢『原発事故を問う』(37ページ~)。オルリク副首相(ウクライナ共和国)はこの日、こう述べたという。「放射線医学の専門家で、ソ連医学アカデミー副総裁のイリイン博士は、今住民に渡さない方がよいといっています。彼は10日分しかないから、今、使ってしまうと、この先もっと深刻な事態になった時に使えなくなる―という主張です。 ヨード剤の配給は見合わせましょう。」(57ページ)。
この時イリーンは事故原子炉からさらに放射性物質が大幅に放出されることを怖れていた。5月7日にイリーンと放射線測量の専門家、ユーリー・イズラエリ国家水文気象委員会議長がモスクワから到着。2人はキエフでの「汚染状況は、子どもを含めた住民の健康に危険をもたらすものではない」、「現在、食品にふくまれている放射能の値は、住民に危険をもらすものではない」と主張。2人は12時間かけて3通の勧告書を作成。例年どおりのキャンプ以外の子供の避難は不要だとした。また、「情報の一元化」などを指示しもした。
ウクライナ共和国最高会議議長のシェフチェンコ女史は これに反対、疎開を主張した。結局、5月9日、夏休みキャンプを早めて実行するという形で実質的な疎開案を採用した。25日までに52万6千人の母子・妊婦が疎開 した。(『原発事故を問う』67-71ページ)
ウクライナ政府のこの決定に対し「ソ連政府は露骨に不快感を表した」。ウクライナ側の対応が住民にパニックを起こしたと批判した。そして、5月14日被曝許容線量を引き上げるという「きわめつけの通達がモスクワのソ連保健省…から送られてきた」。「ソ連保健省は…次のような新しい基準を採用した。14歳以下の子どもと妊産婦の場合、年間10レム (100mSv)、一般人の場合は50レム(500mSv)まで許される。それ以下の場合、住民の疎開などの特別な措置はとらない」。イリーンはさすがにこれには反対して後に10レムまで引き下げられた。
それまでのソ連では年間5mSv(0.5レム)だったから、 20倍に引き上げた。その頃のキエフの線量は毎時0.5ミリレム(5μSv)というからかなり高い。(そういえば日本も1mSvを20mSvにと 20倍あげた)。七沢氏は次のように概括している。
「住民保護の対策を決める際の客観的な目安となるはずの被曝線量が、国の都合で勝手に変えられる。その動機としては、まずむやみに人の移動を認めて、パニックに導かないという政治上の大方針があった。そして 同時に、被曝線許容量を引き上げることで人の移動をさせない背景には、経済的要因もからんでいた」 (73ページ)。七沢はこう述べて、ICRPの「最適化」の論を説明するイリーンの言葉を引く。
「わが国にかぎらず、日本でもイギリスでも、アメリカでも、非常事態が起こったら、普段のレベルよりも高い基準が導入されるようになっています。これは仕方ないことだと思います。たとえば、キエフ市民三百万人が本当に疎開するとなったらどれだけの社会的費用がかかることでしょう。もちろん被曝による健康上のリスクは生じますが、それを、この社会的費用とを秤にかけて考えなければならないのです」(73~74ページ)
結局、モスクワとウクライナは妥協した。5月15日に疎開第1陣が出発した。イリーン著『チェルノブイリ:虚偽と真実』の第2部と七沢の叙述を見ると、放射線健康影響の専門家としてキエフに派遣され、ソ連側の立場を押し通そうとしたのがイリーンだということがよく分かる。当時、事故による放射線の健康被害がどれほどに及ぶか、イリーンの側に確かなデータはほとんどなかったはずなのだが。