戦後日本の在家仏教者の平和思想

「心なおしによる平和――現代日本の新宗教の平和主義」『大巡思想論叢』第16輯、2003年12月(韓国で刊行)の第4節「庭野日敬の仏教理解と平和思想(2)」を掲載します。「心なおしによる平和」の題で同じブログに掲載している「庭野日敬の仏教理解と平和思想(1)」に続くもので、庭野日敬『平和への道』佼成出版社(1972年)の平和思想の紹介です。

 このように平和はまず一人一人の心を変えることから始めなければならないとした上で、庭野はその精神を「形ある現実の世界」に具体化していかなくてはならないという。この節では、庭野日敬が平和思想をどのように、平和のための具体的な方策につなげているかを見ていくことにしよう。
 その具体的な目標の最大のものは「非武装」(non-armament)だという。「非暴力」の理想は「非武装」という形で現実かされなければならない。それは他者を信用できないために武装し、武装すると他者に不信の念を起こさせるからだ。この悪循環は個人同士で起こると同様に、国同士の間でも起こる。果てしない軍備拡張がその帰結だ。このような軍備拡張のために貧困や開発や環境の問題がなおざりにされている。しかもこのような強大な軍備の下で核兵器による大量殺戮に進みかねない。

 それでは、戦争を回避するには、どうすればよいか、ということですが、先に述べた「武装している相手は心から信用できない」という原理にもとづいて、軍備を撤廃することです。武装をやめることです。これが、地球上から戦争をなくす最も直接的な、そして最大の道なのです。
 実際に、1959年の国連総会に、全加盟国が「全面軍縮(disarmament)に関する82カ国決議」を提案し、全会一致で採択されました。そのことは、通常兵器を含む各国の軍備を完全に撤廃するという大目標を、世界の国々がこぞって打ち立てたことを意味し、とにもかくにも、戦争回避の足掛かりができたわけです。(60ページ)

 庭野の考えでは、この「完全軍縮」は世界連邦ができなければ実現しない。国連は国家間の紛争が戦争に発展しないための話し合いの場として設けられたが、大国が主権を主張して譲らなければ、どうすることもできない。したがって、真に権威ある国家紛争解決の機関をもとうとすれば、どうしても国家の主権を超えたものでなければならない。それが世界連邦の構想だ。だが、これは現状では実現が困難だ。だから日本でも平和憲法が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」としているが、必要最小限の軍備として自衛隊の存在は容認できる。とはいえ、自衛隊の軍備増強には反対だという。
 しかし、軍備の縮小、撤廃だけでは平和をもたらすことはできない。まず必要なのは、発展途上国の貧困をなくすための開発である。先進国は発展途上国に少しばかりの援助の手を差し伸べているようだが、大きな流れとしてはそれを見捨てようとしている。このため、貧富の差が極度に拡大している。

こうしたアンバランスは、開発途上国の敵意をそそり、その不満の爆発が紛争や戦争の原因となります。いや、たとえ紛争や戦争は起こらなくても、こういった飢餓・貧困の状態があるということ自体が、世界が平和でない、ということになるのです。
ですから、われわれは先進国の国民という立場からも、また宗教者という立場からも、こうした国々の開発ということに意を注ぎ、具体的に援助の手を差し伸べていかねばなりません。

 また、すべての人が平等に生きる権利を持った存在であることを形の上で確認できるようにすること、すなわち人権の問題がある。

 人権の侵害は、平和の問題と直接つながるものです。抑圧と差別に苦しんでいる人びとは、せめて人並みの生活をかちとるために、いや、それよりも耐えがたい侮蔑からのがれ、人間の誇りを回復するために、死を賭して立ち上がります。そして、多くの人の血が逃れ、命が奪われる結果となるのです。
 ですから、世界に平和を実現するためには、人権の問題をおろそかにすることは許されないのです。とりわけ、われわれ宗教者が、この問題についてウヤムヤな態度をとるならば、宗教の真実性は地に墜ちてしまうことでしょう。なぜならば、どの宗教においても「人間の平等」こそ、教義の根幹なすものであるからです。(91ー92ページ)

 とはいえ、宗教家には「人間の権利思想の行き過ぎにブレーキをかける」という大きな役割もある。他の人々のことを省みない権利の主張は平和を乱す。宗教は「多くの人びとの幸福のためには自らの権利を犠牲にすることも辞さないという精神を養」うことができ、それによって平和に貢献する。このような権利の抑制と人権の確立とは対立するものではない。
 開発、人権に加えて環境の問題がある。自然破壊の進行は主に先進国がその責めを負わなければならない。その遠因として西欧的な人間本位の世界観がある。「人間以外の」、あらゆる生物・無生物を、どんなに酷使し、どんなに殺生してもかまわない」という考え方だ。このような自然破壊をなくすために、宗教者は精神的革命を進めなければならない。

仏教の〝諸法無我〟の真理、すなわち「この世の万物万象は、ひとつとして独立した存在(我」はない。すべて、ある原因(因)と条件(縁)が造り現わしているものであり、したがって、すべてが相依相関している存在である。これを人間に即していえば、人間は天地の万物によって生かされているのである」という思想を、世に徹底させることです。(一〇一ページ)

 以上、非武装、開発、人権、環境という政治的、社会的な平和運動の主題についてあらまし述べてきた。これらは庭野が考える平和運動の、具体的な目標の主要なものである。それと並んで庭野は宗教による平和運動の方法論をもっており、それについても詳しく述べている。すなわち宗教協力である。
 庭野が宗教協力に乗り出したのは、外部勢力から攻撃を受けたり、世間からの迫害や中傷を受けたことがきっかけになっており、一九五一年にさまざまな新宗教教団の連合体として新日本宗教団体連合会(新宗連)が結成された。そこからさらに宗教協力の輪が広がり、神道・伝統仏教・キリスト教の諸教団とも協力する気運が生じてきた。核実験の派対運動や平和のための国際会議のために宗教間の協力が進むということもあった。一九六五年に第二バチカン公会議に招かれたことは、宗教協力への期待をさらに高めることになった。このように宗教協力と平和運動が並行して進んだわけだが、庭野にとっては宗教協力は社会的な立場の確立や平和運動のための手段として考えられたわけではなく、それ自体が一つの高い意義をもったものと考えられていた。
 当初、庭野は「宗教統一」が可能だと考えていた。それはそもそもすべて正しい大宗教は一つのものを信仰の対象としていると考えたからだ。「この大宇宙と、そこに存在するさまざまな物体や生命体の根源を探ってゆきますと、ただ一つのエネルギーに帰着します。そのエネルギーが、さまざまにはたらきだして万物・万象を造り現わしているのです。」(198ページ)その根本のエネルギーは宇宙の生命そのものであり、仏教ではそれを「空」とよび、キリスト教では「神」と呼んでいる。では、なぜ世界中にたくさんの違った宗教があるのかというと、昔は地球上の交通が不便で生活圏が狭かった故に、お互いに違うものを信じていると思いこみがちだった。しかし、人間の集団の規模が次第に大きくなっていくと、そのような狭苦しい考え方は通用しなくなってくる。皆がともに一つの「宇宙の生命」を信じるということを納得できるようになるだろう。法華経は未来にそのような宗教統一が可能になることを預言している仏典として解釈することもできるのだ。
 やがて、庭野は宗教統一を性急に唱えるのは得策ではないと悟るようになり宗教協力の推進を説くようになるが、それでも宗教協力を単に平和運動や社会活動の手段と考えているわけではない。宗教協力は形の上のみの協力を意味するのではなく、心の底から理解し合い、手を握り合うことをいう。宗教協力そのものが平和を実現していく過程なのだ。そして、宗教は本来そのように深いレベルでの一致を実現できる可能性をもっているはずだ。

すべての大宗教は、その根底において、人類愛を説き、心の平和を説いています。そういった宗教の信仰者は、少なくとも信仰を持たない人よりは、はるかに強い平和への願望を持ち、すべての人間に対する愛情を持ち、しかも、その願望と愛情を行動に現わす術を知っています。ですから、信仰者こそは、人種の差を超え、国家の別を超えて、一つ心に結び合える可能性を、最も多くそなえている人間である――と、私は確信するものです。そう確信すればこそ、宗教協力に懸命の努力を払っているのであり、宗教協力とは、そのような深い心の結びつけの上に、強い平和の砦を築くことにほかならないのです。(204ページ)

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