心なおしによる平和――現代日本の新宗教の平和主義

「心なおしによる平和――現代日本の新宗教の平和主義」『大巡思想論叢』第16輯、2003年12月(韓国で刊行)の第3節「庭野日敬の仏教理解と平和思想(1)」を掲載します。

 これから庭野の仏教理解と平和思想について検討するが、主な資料として1972年に刊行された著書、『平和への道』を選びたい。その理由は、①この書物は庭野の平和思想がもっとも包括的に述べられているものであること、②世界宗教者平和会議の発足の頃の考え方をうかがうことができること、③その後、今日に至るまで平和運動に関心をもつ立正佼成会の会員にとって、依拠すべきもっとも重要な平和思想のテクストと見なされていることなどによる。
 この書物の第一章は「平和とは何か」と題されている。庭野はその冒頭で、平和とは「人と人との間、人と自然の間に、和やかさと、順調さが保たれている状態」であるという。そして、それはまず心から広がっていくものだという。つまり一人一人の人間の心が平和的になることが基本で、そこから世界の平和がもたらされるはずだ。その点をなおざりにして、世の中の仕組だけを変えてみてもほんとうに平和が成就することはない。では、「平和的な心」とは何か。仏教でいう「慈悲」、キリスト教でいう「愛」をもって人に対する心である。

広やかな気持ちで他を包容し、他の過ちをトゲトゲしく咎め立てすることなく、争わず、苦しめず、怒らず、妬まず、つねに他とともに幸せを得たい、と望む心です。/といえば、何の奇もないことと感ぜられるかもしれませんが、その何の奇もない心を、われわれは、なかなか成就できません。なぜ成就できないか……その原因を追及してみますと、ギリギリ最後に突き当たるものは、人間の貪欲というものです。貪欲こそが元凶なのです。法華経の譬喩品第三に「諸苦の所因は貪欲これ本なり」と喝破してあるとおりなのです。(22ページ)

 貪欲は心の平安を失わせる。そしてそれは理性を失わせ、本能に身を任せることであり、文明以前の動物的な段階に陥ってしまうことである。

他の動物と同じように、ほんの目先のことまで慮ったりすることができません。そういう状態を、ほんとうの意味での〝愚かさ〟というのです。仏教でいう愚痴とは、このような愚かさを指すのです。(中略)
ですから、世の中を平和にするためには、まず、お互いの一人びとりが、ほんとうに知恵のある人間となって、右に挙げたようなさまざまな欲望を制御できるようにならなければなりません。欲望を制御するとか、貪欲を滅するとかいうことは、言うべくしてなかなか行じ難いことです。(24-25ページ)

 そうした心の状態を実現するには宗教が必要だと庭野はいう。宗教は教えと行の両方を提示する。教えは経典に記されており、宇宙と人生の真理を説く。それは「科学の究極や、哲学の神髄や、倫理の大道と一致するもの」(二七ページ)だが、心の底から深く納得させてくれるのは宗教の教えであるという。根本の真理を示している経典として、庭野は法華経の前に置かれ、法華経とともに読誦される無量義経の一節を引いて、現代語訳を付している。

「応当に一切諸法は自ら本・来・今、性相空寂にして無大・無小・無生・無滅・非住・非動・不進・不退、猶お虚空の如く二法あることなしと観察すべし」
この世のあらゆるものごとの奥にあるものは、宇宙ができてから(本・来・今)ずっと変わることなく、一切が平等で、しかも大きな調和を保っている世界(性相空寂)であります。/われわれが肉眼で見る現象世界では、大きいとか小さいとか、生ずるとか滅するとか、止まっているとか動いているとか、進むとか退くとか、さまざまな差別や変化があるように見えますが、しかし、その根本においては、ちょうど真空というものが、どこを取っても同じであるように(猶お虚空の如く)、ただ一つの真理にもとづく、ただひといろの世界であること(二法あることなし)を見極めなければならないのです。(27-28ページ)

 ここに述べてあるように仏教は根本の真理として、「すべて存在するものは、その根源において平等である」ことと、「この宇宙の実相は大きな調和のすがたである」ことを説く。すべての目に見える現象の大本に、それらを生じさせる「宇宙の実相」がある。これが「空」とよばれるものだ。この実相世界の「大調和のすがた」を深く納得するとき、平和な心を求める気持ちが強い確信となる。また、このような真理を凡人が心の底から納得するには、行が必要となる。たとえば、法座の説法に加わったり、経典などを読誦して、「毎日くり返しくり返し心にしみこませる」のが有効なのだ。さらに真理を説く人、生きた人格である信頼できる師について学ぶ必要がある。これらが科学や哲学や道徳と宗教との大きな違いである。
このようにして、自らの心を変えてゆき(「心の改造」)、自分のまわりに平和が広まっていくようにする。こうして家庭、社会、国家、世界へと平和が広まっていくように、他者へと働きかけていく。これが菩薩行である。自らの悟りのために現実生活から離れてしまうのではなく、他者とともに汚辱に満ちた世界に生きながら、すべての人に内在している仏性を発見し、発掘し、その実相を見つめる。そのようにして自らも真実に目ざめるとともに、他のすべての人も同じ境地に達するように手を差し伸べる。そのようにして、この世に理想世界を現出させるよう努める。これが庭野が信じる仏教徒の理想の人生である。
 このような仏教徒の理想の生き方を示す印象的な物語や教説を、庭野はいくつか経典から選び出して紹介している。一つは法華経の提婆達多品第十二である。法華経のこの章は仏陀のいとこで子どもの頃はライバルであり、後に仏陀の弟子となったが、仏陀に反抗して脱退た提婆達多(Devadatta)について述べている。提婆達多は阿闍世(Ajataaasatru)太子をそそのかせてその父、頻婆娑羅(Bimbasara)王を殺させ、さらには自ら仏陀を殺そうとした。結局、提婆は地獄に落ちるのだが、庭野はこれを、最後には非暴力の立場が勝利するということを教えるものだという。ところが法華経によると、その提婆達多と仏陀は、前の人生でも特別の間柄にあったという。前世の仏陀は国王の地位にあったが、その安楽な暮らしに満足できず、すべてを捨てて法華経を知っているという仙人の召使いになった。生活万般の世話をしたばかりでなく、地べたにうつぶせになって仙人の腰掛けになるということまでした。その仙人が提婆達多の前世の身だという。だから提婆への感謝の念を忘れないのだという。
 この物語は自分に対して攻撃する他者を恨むことなく、恨みを捨てることによって恨みの連鎖がなくなるという思想と関わりがある。仏陀が生存中に説いた教えを比較的、正確に伝えている経典として尊ばれているという法句教(Dhammapada)には次のように説かれているという(132ページ)。

「わたしは罵られた。わたしは害された。わたしは敗れた。わたしは奪われた」という思いを懐く人には、恨みの静まることがない。
「わたしは罵られた。わたしは害された。わたしは敗れた。わたしは奪われた」という思いを懐かない人には、恨みが静まる。
およそ、この世においては、恨みは恨みによって静まることはない。恨みを捨ててこそ、恨みは静まる。これは普遍の真理である。

 この言葉を物語の形で語った「仏説長寿王経」というお経がある。そこではコーサラ国の慈悲深い長寿王ととなりのカーシャ国の王の物語が語られている。カーシャ国王は戦いを避けるため、コーサラ国を譲った長寿王を火あぶりの刑に処した。長寿王の子の長生王子はそれを恨み、狩に出て家来たちとはぐれたカーシャ国王を殺そうとするが、躊躇して殺せない。目が覚めたカーシャ国王に王子は、死に際に父がいった「恨みは恨みによって報いれば、また新しい恨みを生む。そしていつまでも消えることはない」という言葉が思い出されたため、殺せなかったのだと語る。それを聞いたカーシャ王は自らの非に気づき、王子の前に手をついて深く詫び、コーサラ国を王子に返し、以後、友好を保ち、コーサラ国は幸福を取り戻したという。
 だが、これらの教えは真理についても妥協するということまで認めたものではない。仏陀は真理のためには武器をもって身を守ることは認めている。ただ、「抵抗していいが、殺生はしてはならない」という範囲内のことだという。涅槃経(Mahaparinirvanasutra)の金剛身品第五では破戒の比丘におそわれようとした正しい比丘を武力で守った王がその戦いで落命したが浄土に生まれ変わったと語った仏陀の説法がある(137ページ)。

その説法に対して迦葉(Kasyapa)が「比丘が刀杖を持った信者に守られて歩くのは破戒にならないのでしょうか」とお尋ねしたところ、「破戒にはなりません、また、在俗の人たちが正法を守るために刀杖を携えても、戒に背くものではありません。ただし、刀杖は携えても相手の命は取ってはなりません」とお答えになりました。

 このような教えを体現した菩薩、すなわち修行僧のモデルを示しているのが、法華経常不軽菩薩品第二十である。この章で語られている常不軽(Sadaparibhuta)菩薩は、どこへ行っても人さえ見れば「わたしは、あなたを敬います。けっして軽んじたり、見下げたりしません。あなた方は、みんな菩薩の道を行じて、必ず仏になるかたであるからです」といい、両手を合わせて礼拝する。拝まれた人の中には腹を立てる人もあり、罵られることも少なくなかったが、けっして怒ることはなかった。この青年層は経典も読まず、説教もせず、ただひたすら人を拝み続けた。「常不軽菩薩」というのはこのように「仏性をもつが故に軽んじない」という姿勢を持ち続けた修行僧という意味のあだ名である。この物語を語った後で、仏陀は「この常不軽菩薩は、実は私の前世の身なのだ」と明かした。庭野はここに「対人的には柔軟、真理を守ることにかけては頑強」という生き方が示されているという。これこそが、「真の勇者であり、平和人間であり、しかも人生の達人である」といい、非暴力に徹する平和の使徒の生き方だという。

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