宮本袈裟雄さんに負うもの

宮本袈裟雄追悼文集刊行会編『宮本袈裟雄追悼文集』宮本袈裟雄追悼文集刊行会、2009年12月、76-77ページ。

一九七七年から八一年まで、私は筑波大学の哲学・思想学系に研究員(文部技官)として務めていた。それまで東京大学文学部の宗教学研究室で大学院博士課程に在学したが、まったく新しい環境に移ってきた。並木の宿舎の隣には牛小屋があり、土葬の名残もあり、ひなびてのどかだったが、新開地はあちこち草ぼうぼうで大通りには動物の死骸が絶えず、何やら殺伐としていた。人文系には移転反対派だがやむなく筑波にポストを移した人たちもおり、盗聴器の心配をする人もいた。私も当時はまだ少ない任期つきポジションでもあったので、ややふてくされていた。
そんな中で、日本宗教研究の仲間として、当時助手だった宮本さんに声をかけていただいたのはありがたいことだった。いつの間にか知り合いになっていたのだが、実は宮本さんがうまく仕組んでくださっていたのではないか。そのうち研究会で話をしてみないかというようなことだった。転勤などのためにそれは実現しなかったのだが、何だか心の内を見通してうまく解きほぐしていただいたような気がしている。
宮本さんについての私の記憶はだいたいそれとなく助けていただいたというものだ。一九八九年、第四一回日本民俗学会年会のシンポジウムで「ヒト・カミ・ホトケ ─現代と民俗宗教─」を取り上げたときもそうだった。宮田登先生と宮本さんと私の3人で司会をさせていただいたが、その折、『日本民俗宗教辞典』をいっしょに編集しないかという話をうかがったのだった。それから紆余曲折があって、この辞典は一九九八年に刊行されだ。刊行に至るまでなかなかたいへんだったが、味わいに富んだ交わりの機会でもあった。
この辞典は宮本さんの熱意と人脈のたまものだが、同時に東京堂出版の小林英太郎さんの獅子奮迅の活躍のおかげでもあった。とにかく何度もお酒を飲んだし、カラオケに行った。私が勧めてもなかなか歌わない小林さんだが、宮本さんが勧めればしみじみした裕次郎メロディーなどホイホイ歌い出すのである。若い美人のいるスナックも、やり手ママのカラオケバーも宮本さんか小林さんが先に払ってしまうので、私はどうすれば自分が払うタイミングを見つけられるか、早く覚えたいと思っている間に本が出来てしまった。
この本の縁で小林さんにはたくさん本を作っていただくことになった。3人で飲んでいて少し気持ちがよくなってくると、宮本さんは兄弟をほめるような感じでこういった。「小林っていい奴だろう。少し口は悪いけど」。小林さんはまさに宮本さんを深く敬愛していた。宮本さんが大学で激務を背負い、体調が整わなくなったりして、だんだん小林さんと二人で飲むことが多くなった。いつも宮本さんの話題が肴である。ところが、小林さんが退職し秋山書店に移られる時の「励ます会」は、私が言い出したのだが、結局、準備は全部、宮本さんにしていただいた。
宮本さんはいつも見え「ないところで行き届いた手回しをしてくださり、私はぼうっとしているだけだった。宮本さんには負うものばかり多くて、お返しのしようがなかった。今は、せいぜい『日本民俗宗教辞典』をなで回し、あの力仕事の裏のご苦労を想像してみることぐらいしかできない。申しわけないことである。だが、楽しい交わりの記憶がそんな悔いを少しは和らげてくれる。

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