『週刊 読書人』2009年8月14日号
欧米の「デス・スタディーズ」とは異なる特徴をもった学問分野として、死生学を輪郭づけようとする試みが目立つようになって来ている。従来、「死生学」の語は、「デス・スタディーズ」と同等のものとして用いられて来たのだが、そこからの脱皮を目指す動きであり、日本の死生学の展開の新たな段階を示すものと言える、『死生学年報』の二〇〇九年号が、「死生学の可能性」を掲げたのも、そのよい現れだろう。この年刊誌は東洋英和女学院大学の死生学研究所から刊行されているものだが、同大学は一九九三年から死生学のコースが設けてこの分野への取り組みを開始しており、日本の死生学研究のパイオニア的な役割を担って来た研究教育組織の一つである。
九篇の論文と一篇の講演録が収められているが、その取り合わせと個々の文章の試みを通して、「死生学の可能性」の展望が示されている。まず、十篇の文章を私の理解にそって三つの領域に分けて概観させていただく。①古今東西の文明・文化における死生観の研究、②現代人が直面している、死に関わる価値観や倫理観の問題への考察、③死に向けた生、死とともにある生を生きることの経験に即した考察、以上の三つの領域である。
①の領域の文章が数は多い。ソクラテスとイエスにとっての死の受け止め方(三上章)、ガンダーラ仏教美術における生と死(田辺勝美)、西洋中世の「死の舞踏」の作品群の意義(小池寿子)、日本の民俗分化における葬送と誕生の危機の形象化について(古川のり子)、興味深い考察がなされている。古今東西の死生観の比較考察というすそ野の広い領域だ。
②の領域では、万能細胞研究とめぐる生命倫理問題を扱った論文(大林雅之)がある。さらに、①と②の境界に位置する論文が一篇ある。一九世紀中葉に西洋社会で広まったスピリチュアリスムを起点とする「死後世界」についての思想史的考察(津城寛文)だ。これらはそれぞれ高い水準にある論文で、①②の領域での死生学の新しい可能性をかいま見せるものである。
筆者がもっとも強い感銘を受けたのは③の領域のもので、ヘレン・ケラーがどのように死生についての認識を得ていったかを論じたミリアム・ブラックの論文と、死に面してがんとともに生きる自らの経験をたんたんと語った真家年江の講演録だ。とくに後者では、「私は病気とは闘わない主義で、むしろ病気に恋をします」といった刺激的な、また深みある言葉がきらきら輝いている。このような現場性に満ち満ちた証言とともに①②のような学問的考察を進めるところに、死生学の醍醐味があることを、本書はよく示している。
では、死生学とはそもそも何か。冒頭の「総合学としての死生学の可能性」で渡辺和子は、一九七〇年頃以降の死生学の歴史をふり返りながら死生学の輪郭を描くという形で、死生学の可能性について考察している。渡辺は死生学を貫く太い柱は「人間を全体としてとらえること」だとする。そして、欧米の「デス・スタディーズ」を導いたのは、「全人的ケアの開拓者」たちだとする。死にゆく人のケアを実践し、彼等の苦悩に向き合おうとしたマザー・テレサ、シシリーソンダース、キュブラー=ロスをこのように意義づけ、日本の死生学の「総合学」への志向性を結びつけたのは渡辺の卓見だ。
書物全体としてもこの序論においても、「死生学の可能性」が豊かに提示されており、日本でこの学問分野が熟しつつあることを実証している貴重な一冊である。