精神主義より科学を 

 感染者の居場所が電子的に追跡されていることは監視社会への危惧を招きかねない。だが、現体制ならば、感染症対策の文脈での利用を治安などの目的に転用して市民の自由を抑圧することはないだろうという信頼感があり、好感をもって受け止められている。

 自国市民に対しても世界各国に対しても透明性の高い情報開示があり、リーダーが責任を持って行う体制が見えている。

 これに対して日本政府の対策については、国内外を問わず困惑と批判の声が多く、好意的に受け止める評価はあまり聞こえてこない。もっとも今の段階で、長期的な結果を予想することはできないから、日本政府の対応が全体として失敗を重ねているといった評価を下すのは性急だ。

 だが、確かなことが幾つかある。4月末までの3カ月ほどを省みると、日本の人口100万人当たりのPCR検査数は、米国などと比べて桁違いに少ない。このような状態では、感染の広がりやその変化を的確に捉えることもできず、対応も場当たり的にならざるを得ない。

 検査ができず自宅待機中に死亡する人が続出し、慌てて自宅待機方針を見直すようでは先が思いやられる。感染症対策のための科学技術の活用がうまくいっていない。

 さらに、突然の春休みまでの休校要請、再開容認になったかと思うと、新たに長期の休校要請となる。不評極まりない全世帯への布マスク配布なども顕著な例となろう。政府や専門家の市民への情報開示が適切でなく不信を招き、医療現場でも生活基盤を脅かされている人々の間でも、政府の対応に不満が高まっている。

 緊急事態に適切に対応できなかった日本政治の弱点には合理性の欠如、意思決定の不透明さ、情報開示の不十分さ、責任の所在の不明さがある。これらを覆い隠すため「日本人なら克服できる」という精神主義が使われているのではないか。

 皆がマスクを着けしゃべらなければ電車通勤も大丈夫と語られ、安倍晋三首相は「敬意、感謝、絆があれば恐怖に打ち勝てる」と国民を鼓舞する。こうした安易な楽観や一致団結の奨励が、アジア・太平洋戦争当時の日本に類比されるのは避けがたいことだろう。

 失敗から学ぶことの必要性は2011年の東京電力福島原発事故のときも唱えられた。しかし、むしろ失敗を「なかったことにする」ような姿勢、もっぱら経済成長を掲げる「復興第一」の姿勢が優先されてきた。

 今回もまだ先が見えず明日のためのやりくりを迫られている人が多い時期に、流行終息後の経済の「V字回復」が唱えられ、旅行や飲食店などに行く「Go To キャンペーン」約1兆7千万円が補正予算に盛り込まれた。これらの行為は、過ちを繰り返すことになっていないか、よくよく省みるべきだろう。

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