なぜ、現在、攻撃的な意図をもって旭日旗を掲げる人たいがいるのか。また、それが国際的な問題になるのか。その歴史的背景を知る上で、参考になると思われる記述を拙著『明治大帝の誕生――帝都の国家神道化』(春秋社、2019年、pp.46-47)から引く。神聖天皇崇敬の歴史という点から振り返っておく必要がある。拙著『神聖天皇のゆくえ――近代日本社会の基軸』(’筑摩書房、2019年)ももう少し長いタイムスパンで神聖天皇崇敬を考えている。
(以下、引用)
戸部良一『逆説の軍隊』(中央公論社、一九九八年)は、日露戦争後から顕著になる極端な天皇崇敬の傾向についていくつか例をあげている。たとえば、のちの軍事史家、松下芳男氏が一九〇六年頃、仙台地方幼年学校に入学したときの経験だ。入校式の校長訓示の際、「天皇陛下」や「勅諭」という言葉が出る度に、上級生は踵を合わせて不動の姿勢をとるのでびっくりしたという。また、在校中に皇太子(のちの大正天皇)が来訪したとき、眼鏡をかけている者はそれをはずせと命じられたという(二〇八-二〇九ページ)。
乃木大将との関連で興味深いのは、軍旗を天皇の分身のように遇する態度が生じ定着していったことである。
軍旗の尊厳さを必要以上に強調するようになるのも、明治末期から大正にかけてである。もともと軍隊は、神社に参拝するときや、天皇・皇后に対するとき以外は、敬礼のために垂れ下げないものとされていたが、一九一〇(明治四三)年の陸軍礼式の改正で、「軍旗は天皇に対するとき及び拝神の場合を除くほか敬礼を行うことなし」と明確に定められた。つまり、旗手・軍旗衛兵・軍旗中隊は、軍旗を守護している間、上官であろうと誰であろうと、天皇以外には敬礼しないのである。軍旗はあたかも天皇の分身であった。軍旗の扱いは丁重かつ厳格をきわめ、御真影(天皇の肖像写真)と同様の異常さを帯びてゆく。こうして、明治末期から、天皇の尊厳性と彼への忠誠心の表明はやや常軌を逸しつつあったのだが、国体論の強調がそれにさらに拍車をかけることになってしまう。(二〇九ページ)
軍旗が天皇の神聖性を宿した存在として、これほどまでに尊ばれるようになるについては、乃木希典の影響が大きいとの推測がある。飛鳥井雅道の「乃木伝説」(『明治大帝』筑摩書房、一九八九年、所収)によると、一八七七(明治一〇)年の段階では、軍旗が神聖視されるような事態はなかった。飛鳥井は三浦周行の「乃木大将の最期(其軍旗及び養子観)」(一九一三年)に拠りながら、南北朝時代に「錦の御旗」が発明されたが、その後も錦旗を失った例はいくつもあったとし、こう述べている。
実際に軍旗そのものは、当時の政治的・軍事的情況においては、それほどの問題ではなかった。軍旗はたしかに明治七年以後、聯隊が創設されるたびに天皇が親授するものではあった。しかし、この軍旗を物神化するような雰囲気はまったくなかった。(中略)天皇においても、この時乃木が軍旗を奪われた事件は、戦闘中の一偶発事として、重視していなかったにちがいない。軍旗を物神化する系譜が乃木の十年の事件から発したことにはまちがいはないとしても、軍全体にもまだ当時、軍旗物神化は成立していなかった。(二五六ページ)