漱石が死に臨む時を経過し、また大自然を前にして感得している安らぎの境地は、漢詩の伝統から多くを得ているだろう。「詩僧」という語で自らを捉えているのも納得のいくところだ。だが、また儒教的な天や道教的な無、あるいは仏教的な空からも影響を受けたものだろう。死を前にした時期の漱石の「天」は、近代人の「魂のふるさと」の漱石的な形とも言えるだろう。それは漱石が自ら切り開いた境地であり、死生観という枠組みで捉えることもできるものだ。
漱石から現代まで
漱石から現代に至るまで、このような「その人自身の死生観」がさまざまに表出されてきた。共有されている死生観の枠組みからいったん切り離された個々人が、それぞれにつかみ取る、あるいは探り続けるものとしての死生観である。これが近代における死生観の特徴である。拙著『日本人の死生観を読む』でもそのような死生観について宮沢賢治、折口信夫、吉田満、岸本英夫、高見順などを例にして述べた。本書の冒頭で取り上げた若竹千佐子の『おらおらでひとりいぐも』も二〇一〇年代の新たな文芸的な死生観表出のすぐれた例であった。
この終章では、近代になって「あなた自身の死生観」が問われるようになったこと、これは古代から近世に至るまでの死生観のあり方に対して新しい特徴として理解できることについて述べてきた。早い時期に「あなた自身の死生観」を問い、彫りの深い表出をした人物として、ここでは夏目漱石を取り上げた。主に取り上げたのは『思い出す事など』だが、漢詩や俳句、『夢十夜』、『彼岸過迄』、『こころ』なども関連しておりその一部しか見ていない。それらを広く取り上げれば、死を強く意識して以降の漱石の死をめぐる、あるいは死生観的な探究の幅広さをうかがうことができるはずだ。
拙著『日本人の死生観を問う』では、一九六〇年代頃までの近代の知識人の死生観をめぐる探究の種々相を見た。「知識人」と述べたが、彼らも一般の人々の死生観を意識し、それを拾い上げたり、その新たな展開に貢献したりするような場合があった。柳田國男や折口信夫の民俗学、野口雨情や金子みすゞの童謡などはその例である。夕日や望郷の年がしばしば登場する童謡の「故郷=ふるさと」の表象は近代の死生観と関わりが深い。
魂のふるさとの歴史
折口信夫が用いた「魂のふるさと」という言葉は近代になって力を得てくる言葉である。だが、小林一茶にはすでに「ふるさと」へのこだわりを度々表現していた。
その小林一茶には、「日本」への愛着を表現した句も数多くある(青木美智男『小林一茶――時代を詠んだ俳諧師』岩波新書、二〇一三年、一一二―一一五ページ)。
けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ 「七番日記」文化九年
渡る雁我とおなたは同国ぞ 「七番日記」文化一四年
花おの/\日本だましいいさましや 「文化句帖」文化四年
君が代た厄をおとしに御いせ迄 「七番日記」文化一四年
明治維新後に次第に強まっていくナショナリズムと「故郷=ふるさと」の表象は関連する(成田龍一『「故郷」という物語―都市空間の歴史学』吉川弘文館、一九九八年)が、ナショナリズムと死生観とも関わりが深い。近代人の死生観を考えるとき、個人の死生観探究とともに、ナショナリズムと死生観の関係にも十分、注意を払う必要がある。とりわけ戦争が起こると、戦死者をめぐりナショナリズムを結びついた死生観の増幅が起こる。靖国神社や軍歌「同期の桜」を死生観の関わりを見逃すわけにはいかない(拙著『日本人の死生観を読む』前掲、『ともに悲嘆を生きる』朝日新聞出版、二〇一九年)。「あなた自身の死生観」を問うとき、それがナショナリズムとどう関わっているかについて、十分に考えておくべきだろう。
一茶の「日本」や「ふるさと」は、近代の「魂のふるさと」観の初期の現れの一例と言えるだろう。一方、本書の冒頭でふれた『おらおらでひとりいぐも』の「ふるさと」は近代の「魂のふるさと」観が多様な様態をとりながら展開してきた後の、ややレトロの感があるそれかもしれない。読者は『おらおらでひとりいぐも』の主人公の「桃子さん」が、夢に白装束の「女だち」が八角山を上っていく光景を見たことを覚えておられるだろう。その折の「桃子さん」のせりふを今一度、引用する。
帰る処があった。心の帰属する場所がある。無条件の信頼、絶対の安心がある。八角山へ寄せるこの思い、ほっと息をつき、胸をなでおろすこの心持ちを、もしかしたら信仰というのだろうか。八角山はおらにとって宗教にも匹敵するものなのだろうか。(一五〇ページ)
「桃子さん」は「そうであって、そうでない」と自答する。「神だの仏だのそんな言葉は使いたくない。では、なんというか。おめ。おらに対するおめ。必ず二人称で言わなければならないのだ」。「ふるさと」は自ら選び取って、「おめ」(お前)と言われる存在となっている。「あなた自身の死生観」にふさわしい結末というべきだろう。