『国家神道と日本人』への批評について――とくに子安宣邦氏の論説に応答する

7月21日刊の奥付をもつ拙著、『国家神道と日本人』(岩波新書)が刊行され、3ヶ月ほどがたった。まだまだ内容に立ち入った書評は少ないが、直接間接にさまざまな感想・批評に接し、大いに啓発されている。感想・批評をお寄せ下さった皆さんにあらためて謝意を表したい。

 

 私が敬愛するある宗教哲学者は、「輻輳した歴史の現実態の中に分け入り、しかも山に入って山を見ずではなく、おのづから筋道があらわれて見えて来」、「私にとって最近にない良書」だったとおほめ下さった。私信では日本近代史や日本思想史の研究者からも概ね好意的な評価をいただいているが、ネットに現れた感想や批評の中に「自己中心的だ」とか「けしからん」とか「新書に合わない」という反応があったのにはやや驚いた。この本は論争を踏まえた書物なので、これまでの議論の弱点について批判的に述べて新たな立場を鮮明に示そうとしており、いわば「革新的」な議論を多々提示をしているため、反発を感じた「保守的」な気風が感じ取れる。
 なかでも悪罵混じりのものについては、とりあえずこの場で応答しておきたい。子安宣邦氏の「怒りを忘れた国家神道論――島薗進『国家神道と日本人』」という10月10日付けの文章が、「ちきゅう座」(http://chikyuza.net/n/archives/3705)というサイトに掲載されている。あわてて書かれたせいか、「島園」と「島薗」が併用されているが、「ちきゅう座」のサイト管理者は「島薗」に統一していただけると幸いである。また、「糞食らえ、島薗!」などという言葉が見えるが、このサイトにふさわしいものがどうか十分にお考えいただきたい。ご高齢であるにもかかわらず新しい業績に積極的な関心を寄せておられることには敬意を表したいが、子供じみたご発言がご高名を汚しはしないか心配である。
 この文章で子安氏は、氏ご自身の2004年の著書、『国家と祭祀』(青土社)について、拙著本文中に参考文献として挙示されていないことに不満を述べている。小学生のケンカではないが、「無視されている」「ネグった」という。また、「丸ごと人の論著の視点や構成によりながら、それを隠蔽する形でその論著を挙げないことは二番煎じの本にはよくあることだ」とも述べている。被害妄想としてうっちゃっておいてもよいのだが、知的討議の仁義にもとると思うので最小限の反論を記しておきたい。
 子安氏の論著の視点や構成に私が依拠しているというのは何を指すのか。子安氏の『国家と祭祀』は出だしの第1章「国家神道の現在」で村上重良(『国家神道』岩波新書、1970年)らの宗教史研究者と葦津珍彦(『国家神道とは何だったのか』神社新報社、1987年、2006年)らの神道学者による「国家神道」概念をめぐる論争から書き始めている。そして、伊勢神宮や靖国の祭祀の問題に、さらには水戸学者、会沢正志の『新論』の「祭祀的国家の理念」の意義に触れていくのだ、
 だが、まずこれらの論点や議論の運びの主なものは、子安氏が『国家と祭祀』の諸章の連載を始める以前に、すでに私が次の3つの論考で示したものである。

「国家神道と近代日本の宗教構造」『宗教研究』329号、2001年
 「総説 一九世紀日本の宗教構造の変容」小森陽一他編『岩波講座 近代日本の文化史2 コスモロジーの「近世」』岩波書店、2001年
 「国家神道とメシアニズム――「天皇の神格化」からみた大本教」安丸良夫他編『岩波講座 天皇と王権を考える4 宗教と権威』岩波書店、2002年

 これらの論考は、『国家神道』や『天皇の祭祀』の著者、村上重良に従って「天皇の祭祀」や国体論をも含めた広義の「国家神道」概念を用いるべきだが、村上の議論の弱点を修正して概念を再建すべきだという主旨で書かれたものである。この度の『国家神道と日本人』はこれらの論考を基礎にし、その後、さまざまな側面からのアプローチによる論考を積み重ねた末に書かれたものである。このことは巻末の参考文献表でもある程度分かるはずだが、昨今、国家神道を論じた多くの論考は島薗のこれまでの仕事に触れているので、子安氏が現在に至るまでそれに気づかれなかったはずはなかろう。
 子安氏の『国家と祭祀』は、私にとっては江戸時代の思想史的な論述の部分で参考になるところがあるが、今回の『国家神道と日本人』ではとくに参照してはいない。研究書ではない新書においては、文献リストを掲載するとしても最小限にすべきものであるが、参照した書物や論文について挙示を略すわけにはいかない。『国家神道と日本人』の「参考文献」はそのような観点から付したものである。たとえば、赤沢史朗氏の『近代日本の思想動員と宗教統制』(校倉書房、1985年)は国家神道研究の必読文献の一つであるが、今回の著書では問題意識や扱う時期がずれているので文献リストにあげていない。これは新書という形式が課す制限の中でのやむをえざる選択である。
 では、子安氏は『国家と祭祀』の諸章を連載されたとき、上記の私の諸論考に一つも目を通しておられなかったのであろうか。目を通しておられても参考文献として挙示はされなかったのであろうか。『国家と祭祀』の執筆に際して、私の論考に触発されたところがあったかもしれないではないか。とくに『岩波講座 近代日本の文化史2 コスモロジーの「近世」』は子安氏の学問的守備範囲のタイトルを付した書物であるが、目にしておられなかったのだろうか。これは私には分からないことであるし、私にとってはどうでもいいことである。共同通信配信紙に掲載された私の書評(2004年8月22日、京都新聞など)では、著者への敬意もあってそのことは記していない。だが、もしプライオリティがどちらにあるかということにこだわられ、「二番煎じ」という言葉をお使いになるのであれば、まず、ご自分のご著書に向けてお使いになってはいかがかと考える。
 子安氏が「怒って」おられるのは、このプライオリティ問題によるところが大きいのかもしれないが、もしそうならそれは記憶違いによるものなので「怒り」を収めていただきたいものだ。しかし、子安氏はそれとは別の「怒り」をあげておられる。これはまた、とても理解の難しいものである。その「怒り」の根拠として、たとえば「国家神道をいま近代日本の天皇崇敬的体系として再定義することこそが島薗にとって重要なのであろう」とか、「島薗の意図は国家神道論からの神社神道隠し、靖国隠しにある」などと述べられているが、そのような読み方がどうしてできるのだろうか。
 詳しい説明は省かざるをえないが、神社神道が古代以来の「民族宗教」だという村上の議論は、今日の宗教史研究の水準からはとても支持できないものである。村上は古代以来神社神道がどのように存在してきて、近代の国家神道の形成にどのように関わって来たのかについてはほとんど論じていない。実際に取り上げられている神社神道の国家神道としての諸特徴は、おおよそ近世から近代にかけて形成されてきたものであり、皇室祭祀や天皇崇敬と関わった側面である。とりわけ近代になってその特徴が際立ったものになった。だが、そのあたりの理解は村上に欠けている。このような理解の仕方は、GHQと村上のもので大差ないが、それは戦後期の日本の宗教学や宗教史研究の水準に対応している。
 私は本書で一貫して、これまでの国家神道研究が皇室祭祀を軽視してきたことを批判し、皇室祭祀が果たしてきた役割の重要性について論じている。だが、神社神道がそれと連携してきたことをも強く示してきている。子安氏は島薗が「神社神道をその形成主体の位置からはずす」などと述べているが、「形成主体」という語で何を指そうというのだろうか。私は明治期における神職養成機関の形成過程をたどり、その後の運動との連関を示すことによって、神社神道が国家神道の展開に大きな役割を果たして来たことの一端を示している。だが、皇室祭祀と神社神道は切り離して扱われることが多く、これまでの議論では前者を軽んじてきたことに問題があったと論じているのであって、神社神道の役割を軽視してはいない。神社神道や神職界の役割も皇室祭祀と関係づけて捉え直すべきだと論じており、それは村上重良が提示した神社神道についての議論をその後の研究を参考にしながら今一歩先へ押し進めようとしたものである。
 子安氏はご自身の著書で、自分の問題意識が「戦争と宗教祭祀という近代国家の存立基盤」にあると論じておられる(『国家と祭祀』26ページ)。そのような問題意識に大いに意義があることに異議はないが、子安氏の著書でその問題意識が十分な実りを得ているかどうかはよく検討してみなくてはならない。それが成功しているという子安氏の誇りは尊重したいものだが、国家神道を論じるときつねに戦争遺族の怒りを基盤としなければならないというのはやや狭苦しい発想ではなかろうか。
 国家神道と戦争や靖国という問題はもちろん拙著の中にも含まれているが(第四章)、それは私の中心的な問題意識ではない。拙著で扱っている時期も幕末維新期から教育勅語発布(1890年)以後の時代までが主であり、アジア太平洋戦争の時代に焦点をあててはいない。そしてその考察の今日的な意義を問い返すために戦後へと話を移している。
 戦後の問題を論じたのは今日の日本の国家と宗教の関係について、従来「政教分離」の基準と考えられていたものが世界的に問い直されている状況を踏まえて、考え直そうとしたものである。もちろん、他国にまして「厳格な政教分離」だというの議論があるが、それは事実なのかといった事柄とも関わり、靖国問題や皇室祭祀を含めた現代日本のゆくえに関わる重い論点を論じる基礎となるべきものである。国際比較は国家神道を論じる際、一つの重要な問題であり、「国家神道は現在も生きている」というのはそのような問題意識をも含めたものであるが、子安氏にはよく理解できなかったようだ。
 拙著は国家神道と戦争、あるいは国家神道と対外侵略というような問題を論じるに先だって、その前提になる問題を明らかにしようとしたものである。あからさまに論じていないからといってそのことが念頭にないわけでないことは丁寧に読んでいただければ、すぐに分かることである。
 たとえば、対外政策や軍隊の秩序形成における国家神道の作用も、植民地における国家神道の抑圧性の問題も、国家神道の概念内容が明らかにならなければ、また、皇室祭祀や天皇崇敬のシステムを問題にしなければその意義を明らかにしようがない。そうした基礎的作業が不十分だったために、村上重良の『国家神道』は今日、継承が困難なものとされ、「国家神道の(概念の)空洞化」(山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版会、1999年)が唱えられるようになって久しいのだ。
 子安氏は国家神道の概念をめぐる現在の論争が、どのぐらいの射程をもっているかご存じだろうか。憲法学者でさえどのように定義してよいかとまどい、GHQや葦津珍彦らの定義にそって狭い定義をとる者が少なくない時代である。子安氏の『国家と祭祀』は近世思想史の部分はさすはに鋭いものだが、近代を論じた部分は探索的な試論にとどまっており、狭義の国家神道論に対抗するような論考を組み立てるところまで至っていない。それは限られたスペースの私の書評にも記してある。島薗はこの基本的な論点で村上重良を支持し、村上がとった広い国家神道概念の立場の再構築をコツコツと進めてきた。村上の広義の国家神道を鍛え直すという堅実な学問的作業は、島薗以外の者は行っていない。
 宗教と国家の関係の歴史について的確な認識をもつことは、思想・信条の自由や平和を求めていくための、基礎的な力を養うことにつながるだろう。それはまた奥深い悲しみや抵抗の心情に支えられた、柔軟かつ重厚な学問の形成に貢献できるはずである。十分な根拠もなく、高い誇りに任せて人を怒鳴りつけるような議論からは、豊かな未来を生み出す力は育たない。

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