精神科医療と死生学の接点

 この秋は、9月25日、日本臨床心理学会、10月2日、日本民俗学会、10月26日、つまり本日、全国精神保健福祉センター研究協議会に出席し、「臨床的な知」の新たな動向につき、学ぶところが少なくなかった。ご教示いただいた皆さんに感謝したい。

自分で学びつつあると思っていることの中心には、医療やケアの場で働く医師および関連職種の方々の関心のありかに新たな息吹を感じたということがある。中でも、日本臨床心理学会に出た際に教えていただいた、同会編『幻聴の世界』(中央法規、2010年)には大きな可能性を感じた。もっぱら排除されるべきだと考えられてきた「聴声者」の「声」に耳を傾け(「ヒアリング・ヴォイシズ」)、患者と治療者・ケア者という垣根を越えおたがいに理解し合える者同士として向き合うことから、「病とともに生きる」姿勢が形作られていく様子が語られている。治療を受ける者として遇されてきた患者が発言し、どもに生きる場を形作っていく行為者として現れることができるのだ。
かつて宗教学を学んだ若い友人の想田和弘氏の映像作品「精神」と相通じるものがあるし、AAに始まるさまざまな領域でのセルフヘルプ運動と重なりあう性格があると思う。また、釜ヶ崎で路上生活者を助けようとして、かえって路上生活者のやさしさに教えられた本田哲郎神父の経験したこと(『釜ヶ崎と復員』)と、精神保険・精神科医療に関わる医療・ケアの現場の関与者が経験しつつあることに共通点があるのではないかと思う。ただ、拙著、『スピリチュアリティの興隆』で「解放のスピリチュアリティ」として位置づけたことと関わっているとしても、それをあえて「スピリチュアリティ」のカテゴリーに入れる必要はないようにも思う。どうしてそうなのか、もう少し考え続けていかなくてはならないだろう。

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