拙著『国家神道と日本人』(岩波書店、2010年7月)については、分かりやすい本だったという感想を多くちょうだいしましたが、他方で著者の意図がよく分からないといった類の感想にもしばしば出会いました。
これはこの書物が政治的な主張に主眼を置いたものではなく、数十年単位の長期的なスパンで通用する宗教史理解を示そうとしたため、また新書という形態の都合上、現在通用している理解に対してどこに革新性があるかを分かりやすく提示しなかったことによると思われます。
来年中に刊行を目指している国家神道研究の研究書においては、そのあたりをもっと明確に示すつもりですが、ここでこの本の革新性の概略についてまとめておきたいと思います。参考にしていただければ幸いです.
(1)皇道論の系譜として水戸学、津和野国学、そして長谷川昭道を関連づけ、そこから「大教宣布の詔」、および「教育勅語」が出て、ある種の寛容性をもちつつ、諸宗教・諸思想を包摂する国家神道の思想路線が定まっていったことを示したこと。
(2)国家神道論(とりわけ語義)の混乱の要因は、皇室祭祀の位置づけがうまくできてこなかったことにあることを示し、3要素(皇室祭祀、神社神道、国体・皇道の教義)の関連づけを示したこと。
(3)国体論と国家神道との関連はこれまでうまく示されてこなかったが、皇室祭祀+神社神道という明確な神道要素とぴたりと重ならないものの密接不可分の関係にあるものとして図示し(63ページ)、その関係を分かりやすく示したこと。
(4)国家神道は本来結びつかない3要素を近代の学者・研究者が勝手にくっつけたものではなく、元来、祭政一致、祭政教一致、皇道などの語で示されるような一体性をもつものとして構想されたので、自然な命名だったことを示唆したこと。
(5)神社神道は皇室祭祀の大々的な機能拡張と不可分に形成されたものであり、それだけを切り離すことはできず、また、皇室崇敬・国体論と結びついた神職養成機関の形成がその組織基盤となったことを示したこと。
(6)学校教育の基軸に天皇崇敬があるべきことを示した教育勅語は、学校の儀礼秩序体系とも結び着き、国家神道の重要な構成要素となったのであり、それによって国家神道の国民への浸透が促されたことを明確にしたこと。
(7)国家神道は教育勅語煥発以後、公的精神秩序の規範として次第に国民生活を蔽っていくようになり、諸宗教・思想はそれを受け入れた上で限定的な「信教の自由」を享受するという宗教・思想の二重構造が成立したことを示したこと。
(8)国家神道は明治初期には「祭政教一致」という青写真の下、国家の主導によって形成されたが、庶民に浸透することによって今度は下からの運動として大きな力を発揮するようになったことを宗教運動や地域社会の運動の例を通して示したこと。
(9)GHQによる神道指令の「国家神道」定義は、教団中心の宗教観や「教会の国家からの分離」こそ信教自由の鍵というアメリカ的な宗教観の下、国家神道の主要要素である皇室祭祀をまったく無視し、宗教史の実際を見失ったものだったことを示したこと。
(10)GHQは占領統治の便宜や日米連携の観点から皇室祭祀をほぼそのまま保持するという選択をしたため、国家神道ははるかに小さな規模のものになったとはいえ、戦後も存続し、その拡充如何が政治的な論題であり続けたことを示したこと。
(11)戦後日本で好まれてきた日本人論は、国体論や国家神道の旧来の形態の後を引きつくもので、「固有信仰」や「空虚な中心」という論点は、皇室祭祀が国民統合の核心にあった戦前とそれが見えにくくなっている戦後を対比すると理解しやすくなる。