自殺が減らない社会からどうすれば抜け出せるか?

『妙音』2011年1月1日号

 五年前、エジプトのカイロに六週間ほど滞在したが、そこでは自殺も殺人もとても少ないとのことだった。これは取り締まりが厳しいことなどさまざまな理由が考えられが、人の命を軽んじることは神の意志を無視することで、地獄に落ちるというイスラム教の信仰が関わってることは確かだろう。日本の宗教伝統は、そのような意味で自殺を厳しく戒めることがない。武士が権力を握っていた時代には、切腹や心中は同情されるべきことだと感じられており、美しい死、あるいは物語になる自殺が好まれるような気風があった。「サムライ」の語が好まれる昨今も、この伝統は力を保っているのかもしれない。

日本では宗教文化的には自殺に許容的な背景があり、宗教による自殺禁止のモチーフも比較的弱かったと考えられる。にもかかわらず、一九九〇年代までの日本は自殺率がさほど高くはなかった。その理由を推測すると、人々が共同体や組織に所属しており、そこで仲間と連帯意識をもつのが比較的容易であったことがあげられよう。ここで共同体や組織というのは、家族・親族、会社、地域社会(村や町)、同窓会、信仰仲間などである。少し前、「オバタリアン」などという言葉が流行ったが、これも中年の女性の連帯意識がよく表すものだろう。

一九五〇年代、六〇年代は、企業が終身雇用、年功序列の日本型経営システムで大いに成功した時期だ。多くの男性は会社の仲間集団に帰属意識をもち、会社に献身して、その発展をわが事のように喜びその報いを得たと感じることができた。他方、女性は親族や地域社会や信仰仲間を作るのを好み、またそれが上手であり、強力な連帯組織を作り上げていった。他方、この時期は兄弟姉妹が多い戦前生まれの家族もまだ健在であり、10人以上の構成員をもつ家族・親族集団が正月やお盆や法事など、さまざまな機会に集まる凝集力を保っていた。

一九八〇年代以降の日本の自殺率の上昇は、こうした共同体や組織の支えが失われ、孤立する家族や個人が増えてきたことと関わりがある。組織と自殺の関係では、それまでは組織への帰属感からの引責自殺が典型的だったとすれば、八〇年代以降、組織に酷使されて疲れ果て、行き場を失い、言わば組織から捨てられるようにして自殺するケースが目立つようになった。また、多重債務者や派遣労働者のように、組織には支えられるよりも責められるような関係が増えて来ていることも認めざるをえない。人間関係が希薄化し、安定した人間関係こそ提供できるような基礎的なコミュニケーション資源が得られない人々の自殺が増えたのだ。

これは高齢化とも深い関わりがある。高齢者はそもそも人間関係が希薄化しがちだが、経済システムの変化に伴う社会環境の変化によって高齢者の孤立化が深まった。関西大震災や水害などでも高齢者の被害が目立つようになったが、これは高齢者の自殺の増大と符節を合わせている。二〇〇〇年代に入ると、葬儀の縮小化傾向が目立つようになり、病院から火葬場に直行する「直葬」という形式が増大している。これらは急速に高齢者人口が増加する中で、その高齢者の孤立化が進行していることと、自殺者の増大に関連があることを示唆するものである。

もちろん孤立化しているのは高齢者だけではない。失業者、フリーター、派遣労働者といった人々、自ら孤立を深めていく引きこもりの人々なども増大してきた。ネット心中が生じる背景にはそうした人々がいる。他者との交わりに困難を覚える精神障害者、とりわけうつ病に苦しむ者も増え続けてきた。これは社会が孤立する者を支える基礎力を失ってきているためである。他者を無条件に受け入れる心情や姿勢、つまりは「あなたがそこにいることが私たち双方の幸せだ」というメッセージが発せられない社会になっている。孤立化、個人化が進む社会で、「いのちへの歓迎」の気持ちを発する宗教的資源が枯渇していると言い換えてもよいだろう。

三万人もの自殺者がいるということは、自らのいのちが人々に受け入れられていないと感じている人、また、生きていてよかったと感じられない人が多いということだろう。自殺を減らしたいものだ。だがそれ以上に、多くの人たちが「君とともに生きていてよかった」という人々からの歓迎の気持ちを心から感じ取れる社会にしたい。そして、その際、宗教が果たせる役割は小さくないはずだ。

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