映画『おくりびと』と新しい死の文化

『世界』791号、2009年5月                               

一、死に向き合う娯楽文化

滝田洋二郎監督、小山薫堂脚本、本木雅弘主演の映画「おくりびと」が、第八一回アメリカ・アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。モントリオール世界映画祭でグランプリを受賞した勢いで、メディアが競って注目する世界の映画賞の頂点にまで達した。日本でも観衆の感動をよび多くの賞を得たのだったが、世界的な標準でこの一年を代表する傑作と評価されたことは興味深い。

「おくりびと」とは死者の顔やからだを美しく整え、あの世への旅立ちの装束をつけて棺に納める仕事を請け負う業者を指す。作品では、「おくりびと」が行う「死」の儀礼の描写が、反復されるハイライト・シーンになっている。死のタブーを背負わされ、社会の片隅に追いやられがちな存在がヒーローとなる。死を正面から見つめることが促されていると解釈するのは自然である。

すっかり感動して見通した筆者だが、論評するとなるとあらためて構え直さなくてならなくなる。だが、映画に詳しいとはいえない筆者は作品の評価には立ち入らず、この作品と時代精神の関わりを多面的に問うことにしたい。まずは、この作品が日本の多くの観衆の感動を呼んだこと、そして海外の観衆にも訴える力をもっているらしいということに注目し、その理由を考えてみたい。

 二〇〇七年には秋川雅史の歌う「千の風になって」(新井満訳詞)が大ヒットした。死者が生者に語りかけかのような歌詞が、多くの人々の心を動かした。これは欧米ですでに流行していた歌の日本語版である。そういえば、イギリスに長期滞在してスピリチュアリズムに学んだ人気の「スピリチュアル・カウンセラー」、江原啓之が、死者のメッセージを伝えるテレビ番組「オーラの泉」は二〇〇五年から、「天国からの手紙」は二〇〇二年から始まっていた。これらの現象にはどこか相通じるところがあるのではないか。

 まずは、「おくりびと」のあらすじをたどりたい。

 物語は大都市のオーケストラの新入りチェロ奏者だった主人公、小林大悟(演者:本木雅弘)がオーケストラの解散によって失職し、生まれ育った庄内地方の都市に帰り、そこで「納棺師」になるところから始まる。喫茶店を営んでいた父は妻と六才だった大悟を捨て、ウェイトレスの女性とともに去った。その父こそ大悟をチェロに導いたのだった。一人で大悟を育てた母も二年前に世を去って、今はもういない。大悟は父を恨んでいるが、ふだん父のお気に入りのチェロ曲を演奏することで心を癒し清めようともしている。

広末涼子演ずる妻の美香とともにもと喫茶店「和」の空き家に帰り、「旅のお手伝い」の求人広告に応じて出かけたところ、即決採用されて納棺師の道を歩むことになったのだった。「NKエージェント」とは旅行代理店かと思ったが、実は納棺請負業のことだった。しかし、山崎努が演ずる「社長」、佐々木生栄の悠然たる父性に魅了されて、大悟は納棺師の仕事を受け容れるようになる。

 ポーカーフェイスで万事を飄然と、しかし冷静に判断し、思いやり豊かに行動するこの社長の立ち居振る舞いを見れば、失職した有能な若者が納棺師として生きていってもよいと思うのもなるほどと感じられる。ところが、大悟は美香に納棺師という仕事を得たとは言えない。しかしやがて察知されてしまう。そんな恥ずかしい仕事はやめてほしいと懇願しても夫は屈しないので、美香は「汚らわしい」という言葉を残して実家に帰ってしまう。

確かに死骸処理の仕事は楽ではない。汚物にまみれ腐爛した病死体や自殺者の遺体を清めなくてはならないこともある。遺族からも周囲の人たちからも冷たい眼差しを浴びせられる。だが、心を込めて遺体を清め、死化粧をして「死者を送る」仕事には、芸術家を志した大悟の心を捉えるだけの、深い意味があると感じられたことが示唆されていく。

 妊娠がわかって帰ってきた美香がついに夫の意志に納得したのは、銭湯のおばちゃんで未亡人の山下ツヤ子(演者:吉行和子)を送る納棺と火葬に立ち会った時だった。銭湯をやめてマンションにしようと母と争っていた息子が、懺悔の涙に暮れる。また、銭湯の常連客で実は火葬場の職員だった平田正吉(演者:笹野高史)は、ツヤ子との淡い愛と死別の思いを語る。死は旅立ちであり、死に立ち会うことは門の向こうに送り出すことだ。死という門において、自分はたくさんの人を送りだして来たのだと。

ようやく美香も死者を送る仕事の意義が納得できるようになる。ちょうどその頃、大悟の父の死の知らせが届く。近隣の漁師町で一人きりの孤独な男が死んでいた。その荷物に住所が記されていて連絡が来た。逡巡の末、大悟は遺体の父に会いにいく。そして自ら納棺を執り行おうとして、固く握られた父の手をいぶかって何とか開く。すると、そこから一つの小石がこぼれ落ちて来る。

その小石は小さな大悟が河原で父と交換した丸い石の片割れだ。大昔の人類が気持ちを伝え合うのに、自分の気持ちを表す石を用いたのだという。父がくれた少し大きなゴツゴツした石は実家の古いチェロとともにあった。大悟が父にあげた石が、死にゆく父の手に握りしめられていたのだった。大悟は父の手からこぼれ落ちたその石を自分の子どもがいる美香のお腹に押し当てる。

 以上のあらすじからわかるように、この映画の背後では父と息子の軋轢と和解という物語、悲しみを超えて癒しの時が訪れる物語の時間が流れている。父の死とツヤ子の死という重い犠牲を経て、生への信頼と若い夫婦の絆が回復される。だが、それはまた納棺師という職業のスティグマに傷つく主人公を通して、現代の葬送儀礼の卑賤視された側面に目を向け、そこにこそ「死者を送る」精神の精髄を見出そうとするものでもあった。

 「納棺師」というのは後に紹介する青木新門の『納棺夫日記』で取り上げられた「納棺夫」という職種を言いかえたものだ。この納棺夫という職業は全国どこにでもあるものではない。死体を清める湯灌(ゆかん)や死者の身づくろいはかつては遺族が行ったが、今ではおおよそ葬儀業者に任せる傾向が強まっている。また、病院で看護師が行う清拭(せいしき)(エンゼルメイク)と区別がつきにくいものにもなっている。いずれにしろ必ずしも目立つ儀礼ではない。

 だが、この作品では、納棺師は行き届いた心配りと修練された精妙な身体技法で、死者にふさわしい荘厳な美を与える。静かな、だが繊細をきわめる技で人々の心を癒し感動をもたらす、魅惑的な職種として描き出されている。納棺の儀式を終えた遺族が、社長や大悟に深い感謝の念を吐露する場面が複数ある。また、雪をいただく山を背景に、飛び立つ白鳥の群れを美しく描いた映像も印象的だ。

 映画館でこの作品を見た後、ある葬儀で知り合った葬儀業者の社員に感想を聞いたところ、「誤解を招くので困っている」とのことだった。「そんなに収入がよくありません」とも言われた。最初の場面で社長は大悟に月収五〇万円を提示するのだが、そんな高給はありえないということのようだ。

 この映画を見て、納棺夫や葬儀業者や火葬場職員が人の死生の真実に深く関わる職業であると考え、そうした職種に就職したいと思う若者が増えるかどうか分からない。だが、卑賤視されがちな死に関わる職種の意義が見直されるという、偏見解消的な効果をもつのは確かだろう。また、遺族が湯灌を業者に任せる傾向はいっそう強まるだろう。業者が湯灌の演出に力を入れる傾向も生じるかもしれない。

たとえば主人公が腐爛した死体に辟易する場面や遺族の言い争いの場面を通して、この作品は死の統御できないあらあらしい側面を描き出している。その上で、だからこそ死者を送る儀礼プロセスは意義深いもので、生の充実感の源泉となるような力を秘めたものだと示唆もしている。死を忘れた近代文化に対して、再び死に向き合うことを促す文化潮流に棹さすものと言ってよいだろう。

 二、洗練されたパフォーマンスが死を超える

作品ではいくつかの場面で、死を主題とした印象的な会話が語られている。死をまったく疎遠で近づきがたいものとはせず、身近な事柄として考え語るという態度が示される。作品全体を通して、死があってこそ生の力がもたらされること、死に立ち会いつつ死を超える絆を築きうること、死者を美しく送ることで和解と愛が、そして充実した日々の生がもらされうることが印象づけられていく。

以下は死の意義を語るそうした場面の主なものである。

(1)大悟が納棺夫をしていることに美香が気づき、美香が「一生の仕事にできるの」、「恥ずかしいと思わないの」と詰問する場面での会話。

大悟「どうして恥ずかしいの。死んだ人に毎日さわるから。」

美香「ふつうの仕事をしてほしいだけ。」

大悟「「ふつう」って何だよ。誰だって必ず死ぬだろ。僕だって死ぬし、君だって死ぬ。死そのものがふつうなんだよ。」

(2)妻が実家に帰ってしまって沈みがちな納棺夫生活を続ける主人公、大悟と銭湯の常連、実は火葬場の職員の平田正吉が橋の上から川面を見つめながら語り合う場面がある。上流へと遡ろうとする何匹かの魚の横を同種の魚の死体が下ってゆく。

大悟「何か切ないですよね。死ぬために上るなんて。どうせ死ぬなら何もあんなに苦しまなくても。」

正吉「帰りてえんでしょうの。生まれ故郷に。」

(3)意気消沈している大悟を社長の佐々木が自室によび、卓上のいろりをはさんで食べ物を勧めつつ、それとなく励ます場面がある。ふぐの白子を焼きながら、佐々木は自分の背後に飾ってある亡き妻の写真に、大悟の目が止まっているのに気づく。

社長「女房だ。九年前に死なれちまった。夫婦ってものはいずれ死に別れるんだが、先立たれるとつらい。きれいにして送り出した。俺の第一号だ。それ以来、この仕事してる。(焼けたふぐの白子をもって)これだってなあ、(おいしそうにしゃぶりついて)ご遺体だよ。生きものが生きもの食って生きてる。だろ。……死ぬ気にならないなら、食うしかない。食うならうまい方がいい。うまいだろ。」

大悟「うまいっすね。」

社長「うまいんだよなあ。困ったことに。」

(4)銭湯のおばちゃん、ツヤ子の死に際して、美香は大悟が精妙な仕草でツヤ子を送る、別れの式を進めるのを目のあたりにする。ツヤ子の顔を拭く所作のため、大悟が渡すガーゼをうやうやしく受けとることで、美香は大悟の仕事がもつ深い意義を承認する。

続いてツヤ子の遺骸を送る火葬場の場面となる。いつも銭湯で将棋を打っていた平吉が棺を炉に収め点火する役割の職員であることが分かる。ツヤ子は死ぬ少し前のクリスマスの夜に、平吉とケーキを分け合いつつ、ともに銭湯を営んでほしいと愛を告げたという。そのツヤ子の棺の入った炉に点火しようとして、平吉は次のように語る。

平吉「長(なげ)えことここさ居て、つくづく思うんだよの。死は門だなあって。死ぬってことは終わりってことでなくて、それをくぐり抜けて次に向かう門です。私は門番として、ここでたくさんの人を送ってきた。「行ってらっしゃい。また会おうの」って言いながら。」

(5)もっとも感動的な場面は、大悟と父の遺体との出会いの場面である。突然、父の死の知らせが舞い込んだ時、大悟は遺体を弔うことを拒否する。自分と母を捨てて去った父への恨みは深い。だが、親は子どものことを深く気づかっていたはずだと察する美香や、自ら愛人のために幼い子どもを捨てて今なお会うことができないでいるNKエージェント事務員、上村百合子(演者:余貴美子)に説得されて、大悟は現地に赴く。

父は段ボール一つの所有物とともに、漁協の小さな部屋に横たわっていた。孤独にさすらう身の父は、漁師の仕事を手伝って小さな部屋を与えられて暮らすうちに静かに亡くなった。大悟はその顔にかけられた布を取りのけて、父の死に顔と対面する。

大悟「情けないけど覚えていない。おやじの顔、こんな顔してたって見てもわかならいんだ。何だったんだろう。この人の人生って。七〇数年生きて残したものがこのダンボールだけ。」

だが、その遺体の身仕度を整えようとして、大悟は父の右手がかたく握りしめられているのに気づく。左手と組み合わせるため、丁寧にしかし力を入れて何とかその手を開こうとしたとき、その右手から小石がこぼれ落ちた。その時、大悟の脳裏に少年のときの父の顔がよみがえる。チェロを教え、石を受け渡した父の面影が。

作品は全体として、荒々しく残酷な死の衝撃を語るとともに、葬送儀礼の軽視されてきた側面がもつ大いなる力により、死の衝撃が克服されうることを語っている。だが、それとともに、死を経ることで親子の根深い葛藤が克服されうること、そして家族の絆が回復されうることを示唆している。

ツヤ子の息子は、母を送るとき母の意思に反し、争い続けてきたことを激しく悔いて、「母ちゃん、母ちゃん、ごめんの、ごめんの」と繰り返し母に許しを乞う。他の葬送の場面でも、度々和解への歩みが示唆されているが、その楽観性に違和感を覚える人もいるだろう。しかし、多数の観衆はそこでほっと涙を落とす。

この作品はまた、故郷の復興の展望を希望的に語ってもいる。死にゆく人の旅立ちは鳥海山を背景とした白鳥たちの飛翔のように美しい。それはまた、川を遡って産み落とされた故郷に帰り死を迎える魚の、けなげな一生が報いられることへの期待でもある。人情あふれる銭湯は存続が可能になるだろうし。段ボール一つの所有物とともに世を去った大悟の父の質素な生きざまや、社長やツヤ子や平吉の素朴ながら人情味あふれる生活は、美しい自然を背景にチェロを演奏する大悟や、美香や美香のお腹の子によって継承されていくだろう。

作品はまた、山崎努と本木雅弘が演じるところの、精妙で流麗な儀礼的所作の美的な力を雄弁に表現してもいる。そこに小津安二郎作品を初めとする日本映画が培ってきた、独自の伝統が受け継がれているように思う。それはまた、日本の武道や芸道が伝えてきた、儀礼的コミュニケーションの豊かな伝統を反映するものでもあろう。

本木雅弘はこの作品を構想したとき、納棺師の仕事が「人に見られながら儀式を進める点では、芝居に近い」ものだと感じたという(『マリオン・ライフ』二〇〇八年九月号)。納棺師を演ずる山崎や本木、またそれを演出し撮影する滝田監督らは、この繊細を極める美的表現の伝統に、自らも参入するようにしてこの作品を形つくっていったと見てよいだろう。

だが、それはまたとても新しい現代的な感受性を反映してもいる。厳しい鍛錬を経て習得され、流れるように演じられる納棺師の身体性は、チェロ奏者のような現代ミュージシャンの身体性とも通じているが、高度に洗練されたサービス業や現代組織人の身体性とも通じている。万全の配慮と繊細さをきわめる丁寧でなめらかな振る舞いを身につけたレストランやホテルや航空機接客係、あるいはよどみなく流麗なプレゼンや交渉術を身につけた現代ビジネスエリートの繊細な儀礼的パフォーマンスを思い浮かべてもよいだろう。

本木雅弘が演ずるところの納棺師が人々の共感をよぶ背景には、こうした繊細美に私たちが囲まれるようになっているという事実がある。それをとても気持ちよく感じる人々がいるとともに、どこかやりすぎで窮屈ではないか、もっと言えば強迫的抑圧的ではないかと感じる人々もいるだう。伝統的な儀礼の窮屈さにとまどって右往左往する人々を描いた伊丹十三監督の『お葬式』(一九八四年)の、ときに野性的で無秩序な、肉感あふれる解放感覚と対比してみるのもよいだろう。

  三、「納棺夫日記」から「おくりびと」へ 

「おくりびと」は青木新門の小説、『納棺夫日記』にインスピレーションを受けたものだ。

この本は一九九三年に「納棺夫日記」他の短編小説集として初版が刊行された。九六年に刊行された増補改訂版(文春文庫)では、他の二つの短編が削除され、かわりに「『納棺夫日記』を著して」という自作解説文と、作家で親鸞を敬愛する仏教者の高史明による解説が掲載されている。

短編「納棺夫日記」は一九七三年以来、富山県で冠婚葬祭業に携わった経験をもとに、著者の死生観・宗教観を述べたものだ。増補改訂版のテクストから青木作品の特徴と魅力のゆえんを探ってみたい。

作家の吉村昭が序文に次のように書いている。

 人の死に絶えず接している人には、詩心がうまれ、哲学が身につく。それは、真摯に物事を考える人の当然の成行きだが、『納棺夫日記』には、それが鮮やかに具現されている。この作品の価値は、ここにこそある。/死体をいだき、納棺する青木さんを、私は美しいものと感じ、敬意を表する。

作品では青木が次第に仏教にひかれ、宮沢賢治。高見順、金子みすずなどの詩作品にも鼓吹されながら死への省察を深めていき、最終的には浄土真宗の信仰理念に近い仏教哲学へと近づいていくさまが描かれている。

 『納棺夫日記』の語り手で、納棺夫になったばかりの頃の青木新門自身も、「おくりびと」の大悟と同様、妻に「汚らわしい、近づかないで!」という言葉を投げつけられたという。大悟同様、青木も死の穢れによる排除の態度に悩まされた。そこに青木は、穢れにとらわれて死から目をそらそうとする、閉ざされた精神を見る。また、死から目をそらすのは、生と死を画然と分ける西洋文化の悪影響によるものだとも論じられている。

 既存の宗教は死に向き合う力を失っている。だが、「みぞれの中で大根を洗うこの地方の老婆は、梢に残った木の葉が一枚落ちる度に、「なんまんだぶつ」と口ずさんでいる」(四一ページ)。そんな素朴だが力強い信仰の次元をとらえようとして、青木は煩悩を超えた次元から照らし出されるような「光」の経験に注目するようになる。たとえば、高見順の詩集『死の淵より』の中の「電車の窓の外は」が取り上げられる。この作品の次のような詩句こそ青木が悟りの境地の表現ととらえるものだ。

  電車の窓の外は/光にみち/喜びにみち/いきいきといきづいている/この世ともうお別れかとおもうと/見なれた景色が/急に新鮮に見えてきた/この世が/人間も自然も/幸福にみちみちている/だのに私は死なねばならぬ/だのにこの世は実にしあわせそうだ/それが私の悲しみを慰めてくれる/私の胸に感動があふれ/胸がつまって涙がでそうになる

親鸞が無量光仏(阿弥陀仏)を意識しながら不可思議光と名づけたこの〈ひかり〉に出合うと、不思議な現象が起こってくると青木はいう。「まず生への執着がなくなり、同時に死への恐怖もなくなり、安らかな清らかな気持ちになり、すべてを許す心になり、あらゆるものへの感謝の気持ちがあふれる状態となる」(一〇二ページ)。こうした光の体験こそ、煩悩が消滅し生死を超えることを可能にし、大乗仏教の最終目標に一瞬のうちに到達させてくれるものなのだ。青木は浄土真宗でいう「正定聚」というのはこの境地だと説いている。

しかし、「現代人に宗教を説き、信を求める時、この不可思議光が万物一切の本質であり、宇宙の真理であることを、どのようにして納得させ得るかが問題なのである」(一三五ページ)。現代の宗教は現場に即応した死生観を説くことができなくなっている。現場の死に近づく機会があり、その体験を如実に伝えることができる詩人や納棺夫にこそ、そのような力をもった導きができるのかもしれない。青木はそう示唆している。

以上、紹介してきたように、青木新門の「納棺夫日記」は、おおよそのところ仏教の教えに導きを求めている。ただ、それを現代的に咀嚼して、現場の経験に即して語り直す必要があるとし、詩人的な感性や表現力が必要だとも論じている。実際にはその後、「納棺夫日記」は浄土真宗の人々に歓迎され、真宗の信仰や真宗寺院の葬送儀礼の再活性化の方向で活用されたようである。

いずれにしろ、「納棺夫日記」は既成仏教の儀礼に対して否定的で、教えや体験に希望を見出そうとするものだった。そもそも浄土真宗には葬送儀礼の形式的呪術的側面に対して否定的な評価を下す伝統があるが、真宗地帯で暮らしながら死の文化に考えをめぐらした青木は、その伝統を引き継いでいるように見える。

「おくりびと」は確かに「納棺夫日記」のモチーフを多々借用しており、それらをうまく翻案して用いている。だが、死の文化の窮状にどう対処するかという点では、「納棺夫日記」とは異なる方向を見ているようだ。

「おくりびと」では、キリスト教の家族の納棺場面も映し出されている。また、佐々木社長は、クリスマスに事務所で大悟にチェロをひかせるとき、特定宗派にこだわらない鷹揚さを見せて、観衆の共鳴を誘っている。「おくりびと」は教義や宗教組織や悟りの境地などではなく、儀礼や修練された所作にこそ希望をかけているからだ。それは洗練されたチェロの演奏や高度のビジネス・パフォーマンスを通して、個々人の心理的安定や幸福感が享受されることへの期待と相通じるもののようである。

この点で先ほども言及した伊丹十三の「お葬式」との対照に少し立ち入ってみよう。「お葬式」では儀礼が身についていない人々の、儀礼に対するとまどいがコミカルに描かれていた。だが、「お葬式」の人々は、儀礼についていけなくとも、濃密な家族、親族、近隣の人間関係にどっぷり浸り込んでいた。伊丹作品のおもしろさはその煩わしさに苦しむ人々の、まったく洗練されていない猥雑な振る舞いが繰り広げる悲喜劇にあった。

だが、「おくりびと」では父と子、母と子、そして妻と夫のか細くはかない絆が問題になっている。ハッピーエンドに終わっているようだが、けっしてがっちりとした温かい絆の回復が期待されているわけではない。個々人が習得する入念精妙なパフォーマンスに支えられて、かろうじて絆が実感される。

そういえば、この作品は、実は単身者たちの物語ではなかったか。長く孤独で住所も不確かな大悟の父や、おそらく単身生活の上、二年前に亡くなった大悟の母だけではない。NKエージェントの佐々木社長、上村事務員、銭湯のおばちゃんツヤ子、火葬場職員の正吉と、多くの重要登場人物は単身者のようである。そもそも地方の小都市の閑散とした街路風景が、薄れゆく絆を露わにしている。確かに社長と大悟が納棺のために訪れる家族は、濃密な共同性や複雑な人間関係をかいま見せている。だが、主人公たちはどちらかといえば、そうした共同性の外に立っている。

「千の風になって」は死者と生者の連帯を高らかに歌っているようにも受け取れる。だが、宇宙をかけめぐる孤独な魂の語る言葉は、残された者の孤独を寂しく歌っているようにも聞こえるはずだ。

「おくりびと」のハッピーエンドも、親子や夫婦の温かい絆に賛歌を捧げていると解釈できないこともない。だが、むしろこの作品は、厳しい死の表象を媒介とすることで、かろうじて薄くか細い絆への信頼感を呼び覚まそうとしていると見るべきだろう。広々とした庄内平野の春風に吹かれながら、朗々と奏でられるチェロの響きは、そうした孤独な心象風景にふさわしいように思える。

この解釈は、現代における死の文化の復興と見られるもの全体の解釈にも関わってくる。個人化の進行によって自己を支える共同性を見出しにくくなった現代人は、死や喪失を強く意識し、その表象を深く内面化する。そしてそのことによって、はかない個々人の間の絆を保持し、かろうじてわが身の置き場所を確保しようと試みている。

「おくりびと」とは、か細い絆の喪失に何とか耐えようとする、けなげな諸個人を支える先達の呼称かもしれない。そしてグリーフケアのセラピストと同様、「おくりびと」の先達も、繊細なケア精神の発揮によって自らの痛みを癒し、実は受け手たちに支えられているのだろう。観衆はそうした登場人物たちに自らの似姿を見て、心を動かされるのだと思う。

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