仏教的スピリチュアリティと生命倫理

『春秋』492号、2007年10月、1−4ページ
「スピリチュアリティ」という語のさまざまな用法の中で、現代の生命倫理問題に関わる場面でのそれは、検討が始められたところでしょう。日本の仏教の側からの生命倫理問題に対する取り組みは、「スピリチュアリティ」概念を用いることによって、一段と深められていく可能性があるのではないでしょうか。


[医療の進展にともなう生命倫理の問題]
 現在、生命科学や先端医療が従来の科学技術の枠を越えて発展し、人類のこれまでの生活のあり方や価値観を大きく変えてしまうのではないかと予想されている。
 すでにアメリカでは、独身女性やレスビアンのカップルが、ドナーの精子を使って子どもを産むことが常態化している。提供する女性に大きな負担がかかる、卵子を他者からもらって行う体外受精も公然と行われている。インターネットでは精子や卵子を提供する人が、自分のプロフィールを示して、手に入れたい人を募集している。代理出産もおおっぴらになされている。自分では子どもを産むことができない女性のかわりに、援助を申し出た他の女性の子宮に受精卵を着床させるのだ。女性との間に金銭の授受がなされる場合もある。
 これは行き過ぎだとしても、自らの精子や卵子を無償で医療のために提供する人の善意は受け入れてよいのではないか。不妊のカップルはそれによって大いに助けられる。何とか子どもをもつことができるようになった夫婦の喜びはいかばかりか。
 代理出産は日本では許されていないが、韓国では認められている。韓国ではまた、ヒトのクローン胚を作る研究のために、2000を越える卵子が提供されたという。体外受精のための卵子提供はなされているが、さらにそれを難病患者の救済のために用いてはならないのか。薬剤を用いて誘発された排卵は心身の負担の多い事柄であり、予後に死をもたらした例もあるようだ。しかし、副作用がわずかな人ならば、問題ないのではないか。
 日本の産科婦人科学会は卵子提供や代理懐胎は認めていないが、産婦人科医のなかには学会の規制を無視して実行する医師もいる。諏訪マタニティークリニックの根津八紘医師は、二〇〇一年、自分の子宮の機能が失われた女性のために、近親の女性が代理懐胎して出産したと公表した。二〇〇七年四月には、代理出産をボランティアで行う女性を公募した。日本産科婦人科学会は一九九八年に根津医師を一度除名しているが、二〇〇三年に再入会を認めている。この度は「厳重注意」の処分を行ったが、それで根津医師の医師活動が大きく妨げられるわけではない。
 代理出産は生体間の臓器移植に似ている。生きている他者から腎臓や肝臓の一部をもらうことで救われる人がいる。だが、そこで対価が支払われるとすると臓器売買となる。臓器売買は世界各地で行われており、必ずしも減少する方向に進んでいるとは言えないらしい。日本では臓器売買はなされていないはずだが、いつまでもそうであり続けることができるかどうかわからない。
 日本では家族間の生体間臓器移植は比較的さかんに行われている。腎臓だけでなく肝臓の移植も増えている。だが、なぜ家族の間ならよいのに、やや遠い間柄の人の間ではいけないのか。2006年には愛媛県の医師が、いくつも病気の腎臓を摘出して他者に移植していたことが報じられた。これは対価を支払ったものではないが、妥当かどうか議論が多い。ともあれ、レシピエントやその家族らはその医師に深い感謝の念を抱いているという。
[価値判断の基準「慈悲」がはらむ問題]
 以上のような新しい医療行為を進めることについて、仏教の倫理観にしたがってどのように応答できるだろうか。
 とりあえず、慈悲の理念が思い浮かべられよう。慈悲は「慈」benevolenceと「悲」compassionとを組み合わせた語で、他者に安楽を与え、苦しみを取り除くことをいう。ブッダの前世について語った「ジャータカ(本生譚)」を見ると、ブッダは自らの身体を犠牲にしてまで他者を救おうとしたという物語が見出だされる。飢えた虎のために自らのからだを差し出した王子の話(捨身飼虎)はよく知られている。
 臓器や配偶子を得ることで、また他者の子宮を借りることで、死を免れたり子どもを得ることができる人のことを考えれば、これらの医療は喜ばしい事柄なのではないか。仏教の慈悲の教えにのっとって、臓器売買や卵子提供や代理母を是としてよいのではなかろうか。
 臓器をもらえば助かるはずの患者さんの苦しみを思い浮かべつつ個々の事例を見ると、いかにもこうした議論が妥当と思われるかもしれない。しかし、ことはさほど単純ではない。ジャータカが語るように「自らの身体を犠牲にしてまで」ということを難なく実践できるのは、ブッダのような、類例がないほど特別に尊いと信じられている人に限られており、誰にでもできることではない。自分がそんなことができるだろうかと考えたとき、イエスと答えられる人は稀だろう。
 にもかかわらずそれを慈悲として広く推奨することは、自らができないことを他者に求めることになる。慈悲は無条件に善とされがちだが、実際は慈悲を実践に移せばその人に重い危害や不利益が及ぶかもしれない。そこまで考慮した上で、慈悲の行為を推奨しているのだろうか。
 慈悲の理念が安易に用いられがちな理由の一つは、慈悲という言葉がもともと非対称的な関係において用いられることが多いことによるのかもしれない。慈悲の能力はまずはブッダやブッダと同等の菩薩の属性であり、人は慈悲の受け手として理解されることが多い。人が自ら慈悲を実践することには限界がある。人は自らを慈悲の実践者として意識することが少ないので、その限界を自覚することも少ないのではないか。生命倫理の問題を考える際には、人間の相互行為の次元で慈悲が何を意味するかを考え直してみる必要がある。ある人が慈悲を実践に移すことは、その人に危害や不利益をもたらす可能性も高い。それでもなお、慈悲の実行を規範として求めるとすれば、どのような観点をつけ加える必要があるのだろうか。
[不殺生戒とい倫理規範の重要性]
 一つの観点は、不殺生の戒をどのように応用するかということだろう。アメリカの生命倫理学では、生命倫理の規範となる原理として、自律尊重autonomy、無危害non- malficience、仁恵beneficience、正義justice の4つが列挙されることがある。仁恵の規範と無危害の原理は重なり合うが、仁恵が善と幸福の可能性を見ているのに対して、無危害は悪や暴力の可能性への恐れを喚起する。仏教の慈悲が仁恵原理に関わりが深いとすれば、無危害原理に対応するものは不殺生の戒であろう。不殺生とはいかなる生き物をも殺傷しないことをいうが、その現代的な解釈としては、まずは人間である他者に対する暴力を慎むこととして受けとめるべきだろう。
 臓器売買や卵子提供や代理出産が許されるかどうかは、このような現代的な意味での不殺生戒に照らして考察する必要があろう。臓器売買の臓器提供者は多くの場合、貧困な人々であり、生命を縮めても現在の生活費を充実させたいと思っている。臓器売買によって提供者側の発病率がどれほど上昇するか、余命がどれほど縮小するかについての研究は乏しい。しかし、腎臓の有償提供によって寿命を縮めた人が少ないと考えるのは楽観的に過ぎるだろう。卵子や子宮を提供することについても同様である。
 また、臓器売買や卵子提供や代理出産が世界的な広がりをもって是とされ、人類社会のノーマルな実践となったとき、どのようなことが起こるかについて想像してみる必要もあるだろう。卵子の提供が広く認められるようになれば、たとえ法令でそれが自発的でなければならないと規定されていたとしても、実際には多くの女性が卵子を提供せざるをえない立場に追い込まれることになろう。代理出産や臓器売買についても同様である。すでに生体間臓器移植において、患者の家族であるドナーは臓器の一部を提供せざるをえない立場に追い込まれることが多いという研究成果もある。もしそうであるとすれば、それは弱い立場の人たちに自らのからだを犠牲にして他者への奉仕のために用いるよう強制するのに近い。それは医師の行為として無危害の原理に反するし、現代的な意味での不殺生戒に背くことになろう。
[菩薩行の前提としての対等性・相互性]
 慈悲の倫理につけ加えて取り上げるべき今一つの観点として、大乗仏教の菩薩行という理念をあげたい。菩薩行は利他行であり、慈悲の実行とも言えるが、菩薩行の理念においては、相互の対等性がより強く意識されている。菩薩行の理念が力強く表現されている代表的な経典は『法華経』だが、その「常不軽菩薩品第二十」では、誰に対してもその人のもつ仏性を礼拝する常不軽菩薩が登場する。このような行為は他者からいぶかしがられ、暴力的な仕打ちをも受ける。だが、それでも常不軽菩薩はこの他者への礼拝をやめようとしない。この菩薩行の理念においては、自己と他者がお互いに入れ替わりうる相互的な関係にあるものと理解されている。そのように他者が重い存在でありうること、また他者との相互行為は相互を傷つけかねないことを踏まえた上で、他者を歓待することが勧められている。
 ここで筆者が強調したいのは、菩薩行という理念には、関わり合う人々の対等性と相互性という内容が含まれているということである。菩薩行という理念を参照することによって、生命倫理の考察においても慈悲という理念では喚起しにくかった対等性と相互性の観点に思いをいたすことができるだろう。
 臓器売買や卵子提供や代理出産においては、ある種の立場の者がある種の立場の者を従属的な地位に置く関係が生じがちである。自らのからだを他者の利益のために道具のように用いる可能性が濃厚にはらまれている。それは結局のところ、からだを所有物のように事物として用いるということになる。
 このようにからだを道具や資源として用いることは、人間のからだを貶めて、そのことによって関与者相互の心を傷つけたり、無感覚にしたりする可能性が高い。それは現代的な意味での不殺生戒、すなわち暴力抑制の倫理規範に反するのである。
[人類の共有できる価値や規範へ]
 ここで行ってきた考察は、仏教の教義に基づく論証というよりも、仏教的な倫理観や価値観を表すキータームを用いて、現代の生命倫理問題の考察に貢献しようとするものである。それは仏教教義が特定の生命倫理問題への一義的な答を提供すると見なすものではない。仏教的な超越性の捉え方や倫理的感性、つまりは仏教的スピリチュアリティを用いて、それぞれの立場から多様な答を提示し、討議を深めるのに貢献しようとするものである。 
そ れは主として仏教を拠り所としてなされる考察であるから、たとえばキリスト教的なスピリチュアリティに基づいてなされる生命倫理問題の考察とは、異なった味わいをもつことになるだろう。だが、いつもそうだというわけでもない。仏教的スピリチュアリティと他の宗教伝統や文化伝統を踏まえたスピリチュアリティとは必ずしも対立するものではなく、無理に区別しなければならないものでもない。それぞれの伝統に基づくスピリチュアリティから学びつつ、人類の共有できる価値や規範に近づいていくことも展望できるだろう。そのような作業は容易ではなく、たいへん時間もかかるだろう。しかし、そのようにして人類的合意にたどりつくことが必要であり、それが目指すに値する意義深い目標であることも言うまでもない。

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