死生学の展開と組織化――東京大学大学院人文社会系研究科グローバルCOEプログラム

『臨床看護』456号(へるす出版)、2007年11月、2007−2010ページ
この号は、「死生観と看取り」を特集し、現在進行形のさまざまな企てが取り上げられています。死生学は臨床死生学を大きな入り口としつつ、現代の新たな知の潮流を形成しつつあります。


[はじめに]
 筆者が所属する東京大学、とりわけ大学院人文社会系研究科では、現在、多くの教員や若手研究者が協力して「死生学の展開と組織化」という課題に取り組んでいる。現代の知の布置の中でますます重い位置を占めるようになってきている「いのち」や「死」をめぐる諸問題について、ある広がりと深みをもった総合的な学知を構想し構築しようとするものである。
 筆者は5年前からこのプロジェクトに深く関わることになった。東京大学人文社会系研究科が、時代のニーズに応じた、人文系の学問の新たな展開を目指して、医学部等と連携しつつ2002年にCOEプログラムに「生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築」と題して応募した。その「拠点リーダー」という役割を担うことになったからである。幸い、「生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築」は順調に5年間の計画を終えることができたが、引き継いで「グローバルCOEプログラム」が始まることとなった。21世紀COE「死生学の構築」の実績が高く評価された東大は、新たに「死生学の展開と組織化」という課題を掲げて応募した。幸いこの度も採用され、2007年度からさらに5年間のプロジェクトに取り組んでいる。
[「死生観」と「死生学」]
 「死生観」という日本語は一定の歴史をもっており、現代日本人の日常生活にある程度、浸透してもいる。「死生」の語は『論語』に見られ、「生死」は仏教の根本思想に関わるが、「生死観」ではなく「死生観」の方が広く用いられるようになる経緯は複雑だ。1904年に加藤咄堂という著述家が『死生観』という書物を著したのが、この語の初出らしい。儒学の素養をもった武家の出の文才豊かな人物が、仏教や修養に関する著述や講義・講演で身を立てるようになる。その過程で武士の生き方を支える思想を明らかにしようとし、「死生観」の語を用いるようになった。それが次第に定着していくのだが、アジア太平洋戦争の時期には「死生観」も「生死観」もさかんに使われた。若者が戦地におもむく前にそういう題を冠した書物を読むようにもなる。
「死生学」の方はもっと新しい用語だ。これは英語のthanatologyやdeath studiesに対応する日本語として用いられるようになった。1970年代以降、死にゆく者へのケアの学びや近親者を喪った人の集いがわき起こってきた。死が日常生活から遠ざけられていくが、現代人は死から逃げるのではなく、あらためて死に向き合い、その上で生きる姿勢を確かなものにしていくべきではないか。
 他方、身近な人の死をどう弔い、記憶にとどめるのか。現在の葬送の仕方や墓のあり方にも疑問をもつ人は少なくない。さらにまた、子どもの頃から、「死の準備教育」を行うのが望ましいという考えた方も台頭してきた。「死生学」の語の興隆の背後には、こうした新たな潮流がある。
[死に行く人をケアし見送るには文化の力が必要]
 死生をめぐる問いは人類永遠の問いであり、事新しく学問を作り始めるような筋合いのものではないといぶかる人もあろう。だが、20世紀も終わりに近づいて、先進国ではこんな学が必要だと感じる人が増えてきた。
 まずは病院である。病院では人が死んでゆく。だが病院で働く医師も看護師も、人を治療するための知識や技術を習得してはいても、死に行く者に向き合うすべを知らない。そこで従来の病院にはなかった施設を作ろうとする試みが始まった。ホスピスである。キリスト教の土壌から育ってきたホスピスにあたるものを仏教の土壌からも育てようと、「ビハーラ」の運動も広がりつつある。
 そんな施設が必要になるのは家庭で死ぬことができないからだ。家族が直接、ケアにあたり、畳の上で死ぬ習慣を回復すればよいという考えもある。もっとものようだが、それでは現代の家族は死に行く人を看取り、見送るすべを知っているだろうか。また、その力があるだろうか。死に行く人をケアし見送るには、実は文化の力が必要なのだ。かつてはそれが親から子へ、子から孫へと伝えられていった。地域の共同体も家族を支えていた。そこに宗教的な作法や観念が関わる場合も多かった。だが、現代人は、そうした「死生の文化」から遠ざけられていきつつある。私たち皆が、新たに死生と向き合うすべを学び、育てる必要を感じている。
[生と死の密接な関係]
 では、なぜ「死の学」とよばずに、「死生学」とよぶのか。そもそも「どう死に向き合うか」という問いは、「どう生きるのか」という問いと切り離せない。私たちは生き物を殺して、その恩恵をこうむって生きている。死者がいてこそ、私たちの生はある。親や祖父母や先祖、あるいは彼らの同時代人たちが築いたものを糧として私たちは生きている。必ず人は死ぬのだから、いつも死に向けて生きている。そのことは実はうっすらとではあれ、いつも意識している。そして、自分が死んでも新たな生があることを前提としなくては、生きる力はなえてしまうだろう。
 生と死はこのように密接にからまりあっている。儒教で「死生」といい、仏教で「生死」というのは、このような生と死の関わり合いを前提としてのことだ。現代人はそれを「いのち」という、もっと感情のこもった言葉で表現することもある。「大いなるいのち」という語は、現代宗教のキータームの一つともなった。そこに現代人が見失いつつある知恵を取り戻したいという願いがこめられている。「死生学」はこのような知恵の回復を目指し、「生と死」についての知の探究を多面的に進めていくことを目指している。
[「いのち」と「死」にもっと深く問いかける]
 これまで「死生学」が掲げられる時、医療やケアの現場に焦点がしぼられることが多かった。確かに死に行く人の看取りや親しい人を喪った人のケアは、広い意味での死生学にとっても重要な課題である。だが、私たちが構想する死生学は、こうした問題を受けとめつつも、もっと広く古今東西の諸文化、諸文明の中で、人々が死や死をめぐる問題にどのように向き合ってきたかを考察する。それが現代の臨床やその他の現場での実践を基礎づける分厚い知識となることを願っている。
 新しい死生学の企てにとって臨床的、現場学的な関心は他の意味でも開かれて幾必要がある。現在、生命倫理学とよばれているものを見直し、その基礎を問い直すことも死生学の構想の一部である。功利主義的な傾向が強い、英語圏を中心とする生命倫理学にかわり、「いのち」と「死」をもっと深く問いながら、生命科学や医療技術の急速な発展が引き起こす諸問題に応じていこうとする。したがってこの企ては、応用倫理や実践哲学の学問的深化という課題に答えようとするものでもある。
 
[文明や宗教についての奥深い知の継承、発展を目指すもの]
 このように現代の切迫した諸問題に応答しようという構えをもつが、死生学はまた、文明や宗教についての奥深い知の継承、発展を目指すものでもある。そもそも「いのち」や「死」をどうとらえ、「いのち」や「死」とどう向き合うか。その姿勢は諸文化、諸文明の基底部を形づくる。宗教・芸術・文学はいつも「いのち」や「死」を問い続け、描き続けてきたともいえる。生命観や霊魂観、また葬送や追悼の様式は、その文化を生きる人々の情緒や感情の、ひいては思考パターンの枠組みを形づくっている。
 こうした知の拡充はこれまで諸学が蓄積してきた知を土台としながら、それぞれの学問分野に新たな方向性を切りひらく刺激ともなるだろう。哲学・倫理学・宗教学・インド哲学仏教学・中国思想文化学・文学研究・美学・美術史学・考古学・歴史学・心理学・社会心理学・社会学・教育学・法学・経済学・情報学・医学と、このプロジェクトを担う研究者は多分野に広がっている。諸分野での学問的な課題、また社会のニーズに関わる実践的な課題にも貪欲に関わろうとしてきた。
 たとえば、私たちは死者をどのように遇しているのか、死者から贈られてくるものをどのように受けとめようとするのか、生殖をめぐる規範はどのような力によって左右されてきたのか。未来の人類への責任に思いをめぐらすことは、死者との共同性について省みることとも切り離せない。
 地球上のさまざまな場所で、西洋の文化を背景とした近代的な学知の狭さが嘆かれ、新たな知のあり方が模索される現在、このプログラムが構想する死生学は文明間、文化間の交流や対話の新たなあり方を展望しようとする。また、専門的な学知の間の壁を越え、偏狭な知を越えていこうともする。「いのち」や「からだ」や「こころ」が顔を出す場では、自然科学的な探求方法がものを言うとともに、人文学や社会科学の知もさまざまな応答を志す。理科と文科のギャップは医療やケアの現場で緊急の問題となるだけでなく、現代人の生活のさまざまな領域で難題を課してもいる。死生学は専門化し、特殊領域化する学知の分断を越えることも目指している。
[生活者の問いかけに答えうる学術的専門的知識が求められている]
  医学系の研究者、また、ケアや教育の現場に取り組む人々との協力は、このプロジェクトのもっとも重要な課題の一つである。そして、自らが死生の問題に直面している生活者の体験や実感とも近い目線で考えていく必要がある。現在、ここまで死生学に関心が集まるのは、死に行くひとりひとりの人々、患者さんやその家族、死者を見送りしのぶ人々、そしていずれは死に行く生を日々送っている老若男女のニーズがあるからだ。現代社会ではふつうの生活者が「死生」の現場からの問いかけを行っており、それに答えうる学術的専門的知識が求められている。ときに、アカデミズムの殻を破った市民との対話の試みも必要になってくるだろう。
 死生学の構想は大きなものである。だが、学を形成する作業は辛抱強く緻密なものでなければならない。高い目標を掲げ、見えにくい遠くをあえて見ようとしながら、一歩一歩踏みしめて進みたいものである。当然のことながら、それはこれまでのディシプリン(専門学科)の枠を崩そうというのでもない。個々のディシプリンがその伝統に根ざしつつ、死生学の方向へ新たな試みに踏み出していく、その力を結集したい。

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