強硬派政治宗教勢力の台頭をどう理解するのか?

マリーズ・リズン『ファンダメンタリズム』(中村圭志訳)岩波書店、2006年、解説
オックスフォード大学出版から出ている〈1冊でわかる〉シリーズ。「ファンダメンタリズム」という語で現代宗教の動向がどこまで捉えられるか。ここに、解説文を付しますが、ぜひ、本書にも目を通してください。「日本の読者のための読書案内」も付されています。


 一、どうよぶのか?
 世界各地で宗教が地域紛争にからむ例が増大している。特定宗教を奉じる人々が関与する紛争がこじれて、戦争やテロがくり返され、収束の見通しが立たない。解決の道が見えない一つの理由は、双方に強硬派がいて対決的な政策を支え、戦争を後押ししたり、自爆テロをも含めて死をいとわず戦おうとしたりするところにある。
 彼らの敵は外にいるだけではない。彼らが信ずるところの本来の宗教的生活を掘り崩すように見える、現代人の生活や文化のあり方も内なる敵と見なされる。断固として立ち向かおうとする敵が外にも内にもいる。戒律や宗教的倫理にそむく行為を自らしないだけではなく、信仰を否定する他者の言動を制限することをも辞さない。信仰深い者の模範に従う方向に社会をかえ、ひいては神聖国家を実現しようとする。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラームというアブラハムやモーセの系統を引く一神教に、こぞって強硬派があり和解を難しくしている。だが、インド亜大陸に目を移すと、イスラームと対決するヒンドゥー教の強硬派(民族奉仕団=RSS、世界ヒンドゥー協会=VHP、など)があり、彼らをバックにもつインド人民党(BJP)が政権をとるようになった。北インドのシーク教の強硬派も独立を目指して激しい紛争を引き起こした。スリランカでは仏教国家の多数派であるシンハラ人人と、ヒンドゥー教のタミールが血なまぐさい闘いを続けている。
 このような事態が強まってきた時期は一様ではないが、一九七八年以降のイラン革命が転機として記憶されている。イスラーム共和国の樹立に至ったこの運動の刺激を受けるかのように、またそ歩調を合わせるかのように、諸宗教の中で政治的目標を掲げる強硬派が目立つようになってきた。そうした運動のルーツは二〇世紀の初めに、さらには一九世紀に、あるいはもっと以前にまで遡るかもしれない。だが、大衆運動となって多くの地域で無視できない政治的影響力をもつようになったのは一九八〇年代以降と見てよいだろう。
 これらをどういう名でよぶかが難しい。英語ではfundamentalismという語が用いられてきた。「原理主義」とか「根本主義」と訳されてきたが、「ファンダメンタリズム」とカタカナ書きで用いる場合もある。本書では、「ファンダメンタリズム」という訳語を選んだが、これはfundamentalismという英語が大いに問題含みだということを意識してほしいという訳者の意図とも関わっている。
 異なる宗教伝統の中から生じてきているさまざまな強硬派の政治宗教的運動をファンダメンタリズムとよぶのが適切かどうか、賛否両論がある。ファンダメンタリズムという語は20世紀の初めにアメリカのプロテスタントの強硬派が自ら聖書の信仰の「根本的なもの(ファンダメンタルズ)」を掲げようとしたのに由来する。聖書は神の意志が直接言葉にされたものだから、字義通り受け取らねばならないとされる。神による世界と人間の創造、イエスが処女マリアに受胎したこと、イエスが多くの奇跡を行ったこと、そしてイエスが肉体のまま復活して天に挙げられた(高挙)こと、イエスの再臨による千年王国の到来が間近いことなどを譲れない信仰として固守するのが「ファンダメンタリズム」であり、そうした信仰を奉じる人々が「ファンダメンタリスト」である。
 一方、イスラーム世界ではコーランの教えをそのままに受け取り、イスラーム法(シャリーア)を厳格に守り、ウンマ(信仰共同体)としての国家を打ち立てようとする強硬派が興隆しており、「イスラーム主義(Islamism)」「イスラーム主義者(Islamist)」とよばれている。具体的にはアラブ・スンニー派のムスリム同胞団やハマース、パキスタンのジャマーアテ・イスラーミーやホメイニ師の教えを奉じるイランのシーア派、同じくシーア派のレバノンのヒズブッラーなどが思い浮かべられるが、一八世紀以来の歴史をもち、サウジアラビアの国教的地位にあるワッハーブ派をそこに含めるかどうかは微妙な問題だ。
 ユダヤ教では近代化になびくことなくトーラー(モーセ五書)やタルムードの規定(ミツヴァ)に従って厳格な宗教的生活を送ろうとする人々が「正統派(Orthodox)」とよばれてきた。アメリカ合衆国では、ユダヤ人は正統派、改革派、保守派のいずれかのシナゴーグに属するのがふつうだ。その正統派の中でも徹底的に神を崇め、厳格な律法の遵守を求める人たちに対して、ハレディームとか超正統派などという呼び方がある。強硬な政治的主張をもつのは、必ずしも厳格な正統派というわけではなく、それと重なったり重ならなかったりする一部の正統派である。
アブラハム系統の一神教だけを見ても、このようにさまざまな歴史的背景があり、さまざまな流れがある。これらをひとくくりにファンダメンタリズムとよぶのは適切か。また、アメリカのプロテスタントの文脈から出てきた言葉を他宗教にあてはめるのは適切か。いくらでも疑問が出てくる。まして、ヒンドゥー教のような多神教、仏教のような非有神論的宗教に同じ言葉をあてはめることができるのか。
 一つの選択は、これらの次々とわきあがる疑問をすべて退けて、広く世界の諸宗教の政治的強硬派を一括し、ファンダメンタリズムという語で押し通そうとすることである。別の第二の選択肢は、アブラハムの一神教の伝統に限定して、聖典に示された神の意志を絶対視するものに限って用いようとするものだろう。第三に、それぞれの宗教伝統の中から出てきた用語を尊び、無理に統一的な呼称を用いることを控えるという道もあろう。さらに、第四の道としてファンダメンタリスムとは異なる特徴づけを示す用語を用いようとする行き方も考えられる。この稿では表題に掲げたように「強硬派政治宗教勢力」という用語による論述を試みているが、第四の道の模索の例である。
 英語圏の多くの学者、著述家、マスメディアはファンダメンタリズムという語を用いて来ている。上に示した分類でいうと、第一,第二の道を選んでいることになる。これは一九九二年から九五年にかけて、マーティン・マーティ(martin Marty)とスコット・アップルビー(Scott Appleby)の編集によって刊行された六巻の分厚い「ファンダメンタリズム・プロジェクト」論文集シリーズ(シカゴ大学出版)の影響が大きい。日本の新宗教まで含めて、世界の諸地域の宗教運動を「ファンダメンタリズム」という観点から論じようとしたこの一大プロジェクトは、比較のための用語としてファンダメンタリズムの語を用いるという趨勢を方向づけたと言えるだろう。
 二、近代性からの逃避と選択的な抵抗という解釈
 本書の著者、マリーズ・リズンはファンダメンタリズムという語を世界の諸宗教にあてはめようとしているという点で、上記の四つの道のうち第一の道を選んでおり、「ファンダメンタリズム・プロジェクト」の路線を踏襲しようとしている。そして、ファンダメンタリズムという語の内容をどのように詰めて明らかにしていくかについて実験的な叙述を行っている。リズンはそれがかなり難しい作業だということがわかっているようだ。だから弁解が多いし、曖昧なままにとどめてあるところも少なくない。副題が「意味の探求」とされているのは、「ファンダメンタリズムに向かう人々が人生や世界の意味を探求している」という意味ではなく、この書物自身が「ファンダメンタリズムという語の意味を探求している」ということを示唆しようとするものだろう。
 「ファンダメンタリズムという語の意味を探求」するためには、現代世界の政治宗教的な諸運動を比較しながら共有されている諸特徴を引き出し、なぜ現代社会でそのような特徴をもつ宗教運動が目立つようになったかを説明するという手順が必要となる。前者は世界の諸宗教文化をその社会的背景の下で比較するという、ウェーバー的な比較宗教社会学の復興を要請するものである。また、後者は近代社会における宗教の変容について論じてきた、二〇世紀中期以降の宗教社会学の見直しという課題を課すものである。リズンは自覚的にではないにせよ、現代の新たな宗教社会学の課題に関わるテーマに取り組んだということもできよう。果敢な試みとも言える。
 もっともリズンは既存の多くの研究に依拠している。スティーブ・ブルーズ、マルティン・リーゼブロート、ジェイムズ・バー、ピーター・バーガーなどの仕事が巧みに取り込まれている。ファンダメンタリズムについてのこれまでの解釈を拾い集め、焦点をしぼって整理したという性格の書物である。その「焦点をしぼって整理」する作業にリズンの独自の貢献があるわけだ。整理の道具、つまり理論への関心がかなり大きな位置を占めている。とはいえ、入門書なので基礎的な歴史的事実の説明も必要だ。さまざまな情報がコンパクトに組み込まれている。そのために強引な説明となり、随所に説明不足や曖昧さが残されているとこごとを言うべきかもしれない。
 では、リズンのファンダメンタリズム解釈はどこに力点を置いているのか。ファンダメンタリズムは宗教的伝統を守り、近代性を受け入れまいとする宗教性だととらえられることがある。だが、ファンダメンタリズムは近代性のすべてに抗おうというのではない。たとえばテクノロジーなどは積極的に用いる。民衆の参加も歓迎する。だが、近代がもたらすある種のものには断固として抗おうとする。では、ファンダメンタリズムが抗おうとするものは何か。積極的に利用しようとするものは何か。
 まず、(1)宗教的多元性の否定ということが注目されている。「違いにつまづく」とか「他者のショック」と言われるが、異なる世界観をもつ他者とともにあることからの逃避を意味する表現である。グローバル化による文化的な多元化が進み、所属する文化が相対化される。それに対して宗教伝統によって神聖な政治秩序を実現し、単一性をとりもどそうとするところにファンダメンタリズムの基本的な特徴があると見なされている(以上、第二章)。
 次に、(2)宗教における神話的なものを歴史的な事実性の方へと引きよせて解釈したり、聖典から実践的な行動指針を引き出そうとするという特徴である。聖典を拠り所とするタイプのファンダメンタリズムの特徴は、必ずしも聖典のすべてを字義通りに受け取ろうとするのではないが、自由な解釈の否定の傾向は顕著だ。共通の規範となるような「事実」にこだわり、また、政治的な含意をもった箇所をとくに取り出して、その側面について「字義通りの解釈」を求めるのであり、選択的な関わり方だ(以上、第三章)。
 さらに、(3)男女の役割の相違を強調し、女性を庇護される側の者としてその権利を否定し、家父長的家族体制を維持ないし回復しようとする特徴が見られる。同性愛を極端に憎むのも広く分けもたれた特徴だ。これは家族の結束を強めようとするものであるとともに、近代化によって脅かされている男性の地位を家族内での権威保持によって守ろうとするものである(以上、第四章)。
 最後に、(4)ファンダメンタリズムとナショナリズムは対立する方向性をもつという解釈があるが、リズンはそれを否定する。ファンダメンタリズムは国家レベルでの権力の掌握を目指しており、国民の結束を強化するナショナリズムと支え合う関係にある。もちろんアラブ・ナショナリストやシオニストのような世俗的ナショナリストがイスラームやユダヤ教のファンダメンタリストと対立することはあるのだが、それは後者がナショナリストではないというわけではない。異なるナショナリズムと見なすべきものなのだ。このように解釈すると、ヒンドゥー復興主義者のような宗教的ナショナリストもまた、ファンダメンタリズムの一つに数え入れるのが容易になる(以上、第五,六章)。
三、多様な解釈と文化・価値の諸前提
 この本は無難な入門書というよりは、特定の立場からの解釈を強く打ち出しており、一定の主張をもった書物である。これは実証主義や客観的な科学の理想から見ると、バイアスがかかった好ましくない傾向ということになるかもしれない。だが、そもそも現代の政治宗教的問題についての論著は、そのような立場性をもって当然とも言えるだろう。論者はニュートラルな学問的客観性という高みに立つことがますます困難になって来ている。むしろ、自らがよって立つ文化や価値の諸前提を明るみに出しつつ議論を進め、対話的な未来へ向けて希望を投げかけることが求められている。著者がどこまでそのことを意識しているかは別として、この訳書はそのような意図のもとで編まれている。そもそも翻訳とは差違の深淵を自覚しながら、何とか橋をかけようとする試みと言えるだろう。以下、そのような観点から、本書の提起する諸問題に応答を試みよう。
 もっとも大きな難点は、多様な現象を性急に一つのカテゴリーに押しこめようとしているのではないかということである。「ファンダメタリズムと」はキリスト教に由来する用語だが、キリスト教のモデルを無理に押しつけるのではない。諸宗教のなかの強硬派政治運動勢力の主張に広く共有される特徴があるので、それらを集めてこの語の意味するところを定めていこうという考え方だが、かなりの無理がある。日本の新宗教まで言及されているが、国家神道的な宗教的ナショナリズムについてはまったくふれられていない。ヒンドゥー・ナショナリズムを「ファンダメンタリズム」に数え入れるとするが、そのための議論(第五、六章)はやや曲芸的である。
 アブラハム系統の一神教の世界でも、さまざまな傾向をこぞって「ファンダメンタリズム」というカテゴリーに押し込もうとしてはいないか。たとえば、イスラーム復興を支えているのは多くの市民であり、彼らがイスラーム主義者を支持しているとは限らない。ユダヤ教の超正統派にも政治的思考や排外的傾向が強くないグループもある。そうした差異にはあまり注意が払われていない。カトリックの中の反世俗主義的、家父長主義的傾向も「ファンダメンタリズム」に含めるような論調だが曖昧だ。現代世界の伝統宗教の中から起こってきている宗教復興勢力はすべて「ファンダメンタリズム」に押しこめられてしまいそうな気配だ。世界各地で広く起こっている宗教復興勢力を見渡し、それらとの関係でファンダメンタリズムを特徴づけるという問題意識が欠けている。
 このように多様な現象を「ファンダメンタリズム」という用語で総括するために、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似」という考え方が引き合いに出されているが、その説明は不十分である。諸現象をある概念で指示するとき、諸現象をひとまとめにするための本質的特徴や最小限の共通項を取り出すことができないことが多い。だが、それでも一群の現象がさまざまな特徴をさまざまな割合で含み持っていて、他と弁別できるほどであればその現象群を指示するものとしてその概念は有効である。たとえば、キリスト教と仏教と儒教とアニミズムは、いずれも宗教だがどれにもあてはまる最小限の定義はできない。しかし、それらがもつさまざまな特徴のいくつかをあわせると、それぞれ宗教とよぶことができるほどの内容をもつ。このような場合、キリスト教と仏教と儒教とアニミズムは「家族的類似」をもつので「宗教」とよんでよいことになる。これも賛否の多い議論だが、「家族的類似」によって「宗教」の語を用いるのが妥当かどうかを検討する作業が続けられている。
 このように本質主義的ではない概念の用い方を示すのが「家族的類似」の語だが、そうであればそれぞれの事例につき、それが他の仲間の現象と同類とするに足る家族的類似性をもつことを示さなくてはならない。たとえば、ヒンドゥー・ナショナリズムはどのような意味で「ファンダメンタリズム」とよべるのかをわかりやすく説明しなくてはならない。しかし、リズンがそれをなしえているかどうか疑問である。結果として、本書のなかの「家族的類似」の語は、「ファンダメンタリズム」の語の恣意的な拡張用法を正当化するために用いられているかのように見えてしまう。
 実際には著者はファンダメンタリズムを近代性からの逃避としてとらえていて、特定の価値判断を明確に押し出した特徴づけを行っている。人権や文化の多元性や自由な知性の価値にさからうものというのが、著者による「ファンダメンタリズム」の主要な特徴づけとなっている。「ファンダメンタリズム」とは著者がもっている世俗的近代のいくつかの重要な価値を欠いたものなのである。このような特徴づけは正当だろうか。以下、著者が「ファンダメタリズム」とよぶものの特徴づけの価値評価的内容が妥当かどうかについて論じていこう。
 まず指摘したいのは、グローバルな視点からの国際政治的な分析が弱いところである。とりわけイスラームの「ファンダメンタリズム」の場合、国際的な政治的権力から疎外されていると感じている人々の支持を得ている運動であり、そのような政治状況だからこそ勢力を強めているという背景がある。パレスチナのハマースの場合はその典型である。そのような状況の下では、「ファンダメンタリズム」が一定の有効な政治的機能を果たしていることは明らかである。「ファンダメンタリズム」は民衆の団結を高め、政治的意志を結集するのに役立っている。圧倒的な軍事力を誇るアメリカやイスラエルの強圧的な政策が、ムスリムの「ファンダメンタリズム」化による政治運動化を支えているのである。そうだとすれば、イスラームの「ファンダメンタリズム」は近代性や多元化するグローバル状況からの逃避ではなく、新たな政治的状況への積極的な適応と見なすことができるだろう。しかし、このような観点は本書のなかにほとんど見えない。
 世俗的ナショナリズムや社会主義のような政治運動と「ファンダメンタリズム」がどのような相互関係にあったかについても議論は行き届いていない。実態は地域や時期によってさまざまであるが、リズンの分析は断片的な例に基づきつつ断定的である。二〇世紀前半にイスラームの「ファンダメンタリズム」とヒンドゥー・ナショナリズムの運動形成期があり、相互影響があったのではないかと示唆されているが、同時期の世俗的ナショナリズムや社会主義との関係はふれられていない。冷戦以後のヨーロッパでは「ファンダメンタリズム」はイスラームが代表することになるが、他者排除の政治勢力ということであれば、先進国内の外国人排斥の運動がきわめて大きな意義をもつはずである。世俗主義ヨーロッパの閉鎖性と外国人排斥の運動がヨーロッパの、ひいては移民の本国の「ファンダメンタリズム」の成長に貢献していることが知られているが、こうした側面については、リズンはほとんどふれていない。
 リズンは移民の「ファンダメンタリズム」以外に、「ファンダメンタリズム」の例があまり見当たらないヨーロッパのリベラル民主主義の位置から、アメリカ合衆国や第三世界の「ファンダメンタリズム」を遠望している。自らが属するヨーロッパのリベラル民主主義があたかも人類の到達すべき理想的地点のように見なされている。「はじめに」でフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」に言及され、自らの「ファンダメンタリズム」解釈がフクヤマの立場に近いものであることが示唆されているのは偶然ではない。先進国の政治構造は人類の理想状態に達したので、あとは発展途上国を引き上げてやればよいということになるが、高いところからの一方的な眼差しである。
 実際には先進国に経済的利益が集中し、発展途上国が不遇な地位を甘受し続けるという国際的な権力配分の恒常的な不均衡の問題を無視した議論である。国際的な権力配分の不均衡にヨーロッパがどう関わってきたのか、またこの不均衡が将来どのように是正されうるのかといった問題についても著者は沈黙している。
 しかし、本書のこのような問題点は著者の特定の立場性や自省の欠如によるものとも言えない。このような論調は、現代の欧米の、そして日本の一部のファンダメンタリズム論やイスラーム論に、また宗教社会学的な宗教論にも広く見られるものだからである。熱心な信仰者は近代化への不適応者で、個人的な不幸を補償するために宗教の提供する幻想にふけっているのだとされる。そこでは近代化に成功して得た客観的・科学的立場の優位が、合理的思考を行使できる自らの本来的属性のもつ優位によるものと見なされている。植民地化や暴力や自己拡張を通して蓄積された富と権力と価値意識を相対化する視点は乏しい。また、そのような客観知を追求する主体の空虚さが顧みられていない。「文明」に至り得ず遅れている者、劣った者を、「文明」の側から見下す眼差しが露骨に表明される時代になりつつある。
 以上のような難点を抱え込んだ書物ではあるが、現代世界の宗教と政治を考え直そうとするとき、本書がさまざまな考察素材を提供するものであることも確かである。第二次世界大戦後の宗教社会学は先進国の内側ばかりを見て国際的な比較やグローバルな視野が乏しく、世界が世俗化を続けていく趨勢にあるという前提からなかなか離れられなかった。リズンの著作もそうした西洋中心主義の現代宗教論の限界をなお引きずっている。しかし、ここには西洋から世界へ視野を広げて、グローバルな社会の中で宗教と政治の関わりを総合的にとらえようとする野心がある。こうした試みから、より充実した現代宗教論が登場してくる日も遠くないことだろう。

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