事故直後から子供は疎開しなくてよいと主張し、その後、生涯最大被曝線量350mSv、しかもそれ以上の線量でも必ずしも移住しなくてよいと主張したイリーンの立場は、ウクライナやベラルーシではなかなか受け入れられなかった。そこで、イリーンは国連放射線影響委員会(UNSCEAR)等を頼り、国際組織やそこに集う外国の科学者の力を借りて自説を支えようとした。
89年5月にUNSCEARによって、生涯350mSv基準の立場をオーソライズしようとした経緯についてはすでに述べた。
だが、それだけではない。すでに1988年にイリーンは自らの立場を支えるのに、重松逸造の力を借りていた。第6部第2章「チェルノブイリの放射線の影響に対する他の解釈。それらに対する日本人専門家のコメントと、ロシア人科学者による未出版の反論」(p416~)を見よう。
この章ではグロジンスキーという植物学者の放射線の健康影響が無視できないとするインタビュー記事(1988年)に対する批判が数ページにわたって述べられた後、1988年にキエフを訪れた重松教授の地元新聞へのインタビュー記事が長々と引かれている。イリーンを重松が強い意志をもって支えようとしたことがよく分かる文章なので、ここにも掲載しよう。
「広島、長崎の生存者の研究を通して、ガン以外の疾病の発生率の増加を証明することは今迄のところできていない。細心の分子生物学的研究を用いても、遺伝学的影響は見つかっていない。影響が全くないという意味ではなく。そのレベルは検知出来ないほど低いということである。
キエフとチェルノブイリに関しては、その線量は日本のケースと比較すれば極めて低く、我々の経験からもこの地の人々の健康に対する悲惨な結果を予感させる根拠がないことは明らかである。しかし、研究は続けて行く必要はある。特に、人々の心配から生じるこれら問題の精神的側面の観点についてはそう言える。
広島・長崎の人々の間にカタル、アレルギー、伝染性の病気がほんの少数観察されるものの、今や原爆生存者は最も高い平均寿命のグループである。これは、彼らの健康に対して特別な注意が払われていることの結果である。彼らは毎年、2,3回の健康診断を無料で受けている。注目すべきことは、被曝した人々はそうでない人に比べてはるかに健康に対する不安が多いことである。
これは病因学的というよりはむしろ心理学的な現象であるように思われる。広く広がったこの病気(日本では「原爆症」と呼ばれる)に対する治療法を誰が知っているというのだろう。現代の医学においても、本当の愁訴と単なる主観的な訴えを区別することができないので、我々は全ての不満に対して対応しなくてはならない。悪性新生物とその医学的物質による防護策については、以下の点を心に留めていて欲しい。
理論上では、環境上のほんのわずかな放射線の増加でさえ、ガン発生率の増加につながるかも知れない。これは例えば、放射線の増加によって百万人に一人多くガンが発生す るようなものである。しかし現段階では誰がそのガンにかかるかを確定させることはできない。もし全員に対し て治療を行ったとすると、99万9,999人が不必要な医療を受けることになる(中略)。
ソビエト連邦のような多くの国民に、この治療を行うことは可能であろうか?仮に可能であるとしても、一人の健康のために、無害とは言えない物質によって毒される99万9,999人の健康状態についての配慮をしなければならない。もっと安全な防御方法を考える方が意味があるように思われる。例えば、肉とウォッカの消費についてとかである」(419~421ページ)
重松は1988年訪問中のキエフで、ソ連の放射線防護医学の責任者であったイリーンが望んでいたとおりのことを新聞記者に語っていた。だが、この段階で重松はチェルノブイリ事故による汚染についてどれほどの知見を得ていたのだろうか。また、住民の健康状況についてはどうか。少なくとも地域での住民の状況については、何も知らなかったはずだ。これは科学的な判断と言えるだろうか。
なお、これはさほど線量が高くなかったキエフでの話だ。より線量の高い地域については別の考えで臨むべきと考えていたのだろうか。そこもよく分からない。だが、とにかくできるだけ多くの住民に避難不要という考えを植え付けることを目指して発言していたことははっきりしている。
このように重松はチェルノブイリ事故後のかなり早い段階でイリーンと連携し、健康被害は少ない、避難その他の防護措置は最小限でよいとの立場で歩調を合わせようとしたことがわかる。こういう背景があってこそ、1990年から91年にかけてのチェルノブイリ国際プロジェクトにおいて重松はきわめて大きな役割を担うことになる。
イリーンは1989年のソ連政府の要請でIAEAが行うことになったチェルノブイリ国際プロジェクトについても詳しく述べている。これはイリーンら、避難をできるだけ少なくさせようとする側の意図を通すためのお墨付きを与えるべく急いで行われたこ とが明らかで、対立する勢力とのやりとりが多く記されている。
チェルノブイリ国際プロジェクトについては、重松逸造『日本の疫学』にもあらましの叙述があるが、200人の国際的科学者集団による国際諮問委員会(IAC)によって行われたものだ。その委員長は重松逸造である。被害をほとんど否定するその内容は囂々たる非難をよんだ。とりわけウクライナやベラルーシの科学者らからの批判が多かった。
イリーンはこの報告について述べながら、度々旧ソ連内の各地域の科学者による研究が国際水準とは異なると述べている。イリーンは旧ソ連の諸国の中での自分たちの立場を強化するために重松と組んで国際チェルノブイリ・プロジェクトを組んだことが透けて見える叙述がなされている。その結論は以下のとおりだ。
「専門家達は、将来に対する多くの重要な勧告を行った。特に彼らは、「住居の移転を行う前に、移住によって住民に悪影響を及ぼすかも知れないということも考慮されなければならない」と指摘した。特別な注意が、事故による心理学的影響を減少させようとしているプログラムの組織化に向けられた。彼らは、人体に及ぼす被曝の影響について、住民と地方の医師のための教育プログラムを作成する必要性を強調した。そして彼らは、医学的診断と検査機器、材料や試薬の品質を改善するために全力で取り組むべきだと勧告した。最後に彼らは、再び「地方科学者による統計学的データ収集と登録システムが、国際的に認められた基準と方法によって基づいて行われなければならない。」と勧告した。」(386ページ)
重松、メットラー(米)らによるチェルノブイリ国際プロジェクトについてのイリーンの記述を読むと、被害情報について、国際原発開発勢力の主導権の下で何とか上からの調査情報把握と情報管理を行い、その意志を通そうとした様子がよく分かる。
では、このチェルノブイリ国際プロジェクトの調査とそこから見出された被害評価はどのようなものだったか。調査委員会の委員長である重松逸造自身のまとめ(『日本の疫学』2006年)を引こう。
「1989年10月、ソ連政府はIAEA[国際原子力機関]に対して、チェルノブイリ原発事故の影響に関する客観的な評価を依頼しました。その理由は、住民の健康に対する不安や心配が急速に高まってきており、これには情報不足、政府への不信、マスコミの過剰報道、専門家間の意見の相違などに加えて、前述したペレストロイカやグラスノスチといった社会情勢がこれに拍車をかけたためです。
IAEAは、WHOなどの6国際機関と協力して、専門家約20名からなる国際諮問委員会(委員長:筆者)を発足させ、この委員会が約200名の各国研究者が参加する調査班5チーム(自己経緯、環境汚染、被ばく線量、健康影響、防護対策)を編成して、1990(平成3)年5月より約1年間にわたり現地調査を実施しました。」(.61~62ページ)
200名の研究者が5チームを編成したというが、それにしては調査のデータは小さなものである。調査期間がわずか1年で、あっという間に結論が出されたこともこの調査の信憑性を疑わせる要因である。
「この調査の目的は、この時点で被ばく住民の間に心配されているような健康被害の増加があるかどうかを評価することにありましたので、疫学調査の方法としては、ある時点での有病状況を比較する断面調査が行われました。具体的には、七汚染地区と対照となる6非汚染地区を選び、生年によって2,5,40,60歳に該当する各年齢群約25人ずつ抽出しました。検査は次の12項目について行われました。①既往歴、②一般的精神状況、③一般的健康状態、④心臓血管状態、⑤成長指数、⑥栄養、⑦甲状腺の構造と機能、⑧血液と免疫系の異常、⑨悪性腫瘍、⑩白内障、⑪生物学的線量測定、⑫胎児と遺伝的異常。最終的に検査を終了した者は計1356人でした。」(63ページ)
調査対象となった被曝者は約700名、残りの半数近くはほとんど被曝を受けていない対照群である。わずか700名の健康診断的な検査と被曝線量推定調査なのだが、たいへん強い結論が引き出されている。それは次のようなものだ。
「調査結果を要約すると次のとおりです。
一、汚染地域と非汚染地域で実施された検診結果を比較すると、両地域とも放射線と無関係な健康障害が目立っており、放射線被ばくに直接起因すると思われる健康障害は認められなかった(図4-1)。(図4-1は「要医療割合」が非汚染地区の方で高いことを示す)
二、事故の結果、心配や不安といった心理的影響が汚染地域以外にも拡がっており、ソ連の社会経済的、政治的変動とも関連していた。
三、ソ連側のデータによると、白内障やがんの増加を認めていないが、これは特定部位のがん増加を否定するのに十分なデータとはいいにくい。しかし、調査チームによる推定被ばく線量と現行の放射線リスク推定値から見て、汚染地域で大規模、長期の疫学調査を実施したとしても、将来がん発生の増加を検出することは困難であろう。ただし、小児の甲状腺被ばく線量推定値によると、将来甲状腺がんの発生増加をもたらすかもしれない。」(62~4ページ)
この調査の手法から見ても分かるし、そこから提示された結論の大胆さからもうかがわれることだが、このチェルノブイリ国際プロジェクトの調査結果は科学的な価値は高いものではない。国際的な科学者200人の名をそろえたということが、そもそも権威に頼ろうとする危うさを感じさせる。そのような多数の科学者が、短期間に一つの研究プロジェクトを有効に遂行するというのはありえないことである。
これに並行して、重松逸造は長崎大学の長瀧重信らを登用して、長期的な本格的調査を始めようとしていた。笹川チェルノブイリ医療協力事業である。ここで長瀧氏や山下俊一氏がどのような姿勢で調査に望んだかは、「放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(1)~(8)」ですでに論じた(とくに(7)(8))。そこでは、1990年の長瀧氏の最初の訪問で、放射線の健康影響に対処することではなく、「不安を取り去る」ことが課題だとの判断が下されていた。
それはちょうど、重松がイリーンと組んでチェルノブイリ国際プロジェクトの調査を行っていたときだった。長瀧が最初の訪問で真っ先に決めたリスク評価は、ソ連政府の立場から下されたイリーンの判断、そして国際的な放射線健康影響・防護の科学者仲間という立場での重松の判断に相即するものだった。
重松逸造は長期にわたって放影研の理事長を務め、加害者側であるアメリカの疫学調査の立場を堅守してきた。また、多くの公害事件で被害を小さく見積もる政府側の立場に立ってきたことも知られている(広河隆一『チェルノブイリから広島へ』岩波書店、1995年)。
1989年から90年にかけてその重松と(他の国際放射線健康影響・防護専門家たちと)イリーンが協力して、チェルノブイリ原発事故の放射線の健康被害を極端に小さく見積もろうとする立場を築こうとしていた。その立場に立って、初めから「不安を取り除く」ことに主眼を置いて調査を進めたのが、長崎大学の長滝重信氏や山下俊一氏を主体とする笹川チェルノブイリ医療協力だった。そして原爆被害の研究の成果の上に立って、チェルノブイリ原発事故調査を行ったとして、世界でも有数のその道の権威者として、福島原発事故の被災対策に取り組んだのが、長瀧氏や山下氏だった。
イリーン、重松、長瀧、山下氏らは、詳細な研究を始める前から下していた判断を、そのまま科学的調査に反映させたと疑われてもしかたがないだろう。それは被災地の近くで診療にあたった多くの医学者等の立場と対立する。彼らの目には被害者や潜在的な被害者の利益に反する偏った被害調査を行ってきたものと映らざるをえなかった。
なお、2002年、スイス・テレビジョン制作ウラジミール・チェルトコフ(Wladimir Tchertkoff)「原子のウソ」(「核をめぐる論争」)http://vimeo.com/42618038 はその様子を可視化している。この映像はWHOのキエフ会議(2001年6月)の取材を基礎としたもので、以下のサイトに解説がある。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/ECRR_sankou_06.html
イリーンの『チェルノブイリ:虚偽と真実』は、地域の医師・医学者に原発推進側に立ち、放射能被害を被る人々の立場を軽視する経緯をソ連政府側当事者の立場から描くことで、図らずも核大国と原発推進勢力の利益を守ろうとする国際的な「専門家集団」の結束のあり方を浮彫にしてくれている。
チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ――イリーンと重松の連携が3.11後の放射線対策にもたらしたもの―― (4)イリーンに協力した重松逸造の系譜の医学者
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