「心のケア」の専門家と社会

『心と社会』(日本精神衛生会)44巻4号(154号)、2013年12月、pp.5-8

 多くの人々の利害や日々の過ごし方に関わって、また、政策論の対象となるような公共的な討議において、「心」が大きな主題となる。これは現代社会で目立つ傾向だが、もしかすると日本でとくに顕著になっていることかもしれない。
 人々の心が社会の秩序や生産性に大いに関わることは、社会科学や人文学が長く強い関心を寄せてきた事柄だ。社会科学や人文学に親しんだ者が、1度はその学説について学んだことがある社会学者にマックス・ウェーバーがいる。ウェーバーは心の領域を「価値」や「意味」の領域として捉え、社会研究にとって決定的な意義をもつと考えた。人文学に目を向ければ、哲学や歴史学を学ぶ人々も研究対象としての心について忘れることはないだろう。

 ところが、現代政治の場面で「心」が問題になるとき、その専門家として注目されるのは、心理学者や精神医学者だ。そこで、「心の専門家」とは何だろうかという問いが生じる。私がこの問題に注意が向くようになった1つの理由は、「心のケア」という語がある時期からたいへん広く用いられるようになったことだ。やがて学校で「心のノート」というものが用いられるようになったときは、これでよいのかとだいぶ気になった。
 現代社会は「心の専門家」が大いに期待され、たくさんの役割を託される傾向があるらしい。その中には精神医学や臨床心理学の対象となるのが当然と考えられる領域がある。精神医学の場合は、統合失調症やうつ病などで病む人々の治療やケアが目指される。これはあまり違和感がない。だが、それを越えて精神科医や臨床心理士がケアすべき領域が広がっており、その限界がどのあたりなのか見えにくくなってきている。
 このような事柄が気になる理由の1つは、私が宗教研究を専門としているからで、「心のケア」はそもそも宗教の領域と見なすこともできるからだ。かつて宗教に委ねられていた領域が、今では精神医学や心理学に委ねられるようになる。そしてそれは政治的な意志を密接に結びついている。宗教も政治的な意志と結びついており、政治的な支配を補完する機能を果たす側面があると見なされてきた。だが、精神医学や心理学も同様の批判を受けることがある。
 宗教もそうだったが、精神医学や心理学が批判されるのも、認められるべき「心の自由」に介入して、それを脅かすということだろう。精神科医や心理学者ひとりひとりは政治的な意図からは自由であると確信していることが多いと思うが、それはいつの間にか形成されている専門領域の職業的見解であるのかもしれない。人文学や社会科学の方からの「心」や「心と社会」へのアプローチとの対話が求められるところだ。
 もっとも現代の精神医学者や心理学者の中で、こうした問題を強く意識している人は少なくない。臨床心理士を志す人の大多数が所属する心理臨床学会に対して、「心と社会」の批判的考察を重視する臨床心理学会や社会臨床学会があるのはそのよい証拠だ。精神医学でも精神衛生学会や社会精神医学会や多文化間精神医学会があることが思い出される。だが、この領域はもっともっと充実し、学際的なアプローチを拡充することが望ましいのではないだろうか。
 たとえば、終末期医療や災害時の支援活動において、「心のケア」あるいは「スピリチュアルケア」の領域は広い。自殺についても同様だ。これらの領域は狭い専門分野の中でのみ取り組みうるものではなく、さまざまな学問分野や文化資源が関わるのが自然な領域だ。東日本大震災後の日本では、こうした認識がだいぶ高まってきているように感じられる。
 宗教者や宗教団体による支援が、終末期医療や災害支援や自殺防止(自死遺族ケアを含む)において一定の役割を果たしうることが認知されるようになってきた。欧米ではこうした領域にキリスト教徒やキリスト教組織が関わるのは、むしろ当然と考えられてきた。チャプレン制度があり、宗教教団・宗教伝統に支えられた社会支援が大きな役割を果たしてきたからだ。そうした記憶が乏しい近代日本では、宗教が社会的支援活動において一定の役割を果たしうるという認識が低かったが、ここへ来て変化する兆しがある。
 他方、放射能の健康影響については、生物医学側からの「心のケア」への強い要請がなされている。福島原発事故による放射能の健康影響はたいへん小さいはずで、それよりも放射能を怖れることによる悪影響が懸念されるので、それに対処すべきだと医学者や放射線健康影響学の専門家が主張し続けている。政府はその主張にそって「心のケア」に大量の予算が投入されている。しかし、その妥当性は大いに疑われてしかるべきだ(島薗進『つくられた放射線「安全」論』河出書房新社、2013年)。こうした問題は本来、多様な学問分野が関わり、開かれた公共的討議によって議されるべき事柄だろう。
 私の見るところ、「放射能を怖れることによる悪影響」というのはほとんど学術的な検証の対象とされてはいない。だが、「放射線の健康影響」に対する防護措置をとらなくてもよいとする立場と表裏一体になって主張されている。どこまでが「科学」なのか、どこからが政治的な主張なのかよく分からなくなっている。こうした問題は、医学とりわけ疫学によって取り組まれる問題、また精神医学や臨床心理の問題であるとともに、「心と社会」をめぐる幅広い学問分野で取り組まれるべき事柄だ。医学者は確かに健康の専門家だ。だが、「心と社会」をめぐる問題はまことに広く、社会における心の健康についても、専門家を医学者や心理学者に限るのは狭苦しい考え方だろう。
 「心の専門家」の役割は公共的な討議の中で問われ続けるべきものだ。この認識は、政治家にも厚労省、文科省、環境省といった官庁にも求めたいし、マスコミにも求めたい。だが、まずは医学や心理学の教育課程に組み込まれるべき事柄ではないだろうか。一般社会が医学や心理学についてリテラシーを高めていくことが求められるとともに、「心のケア」の専門家とされる人々が、その「専門」とはどういうことなのかを市民とともに考え、対話し、自覚するようなシステムを高めていくべきところに来ているのではないだろうか。

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