倉沢愛子他編『岩波講座 アジア・太平洋戦争6 日常生活の中の総力戦』岩波書店、2006年4月、239−268ページ(途中まで)
はじめに
牧口常三郎の指導する創価教育学会は現在の創価学会の前身だが、発展途上にあった戦争末期に厳しい取締りを受けた。牧口と弟子の戸田城聖は一九四三年七月に治安維持法と不敬罪の容疑で逮捕され、苛酷な獄中生活で信仰を守り通し、牧口は四四年一一月、衰弱の末に獄死し、戸田は終戦直前(四五年七月)に保釈された。国家が強制しようとした国家神道への従属を受け入れず、あくまでも日蓮正宗に基づく創価教育学会の信念体系を譲らず、牧口は取調官に堂々とその主張を述べた。このような行動と態度は、アジア太平洋戦争期の日本の軍国主義とファシズムに対する「抵抗の宗教」の例証と言えるのだろうか。
一九六〇年代から八〇年代にかけて、創価学会に対する学問的な研究をリードした、宗教学者の村上重良の評価はかなり厳しいものである。牧口らの逮捕に先だって、一九四二年、機関紙『価値創造』は九号で廃刊に追いやられる。牧口は「廃刊の辞」で「大善生活を、仏教の極意、法華経の肝心の信仰によって、実証するので、国策にかなうことを信ずるものであるが、廃刊になるのは、不認識の評価によるか」と述べている。村上はこれを引いて次のように論じている。
創価教育学会の主張には、唯一の正しい宗教である日蓮正宗を国家が採用することによってのみ日本が繁栄するという基本線があり、軍国主義、国家主義の国策と本質的に対立するものではなかったが、天皇制ファシズム期の思想統制の枠におさまりきれないその異端性はおおうべくもなかった。戦局の悪化とともに、政府は、その神社崇敬の否定と国家諫暁のうごきを危険視して、根こそぎの弾圧を加えたのである。[村上一九六七、一一一−一一二頁]
これに対して、九〇年代の後半以降、熱い共感とともに牧口常三郎の思想と信仰を論じている農学者の村尾行一は、「牧口の思想と行動の背後には、天皇の絶対神聖化と国家神道とが習合した当時の国家のイデオロギーに対する異議申し立てがある」[村尾二〇〇二、五五頁]といい、「牧口は毫も臆することなく、軍国主義と天皇制と国家神道の三位一体である昭和軍国主義国家の基本的イデオロギーを根底的に批判」した[同、一八二頁]として、その論を次のように結んでいる。
昭和軍国主義――/(「/」は原文改行箇所を示す)それは、およそ民権を圧殺する重圧国家であった。だから「国民あっての国家であり、個人あっての社会である」とする牧口、そして思想・信仰の自由等の基本的人権を「神聖不可侵」なものとする徹底的な民主主義者である牧口は、死を賭しても昭和軍国主義と全面対決するしかなかったのである。[同、一八三頁]
両者の評価の隔たりは、戦後の創価学会や公明党のあり方に対する評価とも関連しており、戦前から戦後の歴史全体に関わる大きな問題をはらんでいる。だが、とりあえず焦点を戦時期にしぼり、牧口の取締りに関わる資料を丁寧に読み込むとともに、牧口の生涯とその思想・信仰の全体を見通すことによって、より的確な叙述と評価に近づくことができるだろう。牧口常三郎はそのような検討に値する骨太の思想を生きた人物である。牧口の「抵抗」と「協力」について見ていくことで、アジア太平洋戦争期の日本の諸宗教の「抵抗」と「協力」を、近代日本史、とりわけ近代日本宗教史の大きな文脈の中でとらえるための一つの手がかりが得られるかもしれない。
一、創価教育学会の発展と戦時下の信仰生活
創価教育学会の名前が初めて記された『創価教育学体系第一巻』の刊行日は、一九三〇年一一月一八日である。この書物は教育者・教育学者としての牧口のライフワークとして、長期にわたって準備されたものである。(1) 牧口の教育思想の核心には、生活知開発思想というべきものがあり、これは一九〇三年の『人生地理学』から一九三〇年の『創価教育学体系第一巻』に至るまでかわっていない。学ぶ側の子どもたちが、自らその意義を認識しながら、自らの経験を通して自発的に学んでいくような教育のあり方を目指したものである(島薗進一九九三)。『創価教育学体系』ではそれが「価値論」という形で再検討されている。
教育は何らかの価値の創造を目指して知を育てていくのだが、その価値とは何か。牧口は「真善美」と整理される価値概念に対して、「美利善」を対置する。価値は主体的なコミットメントを要する行為の次元の事柄だが、「真」は客観的な認識の次元の事柄であるから価値の領域には属さない。かわって、人々の生活に即した身近な価値である有用性、すなわち「利」が重視される。人格にとって部分的な意義しかもたない感覚的価値である「美」、そして個人の全体にとって、つまりは全人的な生命の充実である「利」を通して、人は価値創造に参与していく。だが、さらに高い次元の価値がある。それが「善」である。「善」とは個人にとっての有用性を超えて他者との共同生活の充実を目指す社会的価値である。このように社会的価値を強調し、社会性を重視した人格形成のための価値創造の教育を提唱しようとしたのが元来のプランだった。
だが、刊行が近づくに従って牧口は急速に日蓮正宗の信仰を強めていく。牧口を日蓮正宗の信仰に誘ったのは、研心学園(後の目白学園)の校長を務めていた三谷素啓であり、その出会いは一九二八年の春のことだった(2)。『創価教育学体系第一巻』の刊行時には、牧口はすでに熱心な日蓮正宗信徒となっていた。とはいえ、日蓮正宗の教義は複雑であり、日蓮の遺文や法華経に親しみ、宗派独自の解釈を身につけなくてはならない。牧口は後に法主となった堀米日淳(泰栄)に師事して日蓮正宗の教義を学んだが(一九三二年頃からのようである――全集第一〇巻、四二三頁)、その内容に習熟し、在家信徒集団のリーダーとして活躍するに至るまでには、かなりの時間がかかったはずである。
『創価教育学体系』全四巻が刊行された後の一九三五年に、牧口は小冊子『創価教育学体系梗概』を刊行している。そこには「結語=法華経と創価教育(著者の辞)」という長文の一節が置かれており、教育思想と日蓮正宗との関係について率直に述べられている。冒頭には、「創価教育学体系の研究が次第に熟し、将に第一巻も発表せんとした頃、不思議の因縁から法華経の研究に志し、そして進み行く間に余が宗教観に一大変革を来した」とある[全集第八巻 四〇五頁]。
そこで一大決心を以て愈々信仰に入って見ると、「天晴れぬれば地明らかなり、法華を知るものは世法を得べき乎」との日蓮大聖人の仰が、私の生活中になる程と肯かれることゝなり、言語に絶する歓喜を以て殆ど六十年の生活法を一新するに至つた。暗中模索の不安が一掃され、生来の引込思案がなくなり、生活目的が愈々遠大となり、畏れることが少なくなり、国家教育の改造を一日も早く行はせなければならぬという大胆なる念願を禁ずる能はざるに至つた等がそれである。[同 四〇六頁]
それまで探求してきた学問的教育実践的な教育論と日蓮正宗の信仰にまったく齟齬がないことがわかったという。「要するに創価教育学の思想体系の根底が、法華経の肝心にあると断言し得るに至つた事は余の無上幸栄とする所で、従つて日本のみならず世界に向つてその法によらざれば真の教育改良は不可能であると断言して憚らぬと確信するに至つた」という。だが、恐らく新たな信仰世界と「創価教育学の説明せんとする教育法との関係は如何」[同 四一〇頁]という問題に十分な解答を与えるには多少の時間が必要だったことだろう。
勿論最初から経文を演繹したのではない。中途からといふよりは、最後の粗ぼ完成期に至り、第一巻発表以後であるが、端なく法華経を信解するにより今まで無意識の進行が期せずして一致しゐるが如きに驚き、益々進んで見ると、法華経の中の肝心が吾々の
生活法の総体的根本的のものであるといふことが解つたに就て、更に大なる驚異と歓喜を感ずると共に、なほよく見直すことによつて、価値判定の標準等に重大なる欠陥があつたことに気付き、善悪の判定が初めて正確となるに至り、それから多くの追加補充をしなければばならぬ所が生じ、以て右の自信を得るに至つたのである。[同 四一一頁]
『創価教育学体系第一巻』刊行の段階で、牧口がすでに日蓮正宗の在家集団のリーダーとなるほど日蓮正宗の信仰世界に習熟していたわけではないことは明らかだが、ではその後の歩みはどうか。牧口は小学校の校長を退職する一九三二年頃には、創価教育学を掲げて諸処で教師を対象とした講演を行う一方、戸田城聖が経営する学習塾、時習学館などで日蓮正宗の教義の研鑽と信仰深化のための学習活動を行っていた。若手教育者への啓発活動と日蓮正宗の在家講が合体し、人生の目的にまで言及しつつ教育理念を問う活動はすでに一九三四年には行われていたようである。宗教的次元を核心としつつも、ふつうの日蓮正宗の信徒集団とは区別される、創価教育学会独自の集団が形成されたのはこの時期と言えるだろう。
一九三五年には月刊機関誌『新教』が、翌年にはそれを引き継いで『教育改造』が刊行されている。三七年には『創価教育法の科学的超宗教的実験証明』が刊行され、教育に力点を置いた日蓮正宗の在家信仰集団としての活動が本格化している。「実験証明」というのは、牧口が考案した教育法を実践してその成果を確かめようという教育運動に由来する語だが、この時期には日蓮正宗の信仰を日々実践することによって、確実に「現証」があがることを確かめるものであり、宗教運動としての創価教育学会の運動のキイタームの一つである。
宗教集団としての性格が固まる時期に、もう一つ創価教育学会のキイタームとなるのは「大善生活法」である。「大善」「小善」、あるいは「中善」といった語は、一九三〇年代も末になって以降、ますます頻繁に用いられるようになってくる。一九四一年から四二年にかけて刊行された月刊の『価値創造』に寄せられた牧口の稿はほとんどすべて「大善」の理念の解説にあてられている。「大善」や「小善」の語は日蓮の消息(書簡)で度々用いられている。たとえば、「善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし」(「南條兵衛七郎殿御書」)といったように、正しい信仰に全面的に帰依せずに中途半端な態度をとることが戒められている(3)。牧口はこの語を善の主要な種別に関わる語として用いる。善は美利善の最上位の価値なのだが、どのような善を選ぶかは、もっぱら「小善」を捨て「大善」を選ぶという観点から論じられるようになる。なぜなら、「大善」こそ人生の究極の目的に関わる善だからだという。そして、その「大善」とは実際には、日蓮正宗に帰依し、その信仰実践を行うことを意味する。
こうして、日蓮正宗の中での創価教育学会の独自の活動は「大善生活実験証明座談会」に集約されていくことになる。座談会は家庭などで行われる小規模の集会だが、別に総会という同主旨の大集会も開かれた。一九四一年一一月二日に行われた創価教育学会総会はに四〇〇名を集めて神田一ツ橋の帝国教育会館で行われたが、その様子について、『価値創造』第四号は次のように伝えている(「総会の意義とその盛況」)。
牧口先生の御講演内容は、「価値創造」の既刊来の各号に掲載されて来た「大善生活法」 の要旨であつた。(中略)そして先生の「大善生活法」を更に意義づけたものは、各階級各年代層の会員諸氏が、交々起つて述べた貴重な体験談で、そのいづれもが、牧口先生の御言葉を真に価値あらすめたといふ事が出来よう。(中略)創価教育学会の総会は恰も医学者や物理学者の学説発表大講演会の如く常に必ず実証を伴ふ。しかも、それらが物質を対象として証明を行ふに反して、吾が学会の総会は生活者の生活上に於ける「大善生活法」の実証を発表するのであるから、単にこの種の大会といふ見地から見ても、唯一最高のものといへるのである。
座談会の例を見よう。一九四二年三月一〇日、午後六時半から九時まで、福田理事宅で行われた神田支部座談会の報告記事が『価値創造』第八号(四二年四月一〇日刊)に掲載されている。この座談会は戸田城聖理事長がリーダーで会員三〇数名が出席した。自己紹介に続いて体験談があった。たとえば、次のようなものである。「福田氏。業績不振の苦境にある折、人の来りて助くるを待てど其の甲斐なし。よつて援けなきをむしろ怨みと為す。延いては御本尊にさへ疑心を有するに至る。/この苦境にありて三省熟考、この点は唯御本尊の御加護を信じ、先輩盟友を信頼して、奮闘努力以外に良法なしと大に精進す、次第に暗雲晴れて前途に大いなる光明を見出すに至る。」このような「実験証明」の体験談を数人が語った後、戸田城聖がしめくくって、牧口先生のお話を単に論説教義として聞くのではなく、日常生活に実践することこそ重要であると述べる。「生活、即ち、信――主人を信ずる。行――自己の業績に全力を注ぐ。学――唯徒に働くのみならず、財、時共に経済的に能率の最高を発揮すべく研究し体系組織立てる」(「主人を信ずる」は「師を信ずる」の意味か)。信、行、学をともに実践してこそ全きものであるとの戸田の発言は説法とよぶべきものであろう。
牧口は一九四三年七月に検挙され、直ちに特高第二課長の訊問を受けたが、その記録である「創価教育学会々長牧口常三郎に対する訊問調書抜粋」(『特高月報』昭和一八年八月分)によると、牧口は当時の創価教育学会会員は全部で一五〇〇名ぐらいだと述べている。「訊問調書抜粋」の末尾は、「私が直接指導に依つて皇太神宮の大麻や其他の神宮・神社・仏閣等の神札・守札・神棚等を取毀焼却した者は現在迄で五百人以上あると思ひます」との答を記して結ばれている。自らは害を被っても弟子達に害が及ばないよう、覚悟の上の配慮がうかがわれる一節である。
(以下、核心部分は書物でご覧下さい。)