東京での大谷いづみ先生支援の第2回の集いの記録です。
1 日時:2018年3月26日(月)13:30~17:00(予定より30分延長した)
2 場所:上智大学中央図書館棟L911会議室
3 参加者:関係者をいれて48名(前回20名)
4 集いの主な内容:
Ⅰ 大谷先生の講演「カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』からみる「生命倫理」?―<我々>と<彼ら>を分かつもの、分かち得ぬもの―」
(1) 講演の概略
・資料をもとに、自己紹介から始め、生命倫理との出会い、生命倫理教育から尊厳死言説研究への転身、どの授業も<我々>と<彼ら>という問題が組み込まれていることをまず話され、イシグロの作品に関して次のような話をされました。
・『わたしを離さないで』は映画からはいり、四回見てセリフを書きとって原作と照合しながら分析するところからはじめた。蜷川演出の舞台は見損ねている。テレビ版は原作とも映画とも異なる設定がいくつかあって興味深い。事態が落ち着いて論文にまとめられる状態になることを願っている。
・原作、映画版、テレビ版ともに『わたしを離さないで』は臓器提供を使命として作られたクローンたちの短い生涯の青春の数ページを描いた作品。臓器移植を徹底的にドナーの側から描いている。
・臓器移植医療の倫理的問題は、生存を望まれる者vs.犠牲となることを期待される者という構図があること。これは脳死移植だけでなく生体移植でも同じ。
・映画で注目したのは、ヘールシャムで掲げられていたキャンペーン・ポスター。ブルーレイ版の付録に映画で用いられたポスター集がついている。それには、「活力・健康を保つために果物をたべよう」から「運動を続けて健康を維持しよう」「健康を保ち、いのちを与えよう」「健全な身体、健全なこころ」、さらに「彼らも考え、感じ、苦しむ あなたのご支援で私たちのドナーの生が変わります」、そして「目には目を、歯には歯を、生命には生命を?」など。マダムとエミリー校長の居間に掲げられたポスターにはヘールシャムという施設が持つ意図が明確に言語化されている。
・クローンたちはなぜ抗わないのか。それは徹底してドナーとしての使命をうけいれていくよう隠れたカリキュラムで訓育されているからと読める。その構造は、個人の自己決定を装う「生命の質による序列化と死への廃棄」という、生命倫理問題をとりまく現代社会の構造のなかで、私たちが陥っている状況とパラレルでもある。それを白日のもとにさらすのは、原作の最後の部分で語られるマダムとエミリー先生の言葉にある。
・イシグロは、「私たちはやがて死を迎える。人生を全力で生きることはできるが、運命を避けることは出来ない。だからキャシーたちは運命から逃げようとしない」とインタビューでいっているが、それだと尊厳死言説そのものになってしまう。
・現代の私たちが陥っている<我々>vs.<彼ら>の構造は、人間とクローンというこの作品の設定だけはない。富裕層/貧困層、ホワイト/カラード、健常者/障害者、知識人/情報弱者、正規雇用者/非正規雇用者など、現在でもいたるところにころがっている。それを見逃すことはできない。
・また、作品のなかで使われるdecent lifeという言葉の多義性に注目したい。作品のタイトルNever Let Me GoのGoは私を逝かせないで、私を忘れないでと読める。
・<我々>vs.<彼ら>を分かつものと分かち得ぬもの双方を見据えたい。それは単純な対立構造ではない。自分をどこにポジショニングするかで<我々/彼ら>は交錯する。
・人は見たいものしか見ないし、見たいものしか見えない。聞き手がいなければ、助けを求める声もノイズにしかならない。
・成功例に注目が集まるが、教育はそもそも賽の河原のような営み。同じように、これまで、声を上げても踏みつぶされてきた民草の累々たる死骸の上に現在がある。声を上げる人がいてこそ、#MeTooから#WeTooへの連帯が可能となる。他方で、ジェンダー・バイヤス、ディスアビリティ・バイヤスを正当化するホモ・ソーシャルな絆のような抑圧する側の連帯もある。
・だからこそ、前回の講演の最後に述べた、世界/社会とは何か、この世界/社会を構成しているわたしとは何ものなのかという問いに問いを立て直すことが必要。社会の影響を受けない「わたし」の選択はありえないが、その「わたし」が社会を構成しているからだ。
・教育研究をとおした営みで、いつも生徒たち・学生たちの応答に教えられ、助けられてきた。わたしは触媒のようなもので、やがて学生同士が学び合う。複数の<わたし・たち>を跨ぐことで<我々> vs.<彼ら>の対立構図を超える地平を拓くことができると信じている。
※講演で使用した大谷先生の論文は以下の通りとのことです:
・大谷いづみ, 2011,「「いのちの教育」: 臓器提供を 「訓育」 する装置?: カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を「豚のPちゃん」の教育実践とともに読み解く」『立命館産業社会論集』47(4): 237-258
・大谷いづみ, 2012,「犠牲を期待される者——「死を掛け金に求められる承認」という隘路」『現代思想』40(7): 198-209
・大谷いづみ, 2012,「患者および一般市民のための生命倫理教育」『医療倫理教育』(シリーズ生命倫理学19巻, 丸善, 208-127
・大谷いづみ, 2013, 「「理性的自殺」がとりこぼすもの——続・「死を掛け金にして求められる承認」という隘路」(特集:自殺論)『現代思想』41(7) 162-177
・大谷いづみ,2016, 「人間の尊厳と死——「死の尊厳」の語られ方を読み解く」柏木恵子・高橋惠子編『人口の心理学へ——少子高齢社会の命と心』ちとせプレス, 183-197
・大谷いづみ,2016,「「生きるに値しない生命終結の許容」はどのように語られたか」(緊急特集:相模原障害者殺傷事件)『現代思想』44(19): 102-113
・大谷いづみ,2017,「社会に広がる「迷惑」視意識」(相模原障害者殺傷事件の植松被告起訴にあたって)『京都新聞』2月25日朝刊
(2)大谷講演に関する質疑
・講演に関して内容の確認や質疑、感想などの発言があり、第一部を終了しました。
第二部 島薗進先生による講演「大谷さんの事件をどうとらえるか」
Ⅱ 休憩後、島薗先生による講演が行われ、以下のような話が述べられました。
(1) 大谷さんとの出会い
・2000年頃東大の死生学のプロジェクトで知り合い、研究に注目し、交流を重ねていた。2015年にサバティカルでの受け入れ教員となり、そのつながりもあり、今回の支援活動に参加している。
(2) カズオ・イシグロの本のどこに注目したか。
・死にゆく存在の実存的な苦境を描いている点に注目した。
・ただし、decent lifeという表現は皮肉のこもった言い方ではないかと感じた。現代の社会に対する批判が込められていることは事実。
(3) 今回の事件の捉え方①-立命館大学の対応の問題
・今の大学のおかしさから捉え直してみたい。現在の大学は業績主義になっていて、それが自己責任論と「生産性が低い」とされる人間を差別する構造を生み出している。また、今回の事例で言えば、大学は、構内に入る義務があるといっている加害者を守り、被害者に圧迫をかけることになっている。
(4) 今回の事件の捉え方②-大学の自治能力の低下
・大学の自治能力が低下している。それがコンプライアンス室が表に出てきて形式的な対応をしてくる理由でもあろう。
・加害者は謝るとは言っているが、譲る気はないし、大学はそれに対して弱腰である。処分からして甘い。なぜ、そこまで加害者を守るのか、また、対応が異常に遅いのも問題である。
(5) 大学の政治的統制と自治能力の後退から見る今回の事件
・大学を衰弱させる「文系学部廃止」の中での動きでもある。また、軍事研究費の問題、プログラム・オフィサー制度など産官軍と学の共同傾向も自治能力を後退させる要因である。
・そのようななか短期業績主義的な展開がひろがっている。立命館大学は改革の先進校として有名であり、そのなかで起きた事件、その後の対応である。立命館の現在を知るためにも改革の関係者の言説を吟味してもらいたい。
(6)島薗先生の話のあと、大谷先生から裁判の現状と、現在の状況に対する補足があり、二つの講演は終了しました。
Ⅲ 参加者からの意見交流
その後、当日の参加者全員から一言ずつ、意見や感想をお聞きして交流を行いました。
・大谷先生の教えをうけたことのある参加者や学校関係者からは、高校時代の授業を思い出すものであったこと、講演のなかのヘールシャムの構造の指摘に触発されて、学校のもつ構造的な問題や現在の学校の問題などが体験とともに語られました。
・大谷先生の研究の進捗を期待する声が多くあがり、立命館で起きた事件とその対応に関しての批判が出されました。
・カズオ・イシグロの作品に対する新たな視点を与えられたとの声もありました。
・また、今回は、自分の体験や現在取り組んでいる福島などの支援活動と講演内容を関連させた発言が多く寄せられました。それだけ講演内容が現代の構造的な問題と重なってインパクトが大きかったと言えるのではないかと思います。
・発言者の多くの方から、事件とその後の大学対応の批判と、大谷先生の研究、教育への正常な状態への回復に関して、良い結果が出るように強く支援したいとの意見表明が行われました。
・なお、当日、感想や意見を書かれた方の文章は、別途、ご許可をいただいた上でお伝えしたいと考えています。
以上
記録とまとめ:新井 明
なお、大谷先生、島薗先生の加筆、訂正をいただいています。
参加者からのコメントです。
田坂さつき(立正大学教授)
ご講義された内容は、この何年もの間、大谷さんが教育研究の中で構築された実りで、大谷さん以外にこのようにクリアに問題提起をされた方はおられないのではないかと思います。大谷さんが、研究教育の場を奪われたことの損失は計
りしれません。女性であり、障害をおもちの大谷さんの教育研究環境を回復するために、連帯できればと思います。