東京での大谷いづみ先生支援の第2回の集いは以下に記録があります。
3月26日に行われた、第二回大谷いづみ先生を囲む集い(東京)では、第二部として、参加のかた方全員に一言ずつの感想を述べていただきました。また、多くの方々から、会の終了後、感想や意見を頂戴しました。
以下の文章は、当日いただいた文章とその後お送りいただいた感想の一部を、当日の進行役の新井が整理してまとめたものです。
なお、お寄せいただいた方のお名前は、第一回の集いの記録と同様にアルファベットとさせていただいていることをご了承ください。
○ 本日は、このような貴重な機会をいただきありがとうございます。
大谷さんが考えることと、書くことと、生きることが同義だと言われているにもかかわらず、教育研究の場が奪われていることについては、やるせない思いです。
第一部でご講義された内容は、この何年もの間、大谷先生が教育研究の中で構築された実りで、大谷さん以外にこのようにクリアに問題提起をされた方はおられないのではないかと思います。私の大学での講義でも、大谷さんが編集された生命倫理の教科書を使っており、当分変えるつもりはありません。カズオイシグロがノーベル文学賞を受賞したので、大谷さんの論文を哲学科の学生に読ませて、DVDの一部を一緒にみて考えました。
大谷さんが、研究教育の場を奪われたことの損失は計りしれません。それを回復するために、何か出来ることはないかと思います。ハラスメント事件は、大学内での対応になるので、なかなか解決を外から促すのは難しいかもしれませんが、女性であり、障害をおもちの大谷先生の教育研究環境を回復するために、連帯できればと思います。
<要望など> 一人一人が話す時間を十分にとらないと、今後の活動などにつながらないと思います。(参加者A)
○ 大谷さんの事件を一個人のことではなく、短期的な成果や効率を求める大学の変質や日本の社会のあり方(相模原事件や加計事件)との接点についても述べられて、深く考える機会をいただきました。
被害を受けた側が守られず、我慢させられる構図はほんとうに至る所で起きていて、自分がそういう見方にからめとられないように注意しなければと自戒しました。
大谷さんと1990年くらいに、お互いに大学教員ではないときにpp21で出会って、とても教員として素敵な人だと思ってきたので、職に、困難のない状態で、また楽しく働ける状態で復帰されるのを期待しています。
研究は刺激しあってゆきましょう。(参加者B)
○ 友人からお聞きしていた大谷先生のイメージと実際にお会いしたイメージの違いに驚きました。ともかく明るく前向きでプラス思考だと思います。(参加者C)
○ Never let me goの邦題にはずっと疑問を持っていて改めて考えています。
30年前、セクハラ、パワハラを受けていたとき、「将来ある人を守る」という視点で加害者側をかばう姿勢だった上司と30年後の今日が変わらないことを思いました。
障害者が障害者であることで二重に差別されていること、いかにそれらについて発信をつづけていくかが重要と思います。
<要望など> 大谷さんの体力を考えて、大事にしてください。多くの方々が支援していることでありがたく思いました。(参加者D)
○ すばらしいお話でした。
「出生前診断で生むか?生まないか?と問われたとしたら、そのどちらも、私だ」、とおっしゃった言葉にとても共感しました。というか、私もそうです。被害者にも加害者にもなり得る、そのどちらにポジショニングするか? 大きな問いですが、答えはあるのでしょうか。無理に答えようとすると、被害者と加害者に分け隔てられる構造を支えてしまうような気もします。どちらも持っている<私>をそのまま、ていねいに持ち続けるしかないのかなと思いました。長いスパンでと思いつつ、一方では出生前診断の利用が拡大する現実に、あせる気持ちもあります。
大谷さんは、学びたい人がいる場所に居ていただきたい方だと、今日のお話と、もと学生さんたちのお話から、あらためて強く思いました。そのために大谷さんが費やさねばならないエネルギー、苦痛を思うと胸が痛みます。
どうぞお身体をお大切に。最後まで居られず残念ですが、閉会前に失礼します。(参加者E)
○ 事件の報告の部と、研究報告の部という構成はとても良い。
事件が解決しても(うまくゆきますように)生命倫理研究の場(学問的レベルにはこだわらず)としても展開していただくことがよいかと。
大谷先生ならではの報告でしたが、私たちは発表内容の共有化を図る必要ありだと思いました。(参加者F)
○ 最近、売れている本のなかに「ポジションをとれ」(落合陽一『日本再興戦略』)というものがある。大谷いづみ先生は、人生をかけてポジションをとる(自分で問題と思ったことを人ごとにしない)先生であるのだと、今日はじめて講演を聴いて思った。
今回の会に先だって視聴した映画『わたしを離さないで』は衝撃的だった。それを学問としてわかりやすく伝えてくださり…でも、人間の尊さよりも、汚さ、エゴ、いやなところを突きつけられるので、後味としては悪い(すみません)。だから、授業でも最近扱う先生が少なく、実践も増えないのではないかと思う。現に、大谷先生以降、新たな実践は数えるほどしかない(生命倫理)。
今日、大谷先生の講演を聴き、私とは何か、何のために生きるのか、普段から考えていたつもりだが、改めて考えたいと思った。ポジションをとるにはリスクを伴う。明確なポジションはその分かりやすさゆえに、他者からの批判の対象にされやすいからだ。それでもなお、自分の軸を決めて、問うてゆきたい。教師としてのポジションを。その際、社会の流れ、歴史、様々なものをうけとめ、自分らしさを出してゆきたい。…まとまっていませんが、色々と考えさせられる時間でした。ありがとうございました。
<要望など> 「支援の会」というタイトルより集いやすい。大谷いづみ先生の講演は、大変勉強になり、参加することが出来て良かった。被害者にならなければ、見えない景色がある。しかしそれを「被害」とできるかは、当事者ではなく、当事者の周囲や認識の問題になってしまう…(私自身もセクハラ、職場いじめなど、実は被害の経験があります)その難しさに立ち向かい、行動してゆく皆様に敬意を表します。応援しています!!(参加者G)
○ 無理しないで。(参加者H)
○ よき生・死を考えることが、「質の高い命と質の低い命」という考え方につながること、大学の業績主義が差別を正当化すること、合理性、論理的一貫性を重視することが多面性を切り捨てること、どれもつながっているし、現代の大きな流れなのかなと思いました。
自分自身、合理性ばかり重視することが多いのですが、立ち止まって反省したいと思ました。(参加者I)
○ 自分がどのような姿勢で参加すればいいのか、戸惑いつつ参加したのだが、やはり戸惑いの気持ちは残したままずっと「集い」に参加していた。
研究報告としては、とても私的なものを含んでいる。かといって「私的(パーソナル)」なこと一辺倒の講演でもなく、大谷さんのはつらつとした話し方に触れて研究や報告として公的なものとしえないところに、事件の深刻さがあるのだと考えさせられた。
講演の内容のなかで、「法は見えるルールを語るが、倫理は見えないルールを語る」という言葉が印象的だった。「倫理」について思考し続けた大谷さんが、暴力的な事件の被害者になるというとても残酷な出来事がこの事件なのだと思うが、そのようななかでも学究的な姿勢で、事件を「昇華」させようとされているのが印象的だった。とはいえ、個々の人間にとって、あまりに重い出来事は「昇華」などできるのか、と不安にもなってしまった。
明らかに事件は「マイナス」のことなのだと思うが(加害者にとっても被害者にとっても)、「マイナスの出来事から学ぶことがある」というポジティブな姿勢に感銘を受けた。
大谷さんが望むような研究生活に復帰できることを陰ながら応援したい。
<要望など> 大谷さんの負担にならない限り続けるのが良いと思う。(参加者J)
○ 加害者と被害者という線引きのあいまいさ、<私たち>と<彼ら>という問題意識を明確に言語化されていたのがとても印象的だった。
また、尊厳死や人工中絶など、あたかも人間にあたえられた、人間らしい権利であると思い込んでいる状況、学校や授業が、教師が生徒に期待する「出来レース」になっている状況、自分にとって(社会や大多数にとって)不都合なことを言う相手の声を「ノイズ化」することはいとも容易であるということを考えた。また、こうして、大谷先生が声を上げられたこと、そして微力ながらその集いに参加できたことをうれしく思います。
私は声を上げることなく、その場から逃げてそして逃げたことによって、ずっとさいなまれていました。大谷先生のお姿を拝見し、私に出来ることがあれば何か出来ないかと思いました。
またぜひ参加させていただきたく思います。本日はありがとうございました。
(参加者K)
○ 今日の大谷先生のお話の表題である<私たち>と<彼ら>ということで思い出したことがあります。
私が小学校に通っていたときに、そこには養護学級があったのですが、あまり交流がありませんでした。というのも、休み時間、そのクラスの子がそとで遊ぶときなど、先生がつききりで世話(見張るといえるような…)をしていたのです。一緒に遊びたくて近くに行っても、先生が「今、○○さんが遊んでいるから待ってね。別のところで~」と言われてしまうので、たいして仲良くなる機会もありませんでした。この先生らの養護学級生への態度は、私たちだけがこの子たちの良さを分かってあげられる、差別から守ってあげねば、といった様子が伺え、どうにもギマン的に感じられてしかたがありませんでした。
このエピソードからも見られるように、手をつなぎ仲間意識を形成し、<私たち>と<彼ら>というグループを作り出すことは、内と外を作り出し、ひいては不対等、疎外、差異感をうみだしているのではないかと考えました。(参加者L)
○ そこにある命をそのまま大事にすること、そういう共通認識をつくっていくことが、どう可能かと、ことに「やまゆり園」事件以来、考えています。
3・11の震災以降、福島にかかわって活動してきましたが、7年を経て、放射能の影響が「ある」ことを伝えようとする活動を指して、「差別を助長する」と批判して、不安を口にすることもできなくするような同調圧力がいよいよ強まっています。「差別をつくりだす」という批判が依拠しているのは「福島の女の子たちが、私は子どもが産めるのか、結婚できるのか」と問わねばならなくさせているではないか、ということだったりします。「事実」を隠蔽して復興に動員するために、このような「批判」を、社会学者等が流布するのですが、しかし、「私は子どもを産めるのか」という問い自体に、非常に深いところで一般化されてしまっている命への差別が埋め込まれていると思います。
「差別を助長している」と批判する言説にどう向き合うのか。差別を払拭するのだとして「産んでも大丈夫」という言葉が使われた時、本質的に乗り越えるべきものをそのまま放置してしまっていることが、むしろ立ち上がってきます。
そんなことを考えながら、とても根本的、本質的なところから、私たちの命への考え方が問われているなあと思い、考えを深めるために、参加させていただきました。
(参加者M)
○ 第2回も大変刺激的で 思考を揺さぶられました。ありがとうございました。
殊に大谷先生の講義が、今私が心身を大きく傾けている「福島」についての自分の問題意識とあまりにも重なっていて恐ろしいほどでした。
アンケートに整理して書くことは とてもできませんでしたので、今もなおまとまってはいませんが、お世話くださいました新井先生への御礼とあわせて雑文を送信いたします。こんな受けとめ方もあったのだと ご一読いただけましたら幸甚です。
イシグロの 「わたしを離さないで」を精読しきれていませんが、読後感を一口に言えば 何とも重い「違和感」と「気色悪さ」です。
そのもやもやが 大谷先生の講義で 「そういうことなのだ」と自分なりに整理できました。
1. 臓器を「提供」するためにだけ造られたクローンという存在。
2. その理不尽と諦観との共存。
3. 「彼ら」と「私たち」とが「同じ」だとも読み取れる。(誰にも不可避の「死」を据えて 「皆同じ」と言うのか? あれだけ誤魔化しようもなく線引きされ対置されているのに? 「死」という万人の「運命」と臓器提供のために造られてそれまで生かされる「運命」を同一視することはできない。)
ここまでが 読後感の整理で、以下、大谷先生の講義を受けてさらに気付いたり感じ考えたことです。
4. イシグロは、その線引きの理不尽さといかがわしさを私たちの前に置いて見せたのか?
5. 「Never let me go」は、介護人という猶予を解かれて提供者になるキャシーの叫びなのか?
6. イシグロは、この作品を諦観で締めくくったのではなく、私たちを「もうひとつのパラレルワールド」に向かわせる静かな挑発をしているのか?
それでも残る疑問。
7. エミリやマダムが、技術の「進歩」によって可能になった地点からは「逆戻りできない」と考えている。イシグロはその考えについては、自身も是認したうえで私たちに「警告」しているのか?
私は是認しません。そっくり「逆戻り」はできないとしても、人間がつくった技術や仕組みは人間が別の方法で止めたり変えることができる、そのことに希望をつなぎたいのです。
たとえば 原爆、原発。
「わたしを離さないで」に即した感想などはここまでです。
大谷先生の講義の切り口・解析と 「福島」との重なりについて。今回、大谷先生の講義を聴いて 私が得たキーワードは「線引き·分断」です。福島ではあらゆる場であらゆるレベルの分断が引き起こされています。
政府による情報操作、知っている者と知らない・知らされない者、場当たり的便宜的な避難指示指定区域と指定外区域、避難した(避難するしかなかった)人々と避難しなかった(できなかった)人々、放射能を恐れ心配する人と安全だと信じている(信じたい)人。
地域でも家庭でもひとりひとりの人格の中でさえも 「あの人とは違う」「私は違う」、その強いられた「選択」と連動される補償・支援の格差、……… 。
これ等の重なりに思い当たって、あらためて身震いします。
大谷先生の置かれた理不尽な状況を 一日も早く打開したい、その思いを抱きながらも 私の顔は 「福島」や東北の被災地 沖縄に向いています。根っこはつながっていると自分には言い聞かせつつ。(参加者N)
○・「わたしを離さないで」からみる「生命倫理」?を通じて
本当に久しぶりに聞いた大谷先生の授業は、懐かしさと新鮮さが入り混じっていました。
「懐かしさ」については、高校時代に感じた迫力であり、多面的に物事を見て考えることの大事さを改めて思い出したことです。
「新鮮さ」については、社会人として多少の経験を積んだ状態で大谷先生の話を聞き、自分自身の体験、経験と照らし合わせて考えることができる感覚です。
今までの自分自身の経験や考えてきたことから「あれ?ヘールシャムって私たちの社会そのものじゃないの?」という疑問が自然に湧いてくるのを感じました。
高校時代には引き出せるような経験、体験が無かったこともあり、このような感覚は得ることができなかったので新鮮でした。
そして、小説を読み始めました・・・。
・全体を通じて
最近の社会の風潮として右傾化と言いますか、効率重視、効率主義の考え方が強くなってきていると感じてはいましたが、それをあまり良くないことだと捉えていませんでした。
先日の会に参加し、それが全体最適の視点で考えると随分よろしくないと気づきました。
また「ハラスメント」というのは本来丁寧に行うべき手続きを簡略化したり、すっ飛ばしてしまうから起こるものだと理解しました。
効率主義の考え方だと手続きはなるべく簡略化、結論早くということになってしまうので、効率主義の考え方が蔓延ると社会全体がハラスメント体質になってしまうのだと思いました。
社会人として最初に入ったエレベーターメーカーで、一生懸命働いて会社を立て直して社員の給料も上げることができたけれど、社長から追い出される羽目になったとき、意外に社員の方も私を追い出すのに賛成していた方は多かったです。
当時はとてもショックを受けたのですが、その理由も上記のハラスメント体質と似たようなものなのかと思います。
自分の中では会社を立て直してみんなの給料上げたのだから俺を尊敬するのが当たり前だろう、俺のやっていることが正しいのだから理解するのが当たり前だろう、という気持ちがありました。
この気持ちこそがハラスメント体質そのもので、結果として、自分の行動は周囲に対するアカウンタビリティの欠けるものになっていき、一生懸命努力したことで返って追い出されるという結果にもつながってしまった気がしています。
それはそれでいい学びになり、自分の会社を立ち上げた現在のほうが、当時より(経済的には厳しいながらも)明るく楽しく仕事ができていると自分としては思っているので、そこまで強くは振り返っていませんでした。
改めて、「自分から見て『弱者』だと感じる人々に対する視点」を忘れないことが、結果的に自分自身にも良い形で返ってくるのだろうし、逆もまた然りなのだろうと思いました。
そして、それが自分はとても苦手だからこそ、もっともっと大谷先生のお話をお聞きしたいとも思いました。
自分は「強く生きていかなければならない」という気持ちがとてもとても強いです。
その部分に絞って生きていくことは考えずとも性格でできるので「効率」としては良いのですが、選択や行動の質が下がるので思わぬ悲しい結果を生むことに繋がり、結果「能率」が低くなってしまうのだなと思います。
自分自身の性格や過去の出来事に引きこもったりせず、もっと色々な人々の話を聞いて考えていきたいなぁと思えました。
おかげ様で、とても刺激的で学びのある一日を過ごすことができました。(参加者O)